石上神宮:八雲ニ散ル花 60

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「ふるべ ふるべ ゆらゆらとふるべ」

全ての憂いを取り払い、物部イクメはついに大和の大王となろうとしていた。
丹波国で抵抗を続けた「彦道主大王」と「武内宿祢」だったが、イクメ軍の総攻撃に勝ち目が無いと悟った大王はついに降伏した。
約300年間続いた磯城・大和王朝は、ここに終わりを遂げた。

丹波攻撃を終えて大和に帰ったイクメ大王は、旧王都「和邇」付近を直轄地に定め、そこに物部の神を祀る社を建てた。
それは旧王朝を征服し、物部・大和王朝がその後継ぎとなったことを天下に示したのだ。

その社で、イクメの大王就任の祭りごとが行われていた。
ゆらゆらと揺れる松明の光が、幽玄な世界を創り出している。

やがて赤い光を放ちながら、御神体の剣が持ち込まれた。

「見よ、この美しい剣こそが、我が武力の象徴である。今ここに、太祖饒速日の念願たる王国を、和国の中心・大和に打ち立てたのだ。
これより永遠に、我が物部王国に繁栄あれ。」

空を見上げれば、曇天の空に鈍い朝日が昇り始めていた。
風は生ぬるく、嵐を呼ぶ湿気を多く含んでいた。

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奈良布留山の西北麓に鎮座する「石上神宮」(いそのかみじんぐう)は、4世紀の創建といわれる、日本最古の神社のひとつです。

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「日本書紀」には、「神宮」と記されたは社が二つあり、それが「伊勢神宮」と「石上神宮」になります。

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当地は現在、天理市布留町となっていますが、往古には彦道主大王が直轄地とした旧王都「和邇」(わに)の地であったと云います。

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鳥居の扁額には主祭神の「布都御魂大神」(ふつのみたまのおおかみ)の名があります。
旧王都にイクメ大王は社を築き、建布都大神社の御神体の剣をそこに納めました。
その社が石上神宮であり、旧王朝を征服し、物部王朝がその後継ぎとなったことを天下に示すことになったのです。

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参道を進むと「鏡池」があります。
本当に鏡のように、辺りの景色を映し出していました。
その光景を眺めていると、風がふわっと吹き、誰かが僕の背後から肩を叩いたような気がしました。
振り返って足元を見てみると、どんぐりの実が落ちていました。

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「祓所」です。
真っ白な石が清浄さを感じさせ、また玉垣に囲われた一本の木が印象的です。

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石上神宮の御神木には似た二つの話が伝わっています。

昔、布留川の下流で、1人の娘が洗濯をしていました。娘がふと頭を上げて川上を見ると、岩や木を切りながら流れてくる「剣」が目につきます。
娘があわてて避けようとした瞬間、洗いすすがれた白い布の中に剣が流れ込み、そのまま剣は布の中にぴたりと留まります。
「これはただごとではない、神様のされることだ」と、娘はさっそくその見事な剣を石上神宮に奉納しました。
そして、剣が布に留まった所ということから、「布留」という地名ができたということです。

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また、万葉集に「布留の神杉」と歌われている神杉にまつわる話が伝えられています。
やはり布留川で1人の女が白い布を洗っていると、上流から草木をなぎ倒しながら、泳ぐように流れを下ってくる細長いものが目につきます。
みるみるうちに白布にすっぽりと包まれたそれは、まばゆいばかりに光を放っている「鉾」でした。
女は鉾を川のほとりに立てて日ごとお祭りを欠かさずに行いましたが、やがて雨風にさらされて朽ち果ててしまったので、その地に穴を掘り、鉾先を埋めて祭りました。
すると、間もなくその地に杉が芽生え、「布留の神杉」となったということです。

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「布都」と「布留」、この違いについて福岡の那珂川町生まれである眞鍋大覚氏は、物部氏から続く代々暦法を生業とする家系の人だそうですが、氏によると、記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、「布都の御魂」は砂鉄を精錬した剣であると言っています。

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砂鉄の精錬は出雲で盛んに行われていたので、布都御魂は出雲製だったのかも知れません。
それに対し、布留御霊は星読みに長けていた物部製の特殊な剣だったような気がしています。

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美しい楼門をすぐにでも潜りたくなりますが、まずは右手の摂社をお参りしてみます。

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摂社「出雲建雄神社拝殿」(いずもたけおじんじゃはいでん)です。
この建物は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の遺構として国宝に指定されています。

