四国八十八箇所霊場の第十四番札所「盛寿山 延命院 常楽寺」(せいじゅざん えんめいいん じょうらくじ)です。
どこか洋風な趣もある門構え。
当寺は岩山の上に建っています。
階段は岩をそのまま削り出している部分も。
本尊は弥勒菩薩。
本尊真言「おん まいたれいや そわか」
ご詠歌「常楽の 岸にはいつか いたらまし 弘誓の船に 乗り遅れずば」
縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたとき、多くの菩薩を従えて化身した弥勒が来迎したと云います。
そこで霊木に弥勒菩薩を刻み堂宇を建立して本尊として安置したのが創建の由来。
弥勒菩薩といえば、そのあまりの美しさに聖徳太子が抱きつき指を折ったという逸話が有名です。
現在仏であるゴータマ・シッダルダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされています。
今は兜率天で修行しているはずですが、気まぐれに空海の前に姿を現した、ということでしょうか。
それとも、いわゆる観念により知覚したということでしょうか。
そもそも遍路の由来そのものが、曖昧ではあるのですが。
ところで、常楽寺境内一帯に広がる、この流水岩の庭園。
断層が剥き出しとなった自然の岩盤の上にあり、その形状から流水岩と言われています。
とても歩きにくいのですが、これでも参拝者が歩くことにより浸食され、険しさが緩くなったのだそうです。
この景色を見て思ったのですが、神社は自然崇拝を基盤としているところも多いせいか生命を強く感じさせる場所が多いのに対し、寺院は「死」を連想させることが多いと感じます。
境内に墓があったりするからなのかもしれませんが、密教系の寺院は祈祷がメインなので墓はありません。
それでもやはり、生というよりは死を実感させられます。
それは寺院が死後救済を説く場所だからかもしれません。
現世で徳を積めば、死して極楽往生が約束される。
この極楽に対するものとして「地獄」があります。
この地獄、面白いもので仏教にありキリスト教にもあります。
が、日本神道にはありません。
日本神話を紐解くと、死者が遍く赴く「黄泉の国」はあっても、死者を苦しめる地獄という発想はないのです。
そこでさらに思うのですが、ゴータマ・シッダルダもイエス・キリストも、果たして地獄というものを説いたのだろうか、と。
良い行いをしなさいとは説いていたと思うのですが、良いことをしないと地獄に落ちるぞとは言っていないような気がします。
所詮仏典も聖書も人間が書いたもの。
長い年月で色々な思惑の上で書き換えられてきたものです。
全くもっともだ、と思わせられる文言の裏に、様々な思惑が秘められていることは往々にしてあるもの。
宗教ほど人の考えと行動をコントロールできるツールはないのですから。
本堂と太子堂の間にある大きなアララギの木があって、その木の俣にはちいさな大師像が安置されてたそうですが、見落としてしまいました。
死を連想させられるからこそ、今の生を見つめ直すことができるのも寺院巡りならではなのかもしれません。