多坐弥志理都比古神社:八雲ニ散ル花 69

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奈良県磯城郡田原本町にある「多神社」を訪ねました。
正式名称は「多坐弥志理都比古神社」(おおにいますみしりつひこじんじゃ)神社となります。

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すぐそばに、真新しい古事記編纂1300年記念の石碑が立っています。

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奉献された、ずらりと並んだ石燈篭が、当社の由緒深さを物語っています。

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多坐弥志理都比古神社は、その名が示すように、「太(多)臣家」にゆかりの神社であり、この辺り一帯は多臣家の本拠地でした。

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初代大和大王「天村雲」(アメノムラクモ)は、磯城家の「蹈鞴五十鈴姫」(タタライスズヒメ)と結婚し、その皇子「沼川耳」(ヌナカワミミ)が二代目大王となります。
沼川耳は蹈鞴五十鈴姫の妹「五十鈴依姫」(イスズヨリヒメ)と結婚し、「玉手看」(タマテミ)と「八井耳」(ヤイミミ)の皇子が生まれます。
王位を継いで三代目大王となったのは、弟の玉手看で 八井耳は身を引きました。
この八井耳こそが「多臣家」の始祖となり、記紀製作者の太安万侶の先祖となります。

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当社の本殿は4棟からなり、第一社「神倭磐余彦尊」、第二社「神八井耳命」、第三社「神沼河耳命」、第四社「姫御神」が祀られています。
神倭磐余彦尊は、いわゆる神武天皇のことですが、神武は記紀が創作した人物なので、ここに祀られているのは初代天村雲大王であろうと思います。
姫御神は、神八井耳命の祖母と伝えられます。
また太安万侶も合祀されています。

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初代天村雲は渡来系の海家出身でした。
しかし大王家に代々嫁いだ后は、出雲系の登美家出身でした。
なので大王家も3代以降は出雲人としての意識が強くなったと云います。

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八井耳の子孫のうち、関東に移り、常陸国造となった者の子孫が藤原鎌足でした。
つまり太安万侶と藤原鎌足は同じ祖先を持つので、両家は古くから知り合いだったと云います。

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立派な門構えの社務所がありますが、

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その表札は「多」となっています。
代々、多家の御神職が、守ってこられたのでしょう。

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社名の「弥志理都比古」(みしりつひこ)は、神八井耳命のこととされています。

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大王家の長子でありながら弟に皇位を譲ったので、「身を退いた」という意味で「ミシリツヒコ」と呼ばれているのだとか。

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記紀神話に「神八井耳命は皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭る」とあるように、八井耳は、俗世よりも神に尽くすことを選んだということです。

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境内の裏に鎮守の杜があります。

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何気なく歩いていましたが、その一角がなぜか気になりました。

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失礼のないようにそっと進んでみると、何やら祠のようなものが見えます。

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近づいてみると、ボロボロの案内板がこっそりと立てかけてありました。
古代の祭祀跡とあります。

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先ほどの祠の裏に、こんもりとした円丘があり、それが古代の祭祀跡という事のようです。

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八井耳がここで祭祀を行ったかどうかは分かりませんが、何やら神聖な空気が漂っていました。

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