岩戸山古墳:八雲ニ散ル花 特番

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福岡県八女市に九州地方北部で最大規模の古墳、「岩戸山古墳」(いわとやまこふん)があります。
その巨大な前方後円墳は、「磐井の乱」(いわいのらん)で有名な、「筑紫君磐井」が生前に築いた古墳であると云います。

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駐車場に車を停め、古墳に向かって歩いていると、磐井氏の像がありました。
なかなか厳つい顔つきです。

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歴史では反乱を起こした国賊と扱われていますが、八女にこれほど大きな古墳を築かせたということは、それなりに慕う者も多かったということでしょうか。

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すぐに平たい場所に出ました。

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「別区」(べっく)と呼ばれる後円部に造られた広い空間です。

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この別区ようなものを持つ古墳は全国でもこの古墳だけだということで、『筑紫国風土記』によると、ここで裁判が行われていたらしい記述があります。

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また特別な祭祀場とも考えられています。

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別区の端に、埴輪のような石造物が並べられていました。

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円墳部をぐるりと回ると、神社が建てられていました。

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神功皇后の三韓征伐は、辰韓の王子「天日槍」の子孫である皇后が、その遺産の分与を求めて、新羅を攻めたものでした。
武内襲津彦の指令のもと、朝鮮半島に集結した和船の数は錚々たるものだったということで、これに新羅と百済・高句麗が大和に朝貢することを約束しました。
それ以来、朝鮮半島から和国への年貢納入が続きました。

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神功皇后の御子は7歳で夭折しますが、皇后はこれを隠し、養子を迎え応神大王として即位させました。
さらに平群家のオオサザキが次の大王となりますが、朝鮮方面にはこれを隠し、あたかも神功皇后の子孫が代々大王家を務めているかのように見せかけました。
その甲斐あり、平群王朝時代も、朝貢は続いたと云います。

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平群王朝時代になって、三韓に年貢を取り立てるのを面倒に思った大王は、朝鮮半島の南岸に、それを取りまとめさせる役所を造りました。
それが「任那」です。
当時、年貢を集め和国に送る役を担ったのが任那の「穂積押山守」です。

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継体大王の治政6年、大雀王朝が絶え、新しく蘇我王朝が出来たことが、百済の政府に報告されました。
百済は年貢奉納は大雀王朝に対し約束したもので、新王朝は年貢を受ける権利はない、と主張しました。
このことに、大和の重臣たちは相談しましたが、大伴大連と穂積守の意見によって妥協して、任那の領地のうちの上タリと下タリ・サダ・ムロの4県だけを与えることにしました。

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この勅令を、後で聞いた「カナヒ大兄王子」(安閑)は驚いて駆けつけ、百済の使者に勅令の廃止を説得しましたが、百済の使者は、もはや受け付けなかったと云います。
都の人々は、「大伴大連と穂積守が、百済から賄賂を貰ったのだろう」と噂しました。

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百済が大和の許可により、4県を得たことを知った新羅は、当然、大和に任那の割譲を求めました。
大和はこの新羅の要求を断ります。
これに対し、当時、外国船の監視と港の管理を任されていた筑紫国造に、新羅は賄賂を贈って、任那の南加羅とトクコトンの地を奪ったのです。

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それに対し大和王朝は、新羅から2県を奪い返すことを、近江の「毛野臣」に命じました。
毛野臣は、武内臣大田根の子「波多八代」の子孫だと云われています。
彼は兵6万を率いて、新羅に向かいました。

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古墳を周回していると、ひっそりと奥に続く階段がありました。

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登っていくと、奥にも社殿がありました。

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継体天皇治世の21年6月に、筑紫国造「磐井」は筑紫と豊国から兵を集め、毛野臣の軍を遮りました。
磐井はかつての磯城・大和王朝の雄「大彦」の子孫でした。
彼は毛野臣に向かって言います。
「おまえは、音の友達じゃないか。肩を擦れ合い、同じ釜の飯を食った仲じゃないか。なんで使者となり、威張って俺を責めるんだ」と。

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これは「磐井の乱」と呼ばれています。
毛野臣軍は援軍を求め、都から物部連が将軍となり、軍勢を率いて8月にやってきます。
戦いは九州各地に広がり、翌年11月まで及びました。

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古墳奥の社の中には、顔の白い人形のようなものが祀られ、ちょっと怖かったです。

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さらにそこから続く道。

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どうやらそこは、円墳の頂部のようです。

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下の神社の元宮のようでした。

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再び別区に戻って来ました。

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日本書紀では、筑後川中流域で激戦があり、磐井は斬られ、戦死したことになっています。
しかし地元が書いた『筑後国風土記』逸文には、磐井は豊前国上毛野県に逃れ、山岳に単独で隠れてしまい見つからなかった、と書かれています。

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この時、逃亡した磐井が見つからないのに腹を立てた官軍の兵士たちは、当墳の石馬の首を腹いせに切り落としたと記されていました。

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12月には、筑紫君磐井の子「葛子」は父の罪に連座となるのを恐れて、糟屋屯倉を捧げて、死罪をまぬがれました。
磐井の乱が鎮圧された後、毛野臣軍は任那に到着しますが、そこで毛野臣は病死します。
後任として「天小屋根」「雷大臣」の子孫、「上毛野直」が任那に趣き、新羅の海岸を征服、、南加羅とトクコトンを奪い返したと云います。
その功績により、上毛野直は壱岐島の造に任命されました。
磐井氏が没落し、失業した古墳造りの技術者は、出雲や伯耆国などに移住したと伝えられています。

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