竹採公園”かぐや考”:常世ニ降ル花 朝近残月篇 07

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静岡県富士市比奈にある「竹採公園」(たけとりこうえん)に行ってきました。

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平安時代中期編纂の『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)には、駿河国富士郡九郷のひとつとして「姫名郷」(ひなごう)が記されており、それが当地、比奈地区の由来だそうです。竹採と姫、そう竹採公園は『かぐや姫』の聖地となります。

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園の入り口には「白隠慧鶴」(はくいんえかく)禅師の石碑があります。園内にはお墓も。
竹採公園は白隠禅師が開山した無量寿禅寺跡になっており、白隠は著書『無量寿禅寺草創記』の中で、この地をかぐや姫生誕地と宣言したと伝えられます。

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園内はさほど広いわけではありませんが、竹林があり、「竹採姫」と刻まれた小さな塚や、かぐや姫が振り返ったという「見返り坂」など、『竹取物語』の舞台が再現されています。

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日本最古の物語ともいわれる竹取物語、登場人物は奈良時代の人とされ、平安時代前期に完成したと推測されています。

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竹取物語の作者は諸説あり、かぐや姫が住んでいたという場所も京都や奈良など、紛紛しています。

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これについて、我らが斎木雲州氏は、著書『万葉歌の天才』(絶版)の中で、次のように述べておられます。

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柿本人麿が石見国から上京した時は、名前が漢部人麿だった。都でも彼の元の苗字が漢部だったことを知っていた人がいた。その人は、伊予部馬養(うまかい)だった。彼は施基(しき)皇子らとともに、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に撰ばれた。この機関は、お伽話も書こうとしたらしい。しかし成果を残す前に、解散した。

馬養は丹後国国司にも任じられた。その影響で「浦島物語」を書いた、と言われる。彼は『竹取物語』も書いたようだ。
竹取物語は、そのモデルたちが亡くなり、当たり障りがなくなった後に、子孫たちにより発表されたらしい。

物語の中には、金工の「漢部(あやべ)内麻呂」が登場する。彼は柿本人麿の変名だった。彼は庫持(くらもち)皇子〔変名〕のために、困難な仕事〔例え話では金属加工〕を完成した後で逆に、主人により酷い打撃を与えられた。これは人麿の境遇の苦難に、よく似ていた。人麿と同時代の官人であり、人麿の仕事を知り苦難を知っていた伊予部馬養ならでは、竹取物語のモデルに人麿を使えなかった、と考えられる。

竹取物語のモデルと作者の関係も、漢部人麿が古事記を書いたこと〔困難な仕事〕の傍証となり得る。

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古事記の執筆者が「柿本人麿」(かきもとのひとまろ)で、彼は様々な人の思惑で、愛する妻と離れ苦難の道を歩むことになりますが、その黒幕らの名がかぐや姫に求婚する登場人物に記されていることも斎木雲州氏の説を裏付けることになります。

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ただ結局のところ、かぐや姫は実在の人物ではありませんので、彼女の住まいがどこかなどと言う議論は不毛だということになります。
しかしここ、竹採公園に伝わるかぐや姫伝承には、少し他と異なる面白い点がありました。

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通常、竹取物語のエンディングでは、かぐや姫が月に帰っていきますが、ここでは富士山に帰って行きます。

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当地に伝わる竹取物語のエンディングはこうです。
姫に恋した国司は姫の元に押しかけますが、姫は自分は富士山の仙女であり、富士山の仙洞に帰りたいと願い出ます。が、国司はこれを許さず、姫は一つの箱を遺して去ってしまいました。

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国司が後を追って富士の頂に登ってみると、そこには大池があり、池の中央には宮殿がありました。
そして宮殿から出てきたかぐや姫は既に人ではなく、それまでの姿形、顔の異なる天女となっていたのです。

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これを見た国司は絶望のあまり、姫の遺した箱を抱いて、池に身を投じたということです。

