
むかしむかし、常陸国豊浦に神宮権太夫っちゅうもんが住んでおった。
ある日、権太夫がいつものように海岸を歩ってるど、繭の形した丸木舟が流れづいでるのめっけだ。
「なんじゃろ、これは」
不思議に思った権太夫が、さっそぐ丸木舟を割ってみると、なんと中から、世にも美しい姫があらわれだ。
「うっわぁ、おどろいたぁ。けんど見れば、おぬしは着のみ着のままじゃなかか。わしの家はすこそごだがら、おいでなさい。食べ物ぐれえはあっかんな」
権太夫は姫を哀れに思い、自分の家につれてぎで、わけを聞くごどにした。
「私はインドの大王の一人娘で、金色姫と申します。母は早く亡くなりました。今の継母様は私憎んでおり、ひどく私をいじめるのです。ある時、父・大王は、桑の木で丸木舟を作り、宝石のような赤貝で作った首かざりを私の首にかけて舟に乗せました。最後に、慈悲深い人に助けられるよう願ってるよ、と私に言い、舟をそのまま海に流したのです」
金色姫はそう話し終えるど、泣ぎながら手を合わせるのだった。
姫の話を一通り聞き終えだ権太夫は、それがら毎日、姫のごど我が子のようにやさしくいたわり、育てていっだ。
そうして五年たったごろ、姫は急に泣ぎながら、権太夫に言った。
「権太夫さま、ずっとやさしく育ててくださいまして、ありがとうございます。しかし、私の命も今宵限りとなりました。私の身は今から、前世の宿縁で蚕という虫に生れかわります。それから桑の葉を食べて宝の繭をつくるまでに、四度の衣を脱ぎさります。これは継母様にいじめられた、”苦しみ”が衣となったものです。
それがら父母恋しと泣きながら糸を編みます、その糸で作った繭の中にこの身を入れて、私は葬られるのです。
よい繭を作るには、蚕を育てる時期と、庭起きがその良し悪しを決めます。この蚕貝作りの首がざりと繭は、助けていだだいた権太夫様への命の恩の置土産です」
と金色姫は権太夫に養蚕の仕方を教えて、念仏とともに昇天した。
そうして、この時から、日本に養蚕業が広まったぢゅうと。


茨城県日立市川尻町に鎮座する「蠶養神社」(こがいじんじゃ)にやって来ました、YO☆
とにかく・・・遠かったんぢゃ。。

”蠶養”の字はとてもむずかしく、ろうがん、もとい、ダンディーEYEの僕には、もはや潰れて四角い点にしか見えません。
”蠶”はいわば旧字体で、”蚕養”と書くのが一般的。
しかし”蚕養”で”こがい”とは、なかなか読めませんね。

当社縁起によると、7代孝霊(フトニ)大君の御代5年二月初午の日に、蠶養浜東沖磯の上に神影が現れ、神託があったとのこと。
そこで当時の里人達は社を神路の森の、上子山に建てて、日本最初の蠶養の祖神として、これを敬い祀ったとされます。
このことによって、当地の浦を「豊浦の水門」といい、蠶養の神が現れた所を「蠶養浜」(こかいはま)と呼ぶようになった、ということです。

また、12代景行大君40年、ヤマトタケルが東征の折、上総から陸奥へ入る時に豊浦の港に船を繋ぎ、蠶嶺の社に詣でて勝利を祈ったと伝えられます。
ヤマトタケルは日高見国(東北)より常陸を過ぎて甲斐に至りますが、その際に今の社地に蠶養神社を遷し、神領八十束部を寄進したのことです。

元禄5年(1692年)3月、水戸藩二代藩主「徳川光圀」公は、当社を当国式外三十五社の一つに列しました。
当初は社名を「於岐津説神社」(おきつせじんじゃ)といい、「宇気母知命」(うけもちのみこと)を祀っていましたが、明治34年(1901年)10月に現社号に改め、大正8年(1919年)6月に祭神二柱を合祀しました。

昭和15年(1945年)、日立空襲により社記が焼失。
東日本大震災でも被災し、平成25年(2013年)に復興改修工事が竣工しています。

蠶養神社の現在の祭神は「椎産霊命」(わくむすびのみこと)、「宇気母智命」(うけもちのみこと)、「事代主命」(ことしろぬしのみこと)の三柱。
神仏習合期にはウケモチは「蠶養大明神」と呼ばれていました。

さて、今回僕が、はるばるこの蠶養神社まで来た理由は、以前”B氏”から使命を帯びていたからでした。
「あとそっちの地域では、高國造の神社としてある、蚕養神社。高国造が事代主と出雲の祖神を祀っています。
蚕養神社は、東国三社の息栖神を祀っており、御存知の通り、くなどの大神です」
な・ん・で・す・と・・・

