
奈良県橿原市忌部町(いんべちょう)にある「天太玉命神社」(あめのふとだまのみことじんじゃ)はその名の通り、忌部氏の祖「太玉命」を祀る神社です。

忌部氏は出雲の玉造で王家の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担っていました。
東出雲王家のクシヒカタは大和葛城に移住を決めた時、太玉も一緒に連れ立って行くことにしました。

記紀には、天太玉は高皇産霊神の子であると記されています。
しかし高皇産霊神=高木神は、徐福の母親「栲幡千千姫」(タクハタチヂヒメ)のことですから、その子、もしくは血族であるはずがありません。
出雲に渡来した徐福一派を嫌って移住を決めたクシヒカタは、出雲王家の親戚である太玉を、自分の片腕として連れて行ったのです。

葛城で勢力を強めた忌部氏は、大和朝廷では中臣氏と並んで宮中の祭祀を執り行うようになっていきます。
やがて忌部氏が本拠地としたのが当社、天太玉命神社の鎮座する大和国高市郡忌部だったのです。

しかし時代が過ぎ、奈良時代になってくると、中臣氏の勢力が拡大し、忌部氏は宮中祭祀から排除されるようになります。
そのころ忌部氏は、崇仏派の蘇我氏と共に行動していたのも、排仏派の中臣氏にとっては目の上のたんこぶだったのかもしれません。

7世紀中頃になると、忌部氏は玉造りを主たる生業とするようになったと云います。

中臣氏は「天児屋根」を祖神とする、おそらく朝鮮方面からの渡来系の一族と思われ、大阪の枚岡神社を本拠地としています。
このことから中臣から藤原に姓を変えた鎌足、ひいては不比等らも、渡来人であると考える人もいますが(僕もそう思っていました)、藤原姓の人たちはちょっと事情が違うようです。

ともかくも、人の良い出雲人は、ここでも我の強い渡来人に押し込まれていったのです。

つまりはですね、出雲族が渡来する前から翡翠の利用が伺えると考えた場合、奈良に出雲族が入る前からヒスイのルートがありそうなのは、越智や三嶋ではなかったかと思うわけです。
確か摂津三島は大豪族だったんでしたっけ?
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narisawa110
ずっと時代が下りますが、南北朝時代に吉野方につき、活躍した越智氏(高取城)は戦国時代まで続きましたが、その数代目の親家が「旧呼称・忌部神社(式内天太玉命神社)に九頭大明神を奉祀した」という説話が残っているそうです。白山もいるんでしょうかね?
越智氏の出自には物部など複数ありますが、ひとつに伊予説もあり、忌部氏との何らかの繋がりもここで見えてくる様な気がします。
高取城を源とした高取川と曽我川の合流点に鎮座するのは、越智氏と忌部氏とのつながりを暗示しているのかも知れませんね。
出雲口伝ですと、のちに物部とも和解した。その象徴が神魂神社、剣神社、美穂神社とあります。美穂神社の横山氏は貿易の徴税の仕方をしていた関係で富家から神社の運営を任されたとありますので、交易品の一部が硬玉であったとすれば、物部氏との和解は必要性があって行われた事なのかもしれません。
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narisawa110
実はですね、遺跡としては難波の玉造りと、当地の玉造りでは最盛期には100年程の時間差がある様で、ムラジ系の玉造の方が拠点としては古いらしいのです。
当地に関しては考古学的な見地と出雲口伝通はほぼ一致している様で、最盛期が継体天皇の時代とされています。もちろん遺跡の成り立ちとは別で、制作の始まりを指すのではないとは思われますが
近くの山は忌部山と言われ、一体は忌部色が強いです。
そして白村江の戦い以降、半島在住の倭国人が大量に日本に帰って来たことや、大陸がバックについた敵国を利するわけには行かず貿易の仕組みや利権が消失。
更には仏教の制度化との争いで難波が戦場になったこともあり、神道の象徴のヒスイ製品はトドメを刺された。
その後の律令制が確立した際には、ヒボコの鉄ルートとも関連するかの様な、糸魚川とまで呼ばれた地域には那珂郡が置かれず、ヒスイが全く顧みられなくなっていた事により、産地不明なまま、昭和にまで至ったと考えます。
大陸にはヒスイは売らんとしたのが衰退の始まりの様な気がします
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和国では、隣国のように禿山になるまで、山容が変わるまで掘り尽くすことはしませんでした。
なので、翡翠の輸出も止めたのではないでしょうか。
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