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一般的なかぐや姫のストーリーにも富士山は関わっています。
八月十五日の満月の夜、かぐや姫は月の世界へ帰ってしまいました。その時、かぐや姫は帝に手紙と不老不死の薬を授けます。

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しかし帝は「かぐや姫に会えない現世(うつしよ)で永遠に生きても仕方がない」と日本で一番高い山にたくさんの士(つわもの)を引き連れて登り、山頂で薬を燃やしてしまいました。
このことから「士に富む山」=「富士山」になったとか、不死の薬を燃やしたので「不死山」になったなどと伝えられています。

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興味深いものに、中世の富士山信仰『富士山縁起』では、浅間大菩薩・浅間大神は女神「赫野姫」(かぐやひめ)であると記されているそうです。
浅間大社の祭神が木花開耶姫(このはなさくやひめ)となったのは幕末の頃からで、それまでは赫野姫が祭神だったということです。
僕は富士山に登って、花とは無縁の荒涼としたこの山の祭神が木花開耶姫であることに、ずっと疑問を感じていました。

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「富士大宮司系図」によると、浅間大社社家の富士氏始祖は、5代大君カネシエ(孝昭帝)の後裔であり豪族の和邇部氏と伝えています。
ということは、赫野姫は11代彦道主大君の代で終焉を迎えた、大和王朝和邇家末裔の姫ということになるのでしょうか。

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ここで当地のかぐや姫の話を思い返してみます。国司がかぐや姫の後を追って富士の頂に登ってみると、そこには大池があり、池の中央には宮殿があったと伝えていました。
しかし富士山頂に大池などがあるはずもなく、それは火口のことを指しているのだと思われます。大昔には火口に水があったのでしょうか?いやいや、そこで僕はこう夢想してみます。
大池(火口)の中にあると言う宮殿、これは常世に通じる龍宮であり、そこを満たす見えない水とは変若水(おちみず)なのではないかと。
かぐや姫はそこでそれまでの姿形、顔の異なる天女となったのです。

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天女といえば富士山と青松の絶景スポット、三保の松原には天女の伝承があり、その羽衣天女は月に帰っていったと語られています。
旧丹波の籠神社付近には、豊姫が羽衣天女として語り継がれていました。
つまり、かぐや姫=天女は月神を祭祀する巫女であり、不死性から越智族の繋がりを感じさせるのです。

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富士の高嶺に坐す赫野姫とは、越智の姫巫女か。
「たけとりの翁(おきな)、竹を取るに、この子を見つけて後に竹取るに、節(ふし)をへだてて、”よ”ごとに、黄金(こがね)ある竹を見つくることかさなりぬ」
竹の節と節の間を“よ”と言い、竹の“よ”は常世に通じています。
「天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月讀の 持てる変若水 い取り来て 君に奉(まつ)りて 変若(をち)しめむはも”
月もまた変若水をたたえ、常世の入り口とされます。つまり月姫かぐやは、常世から生まれ、常世へと還っていくのです。

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常世に通じるには変若水が必要であり、その入口は竹の“よ”であり、月であり、龍宮である。しかしもうひとつ、常世に通じて命を育む場所があります。
羊水と呼ばれる変若水に満たされた、女性の胎内です。体内もまた、常世と現世(うつしよ)を繋ぐ場所なのです。
故に古来より、女性は巫女となり、神の声を聞くのです。

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ところがこの国の神は不浄を嫌います。
土の氣を受けたかぐや姫は月に帰れず、羽衣を失った天女もまた天に昇れないのです。
故に神の声を聞く巫女は無垢でなければならない道理があります。
自称姫巫女の方々には、どうぞ操を大切になさって欲しいと願うのです。

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4件のコメント 追加

  1. Nekonekoneko より:

    🐥…自称姫巫女は操を大切にしないの?姫巫女なのに…🐤

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 より:

      さあ、どうでしょうね。。

      いいね: 1人

      1. Nekonekoneko より:

        🐥おそらく自称という何かがそうさせる🦑

        いいね: 1人

        1. 五条 桐彦 より:

          なるほど!

          いいね: 1人

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