B氏がおっしゃるには、『豊浦誌』には、次のように記されているとのこと。()内は僕が付け加えています。
蠶養峰神社(豊浦誌に載っている蠶養神社の正式名称)
祭神:稚蠶霊命、事代主命
崇神帝二十七年庚戌二月初卯神霊初自神嶋云々(崇神帝27年、二月最初の卯の日に、神霊が初めて神嶋からこの地に移ってきたという)
相殿 於岐津説神 (おきつせのかみ/国史書『三代実録』に記される、神栖市・息栖神社(いきすじんじゃ)の古称)
祭神:多賀荒魂神、毎年二月初午行祭焉凡本宮祭年三祀四月十四日八月朔十一月十四日也
於岐津説神祠為、一社祀五神于其中通謂之総社五大明神寄附神領八十束部又以五束部充摂社(於岐津説神の祠は一社として設けられ、その中に五柱の神を祀っている。これを総称して「総社五大明神」という。
この神社には神領として八十束部が寄進され、さらに五束部が摂社のために充てられている)
摂社 天日祭神社(あめのひまつりじんじゃ)
祭神:稚日女尊
日祭大明神、年再祀三月三日十一月初子他
大高神社
祭神:彌佐比命、豊浦連茂高賀美都彦命
神主蠶養氏、彌佐比命十三世孫。其職伝言蠶養郷小屋越彌佐比命之故館遺址今尚在
(神主・蠶養氏は、彌佐比命から数えて十三代目の子孫であるという。また、蠶養氏に伝わる話によれば、蠶養郷の小屋越(こやごえ)には、かつて彌佐比命が住んでいた館の跡があり、その遺跡は現在も残っているという)

僕は『豊浦誌』の実本を確認できませんでしたが、そのように書かれているのでしょう。
さらにB氏は、上記の五神は、多珂国造の末裔である養蚕氏が管理していた神社である、といいます。
多珂国(たかのくに)は「高国」とも表記され、大化改新以前の北茨城市一帯の地域の呼称です。
『常陸国風土記』によれば、13代成務大君(物部ワカタラシ)の世に多珂国造に任じられた「建御狭日」(たけみさひ)は、この地を巡歴して地勢をみたところ、山の峰は険しく、高いので「多珂の国」と名付けたということです。
また同書には「建御狭日命という人は、これすなわち出雲臣と同族である」と記され、『国造本紀』では、成務朝に弥都侶岐(みつろぎ)の孫、彌佐比(みさひ)を高国造にしたとあり、建御狭日と彌佐比は同一人物と考えられます。
また『国造本紀』に新治国造「毘奈良珠命」(ひならすのみこと)は「美都呂伎命児」とみえるので、これが正しいなら、新治国造のヒナラスと多珂国造ミサヒは親子、少なくとも同族である、ということになります。

ということで、そろそろ本題ですが、B氏は養蚕氏が祀っていた於岐津説神、すなわち多賀荒魂神は住吉神でありクナド神である、と説明します。
「東国三社の息栖神社は”クナトノ神”を祀ると言われていますが、別伝で”住吉神”、または”伊吹戸主命”を祀っていると言われている。
東国三社は塩釜神社の三神とも同一で、『先代旧事本紀大成経』では、ナガスネヒコのこととされている。これが伊勢の外宮の高宮に祀られている。
高宮には、伊勢津彦の祠があるという伝承もあり。現に、天照大神高座神社 の伝承では、伊勢津彦が祀られ、外宮から移されたとされている」と。
外宮の高宮は、正式名称を「多賀宮」(たかのみや)と言います。

・於岐津説神と息栖神は同じ神で、現在の息栖神社祭神は、「久那斗神」(くなどのかみ)を主神とし、「天乃鳥船神」(あめのとりふねのかみ)、それに「住吉三神」を祀る。
・豊浦誌では於岐津説神は多賀荒魂神のことであり、多賀荒魂神は伊勢外宮の高宮(多賀宮)で祀られており、その正体は伊勢津彦である可能性がある。
・また高宮の神は、”内宮の下に眠っている猿田彦”を表していると云われている。内宮のサルタ彦とは、三輪氏の分家である宇治土公家の祖先であり、内宮の御神体は宇治土公家しか触れないとされている。
・宮城の鹽竈神社は東国三社の神と付合しており、シオツチノオジが息栖神に当てはまる。シオツチノオジは鹿島神・香取神を道案内した神。神門家が物部の”建部”となった話と合う。
“『先代旧事本紀大成経』では、(おそらくシオツチノオジが)ナガスネヒコ(大彦)のこととされている”というのはひとまず置いておき、住吉神というのも、僕は少々混乱するのですが、
要するに、
於岐津説=息栖神というのは、クナド大神・サルタ彦(多賀荒魂)を祭祀する神門家の「伊勢津彦」を表し、シオツチノオジで彷彿とされる「健部」(たけるべ)が祭祀した神である、ということになるのかも知れません。
伊吹戸主を穢れを祓う風の神と考えるなら、神格化した伊勢津彦の性格とも一致します。