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摂社「出雲建雄神社」(いずもたけおじんじゃ)です。
神代三剣の一振り「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)の「荒魂」(あらみたま)である 「出雲建雄神」(いずもたけおのかみ)を祀っています。
「布留邑智」(ふるのおち)という神主が、 ある夜、夢で託宣され、8つの霊石を得てお祀りしたということです。

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草薙剣とは三種の神器の一つとされる「天叢雲剣」(アメノムラクモノツルギ)のことですが、富家によるとそれは、海家の村雲が初代大和の大王に就任したときに出雲王家からお祝いに贈られた出雲型の銅剣と伝えています。

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記紀ではスサノオがヤマタノオロチを退治したときに大蛇の尾から出てきた剣と伝えています。
その剣は海家から分家した尾張家により持ち出され、今は熱田神宮に安置されていることになっています。

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出雲建雄神社のそばには神さびた摂社がほかにもあります。

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出雲建雄神社の横にある「猿田彦神社」、

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他には「高皇産霊神」(たかみむすびのかみ)「神皇産霊神」(かみむすびのかみ)の二座を祀る「天神社」、

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「生産霊神」(いくむすびのかみ)「足産霊神」(たるむすびのかみ)「魂留産霊神」(たまつめむすびのかみ)「大宮能売神」(おおみやのめのかみ)「御膳都神」(みけつかみ)「辞代主神」(ことしろぬしのかみ)「大直日神」(おおなおびのかみ)の七座を祀る、「七座社」です。

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こうして見ると、物部系の神の他に、海部系、出雲系など、様々な神が摂社として祀られていることに気がつきます。

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いよいよ楼門をくぐります。
鎌倉時代末期建立のこの門には、もとは鐘がついていたそうですが、明治の「神仏分離令」で取り外されています。
扁額には「萬古猶新」の字があり、「山縣有朋」の筆によるものと伝わります。
「時の移ろいと供に消えてゆくものではなく、本当に大切なものは不変である」という意味だそうです。

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菊の紋が、ここが天皇家ゆかりの聖地であることを示しています。

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主祭神は「布都御魂大神」(ふつのみたまのおおかみ)で、神代三剣の一振り「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊とされます。
配神は「布留御魂大神」(ふるのみたまのおおかみ)で、「十種神宝」(とくさのかんだから)に宿る神霊。
他には「布都斯魂大神」(ふつしみたまのおおかみ)で、神代三剣の一振り「天羽々斬剣」(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊です。

他に「宇摩志麻治命」(うましまじのみこと)「五十瓊敷命」(いにしきのみこと)「白河天皇」「市川臣命」(いちかわおみのみこと・石上神宮社家の祖)などです。

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「布都御魂剣」の由来については先に記しましたが、記紀には次のように語られています。
初代天皇である「神武天皇」は、東征の時、熊野で賊の毒気にあたって全軍が壊滅寸前の状態に陥りました。
その時、天照大神の指示で武甕槌(たけみかづち)は、高天原から「布都御魂」を、神武天皇の部下「高倉下」(たかくらじ)に授けました。
高倉下が神武天皇に布都御魂を献上すると、布都御魂の不思議な力、起死回生の力によって一行は蘇り、賊を退散させたと云います。

また、「ふつ」とは鋭く物を断ち切る音を表していると云われています。

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「天羽々斬剣」は高天原を追放になったスサノオが出雲で「八岐大蛇」を退治した時に使った剣です。
スサノオは八岐大蛇を酔わせて眠らせ、その隙に手に持っていた「天十握剣」(あめのとつかのつるぎ)で首を次々斬り落としました。
やがて大蛇の尻尾を斬った時、天十握剣の刃が折れたので不思議に思っていると、その尻尾か立派な剣が出てきます。
この八岐大蛇の尾から出てきた剣こそ、三種の神器のひとつ「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)であると古事記は記しています。

一方、八岐大蛇を斬った天十握剣は「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)と呼ばれ、後に「天羽々斬剣」と呼ばれます。
社伝によると天羽々斬剣は、「石上布都魂神社」(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝わります。
この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたそうです。

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配神の「宇摩志麻治命」(うましまじのみこと)とは物部氏の祖神とされていますが、彼は第1次物部東征の大将、長男「五瀬」(いつせ)が亡くなった後、弟の「稲飯」と「三毛入」のどちらがリーダーを継いだか分からなかったので創作された人物です。

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「五十瓊敷命」(イニシキノミコト)はイクメ大王の長男ですが、彼はイクメ大王の王位を後継せず、次男の「忍代別」(オシロワケ)が大王を継ぎました。
忍代別は後に「景行天皇」と贈り名をつけられ、あの「ヤマトタケル」のモデルとされています。

