伊邇色神社:満天ニ鳴ル花 五月雨隼人篇 02

投稿日:

2030321-2026-04-11-07-00.jpg

「宇佐氏の祖先に出てくるイニシキイリヒコですが、なんと式外社で鹿児島に彼を祀る神社がありますね」

と、B氏がおっしゃるので訪ねてみましたが、鹿児島市下伊敷の高台の住宅街の、とんでもなく狭い道の先にありましたよ、「伊邇色神社」(いにしきじんじゃ)は。。

2030322-2026-04-11-07-00.jpg

社名にもある伊邇色入彦之命(いにしきいりひこのみこと)は、11代大君の垂仁帝(物部イクメ)の第二皇子とされますが、由緒によれば「天下に周遊し、池塘を堀り、水を導き、開墾して大いに民にとっての功を残した。そこで行在所(あんざいしょ)の跡に一社を建て、祀を奉じて、地名を伊邇色村と称した」とあります。

2030327-2026-04-11-07-00.jpg

イニシキイリヒコは、『日本書紀』では「五十瓊敷入彦命」「五十瓊敷命」「五十瓊敷皇子」、『古事記』では「印色入日子命」と表記される人物です。
12代景行大君の同母兄で、物部イクメと、磯城(和邇)大和王朝最後の大君「彦道主」の娘「日葉酢媛」(ひばすひめ)との間に生まれました。
妹には大和姫もいます。

2030323-2026-04-11-07-00.jpg

イニシキイリヒコで有名な話としては、『古事記』では鳥取の河上宮にて、『日本書紀』では大阪の「菟砥川上宮」(うとのかわかみのみや)にて、剣ないしは太刀を1千口作り、石上神宮に納めたというものがあります。

2030324-2026-04-11-07-00.jpg

彼の墓は延長5年(927年)成立の『延喜式』諸陵寮(諸陵式)に「宇度墓」の名称で記載され、大阪府泉南郡岬町にある「宇度墓」(うどのはか)が治定されています。
また、岐阜市の「伊奈波神社」(いなばじんじゃ)社伝によると、イニシキイリヒコは朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が彼の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたと伝えられていました。景行天皇の皇女でイニシキイリヒコの妃である渟熨斗姫(ぬのしひめ)は、当地で朝夕ひたすら夫の御霊を慰めつつ生涯を終えたということです。

2030328-2026-04-11-07-00.jpg

当社の祭神はもちろん「伊邇色入彦之命」(いにしきいりひこのみこと)ですが、他に「天兒屋根命」(あめのこやねのみこと)「武甕槌神」(たけみかつちのかみ)「経津主神」(ふつぬしのかみ)
「比賣神」(ひめのかみ)も合わせ祀られており、春日神社あたりを合祀したのか中臣・藤原系の関与を窺わせます。

2030329-2026-04-11-07-00.jpg

当社神霊は昔から文武に秀で、農事に功があり、特に弓矢と角力を好まれ、往昔には流鏑馬や角力が奉納されていたそうです。
蝗の害があるときにはこの神に祈ればたちどころに蝗は壊滅し、晴雨祈願も随意に霊験があり、「歳之宮神社」(としのみやじんじゃ)とも呼び親しまれたそうです。
また、伊邇色神社の名称は日本でただ一社のみとのことです。

2030325-2026-04-11-07-00.jpg

B氏は

「イニシキイリヒコのお陰で、月神信仰の宇佐氏が、月神信仰の但馬国造に繋がる事がわかります」
「イニシキイリヒコの母系は日葉酢姫で、月神を祀る宇良神社の一族、丹波国造、日子坐、丹波道主命。これが宇佐の正体か」

と説明してくれましたが、僕はこれを聞いて混乱します。
宇佐族というのは、イニシキイリヒコよりも遥かに古い一族ではないか、と思うからです。
宇佐族・宇佐家と、ここでいう宇佐氏は別系統ということでしょうか。

2026-04-11-6.26.09-2026-04-11-07-00.jpg

更にB氏は、

「木花咲耶姫=サオヒメ、ニニギ垂仁天皇と繋がります」
「イニシキイリヒコは、日葉酢姫の兄弟かつ、腹違いでサオヒメの兄弟」

と説明されますが、イニシキイリヒコと日葉酢姫、サホ姫(サオヒメ?)は代が合わないように思われます。
「海部の勘注系図に登場する丹波道主(彦道主)の嫁の父と言われる、丹後国熊野郡の衆須神社の川上真稚の父・シリツヒコ(尻綱根)がイニシキイリヒコらしい」とのことですが、これもますます代が合わないことになります。
「イクメをニニギの神話に置き換えてある」との考えですが、大元出版の見解では、ニニギはイニエを置き換えたものとなっていました。

2030331-2026-04-11-07-00.jpg

うむむ、非常に難解です。
当地にイニシキイリヒコが祀られていることに関して、彼は川上部の祖と言われているそうですが、熊襲は「川上タケル」であり、当社の北東に川上町が隣接しています。
なるほど、古事記には川上タケルの名は出て来ず、「日本書紀」の所伝で、熊襲の首長の名のひとつとして「川上梟帥」が出てきます。
西征した小碓尊(おうすのみこと)に討たれた川上タケルが、死にぎわに尊の強さをたたえてヤマトタケルの名をおくったという話です。
これに似た話が、出雲の建部の郷にも伝えられていました。

2030332-2026-04-11-07-00.jpg

鹿児島のこの近辺では、当社以外にイニシキイリヒコに関する伝承が他に見当たらず、限定的に感じます。
個人的には、ヤマトタケル西征の話は、景行帝と共に九州入りした建部(たけるべ)、つまり物部軍として従事した出雲軍(神門軍)の話ではなかろうかと思われ、当地のイニシキイリヒコ伝承もその流れで生まれたものではないだろうか、という感想です。

2030335-2026-04-11-07-00.jpg

まあしかし、イニシキイリヒコに関しは謎も多いので、彼についてはひとまず保留というところでしょうか。

2030334-2026-04-11-07-00.jpg

それよりも伊邇色神社境内奥、本殿横にある供養碑の名前が、明らかに故意に削られているのが、ちょっと不気味でした。

2030336-2026-04-11-07-00.jpg

2件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110
    入彦の法則からすると、彼だけ特別である様に映ります。
    イクメの子として、東征開戦時にはすでに存在してないと入彦にならない気がします。

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      そう、その点がモヤモヤします。
      大和入りしたからこその入彦なんですよね🤔
      彼の存在はかなり浮いている。

コメントを残す