・・・ふう、
B氏から教えいただく情報はいつも難解なのですが、どうでしょうか、80点くらいは、いただけますでしょうか。
現地、茨城の果てまではるばる足を運んでようやく、ここまで理解できました。



せっかく来たので、蠶養神社の縁起から見た推察を、もう少し頑張ってみます。
当社の始まりは、フトニ大君の時代に、沖にあるであろう神嶋から遷座したということです。
これが正しいなら、フトニの時代とは第一次出雲戦争時のことですから、それによって出雲を離れた西王家・神門家の人が当地に至り祀ったのが始まり、ということではないでしょうか。
次のヤマトタケルが東征の折云々、というのは”健部”のことで、先に移住定住した同族を頼って当地に来た、ということでは。

もうひとつ、当社が蠶養神社たる所以の伝承です。

当地に伝わる「金色姫物語」が、養蚕業発祥の伝説とされていますが、この伝説は当社を含む茨城県内の『三蚕神社』、神栖市の蚕霊神社、つくば市の蚕影神社にも、ほぼ同様のものが語り継がれています。
そして、神栖市の蚕霊神社は、息栖神社の元宮とも伝えられていました。

こういった、違う場所で語り継がれている似た話の背景に、僕は思い当たるものがあります。平家落人伝説における出雲サンカの存在です。
金色姫はインドの大王の娘という設定ですが、出雲族はインドからやって来たドラヴィダ族でした。
『金色姫物語』はいかにも、出雲サンカが好きそうな設定です。

ここに出てくる桑の木で作られた丸木舟は「虚舟」(うつろぶね)ともいい、その形状からオカルトマニアやスピリチュアル界隈では「宇宙船なんじゃね!」なんて言われていますが、犯人はサンカじゃね!

まあ、出雲サンカもnari氏も、その謎の生態は、宇宙人と間違われても仕方ありませんが。

と、蠶養神社の境内に雰囲気の良い(怖い)細道が続いていましたので、少し歩いてみることにしました。

こんなとこ一人で歩いてたら、まさか出会いませんよね、

クマさんに🐻

なんか藪の向こうに案内板があります。

そこに書かれていたのは「小貝浜」(こがいはま)。

小貝浜は、蠶養浜ということでしょう。
ここは古くから景勝の地として知られ、茨城百景の一つにも選ばれています。

この一帯は緑地公園として遊歩道が整備され、蠶養神社からこの茨城百景の碑、さらに先には波切不動尊、灯台など、見どころを回遊することが出来ます。

しかし僕には、ここまでが精一杯。
石碑には小貝浜と書かれていましたが、実際の小貝浜はもう少し先にあるようで、ここから見える浜は海水浴場として知られる川尻海岸のようでした。



ところで、息栖神社といえば井戸の神なのですが、井戸はないのかと探したら、参道入口にある神楽殿、

その横に井戸っぽいものがありました。

出て来そうだよね、サダコ。

あと案内板を見たら、別ルートで小貝浜に行けそうだったので、探してみました。

そこは海鵜(うみう)の渡来地でもあるようです。

小貝浜は小さめの、趣き深い海岸でした。
ここに打ち上げられる小さく赤い山椒貝(さんしょうがい)は、金色姫からの贈り物と云われ、悪を除き穢れをはらい鼠を避けるといい伝えられ、当地の養蚕家は「蚕生貝」(さんしょうがい)と呼んで縁起物としました。
蚕生貝は水に浸かると一層鮮やかになり、かつては浜辺が紅色に染まるほどたくさんの貝が打ち上がり、昭和40年代ころまでは蠶養神社の御札に付けて参拝者に授けていたといいます。
しかし今は、ほとんどその姿を見ることはありません。

それにしても・・・”海の果て”とは”常世”の世界。
そこから辿り着いた繭の形をした舟と、継母にいじめられた苦しみの衣を4度脱ぎ捨て、最後には自ら作った繭の中で果てるという金色の姫。
その伝説は、竹取物語にも似た、生と死、再生への観念が見て取れます。

奇しくも姫のたどり着いたこの海は、「”豊”の浦」と名付けられました。
寒々しい秋の海の向こうで、彼女は今、何を想うのか。
僕は海辺に佇み、宝石のように輝く、赤く美しい小さな手紙が届くのを、待っていたのでした。

💚