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拝殿の垣根から覗くと、本殿がわずかに垣間見えます。
この本殿は大正時代に建てられたもので、それ以前は、本殿がありませんでした。
なぜなら拝殿後方の、「布留社」と刻字した石の玉垣が囲う地は、御神体が鎮まる霊域として「石上布留高庭」(いそのかみふるのたかにわ)或いは「御本地」(ごほんち)、「神籬」(ひもろぎ)などと称せられ、「禁足地」として直接祀られていたからです。

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明治時代、石上神宮の宮司が思い切ってここを発掘してみると、四世紀の勾玉や鉾などを始め、無数の剣が出てきたと云います。
その中には「布都御魂剣」や「天羽々斬剣」があったというからびっくりです。

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長男の五十瓊敷は、和泉国日根郡鳥取郷の川上宮で、鉄剣1000本を作った、と云います。
そこでは中国山地の砂鉄で造られた地金を使って、鳥取から移住した工人たちが鍛造したそうです。
「垂仁紀」39年10月には、「五十瑣敷命は、茅淳の菟砥川上宮におられて、剣1000振を作られた。…石上神官におさめた」とあります。
また物部王朝時代は、石上神宮が重要視され、大王家の武器庫の役割を持っていたことが、先代旧事本紀に記されています。

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さらに発掘されたものの中に、国宝の「七支刀」という刀があります。
これは4世紀に、朝鮮半島の百済の王族から贈られたもので、敵を打ち破る霊力が備わった特別に鍛えた鉄が使われていると云います。

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これほどの霊力を秘めた剣の数々を手中にした物部氏の、軍事力は圧倒的だったでしょう。
物部王朝は3代までと、決して長くは続きませんでした。
しかしその後の平群王朝、蘇我王朝においても刑罰、警察、氏姓などの職務を担当し、更に兵器の製造・管理を主に管掌して軍事氏族へと成長していきます。
また呪術にも優れており、神道の祭祀を任されるようになっていきました。

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しかしそれほどの栄華を馳せていた物部氏も、栄枯盛衰の流れには逆らえませんでした。
八十物部(やそもののべ)と謳われた一族も、やがて、いわゆる聖徳太子の時代に崇仏派と対立し、滅ぼされるのです。

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石上神宮の奥へ進むと、地図上は「祓戸神社」へと続く参道がありますが、ここは立ち入り禁止となっています。
入ってはいけない、何かがあるのでしょうか。

物部氏の祖にあたる「饒速日」(にぎはやひ)は、高天原から天降る時、天津神から「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)を授けられたと伝えられています。
それは「瀛津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)「八握剣」(やつかのつるぎ)「生玉」(いくたま)「足玉」(たるたま)「死返玉」(まかるがへしのたま)「道返玉」(ちがへしのたま)「蛇比礼」(へみのひれ)「蜂比礼」(はちのひれ)「品物比礼」(くさぐさのもののひれ)の十種の神宝であり、饒速日の子、宇摩志麻治によって天皇に献上されたと云います。

宇摩志麻治がこの十種瑞宝を用いて、「鎮魂祭」(みたまふりのみまつり)を斎行したそうですが、その呪文が壮絶で、「死人をも蘇らす」霊力を秘めた儀式であると云うことです。

その呪文「布瑠の言」(ふるのこと)は『一(ひ)二(ふ)三(み)四(よ)五(い)六(む)七(な)八(や)九十(ここのたり)』と十種瑞宝を数えて、それをゆらゆらと振り、その後『布瑠部(ふるべ)由良由良都(ゆらゆらと)布瑠部(ふるべ)』と唱えるそうです。

ちなみにこの十種瑞宝は、今はもう現存しないようです。

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名実共に大和の大王になることができたイクメ大王ですが、その支配地は近畿方面だけであったそうです。
そこでイクメは、旧王朝の大王「彦道主王」の娘、「ヒバス姫」を后にしたいと考えました。
それが近畿方面を支配するためには、効果的であったのです。
ヒバス姫は勝利者の后になって、彦道主王の親族の便宜を計ってもらおうと考え、応じることにしました。

このヒバス姫は先の息子2人を儲けますが、もう1人女児を儲けました。
その姫が後に伊勢神宮を創建する「大和姫」なのです。

伊勢神宮は古名を「磯宮」(いそのみや)といい、「石上」(いそのかみ)との関係性が問われています。
また、伊勢神宮では大和姫のように神に仕える巫女を「斎宮」と呼びますが、石上神宮にも同じように、かつては「布都姫」という斎宮がいたとされています。

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