
海上自衛隊、海上保安庁、米海軍が密集する軍港の町「佐世保」。
しかし丘に登れば、戦時中のその佐世保軍港の防備のために設置された陸軍の遺構が残されています。
そのひとつ、「石原岳堡塁」(いしはらだけほうるい)を訪ねてみました。

石原岳堡塁は石原岳森林公園の中にありました。
公園の中には数台の駐車スペースも整備されています。

公園内はキャンプもできるようになっています。

公園の中心に歩いて行くと、すぐにこの景色。
背中がざわつきます。

中央の階段から下を覗き込むと、歴史を感じさせる、連なった「棲息掩蔽部」(せいそくえんぺいぶ)が見て取れます。

降りてみましょう。

ラピュタの島と呼ばれる「友ヶ島」はまだ未訪問ですが、その写真で見たような景色が広がっています。

とても綺麗に清潔に管理されていますが、程よくツタなどが絡み、ラピュタ感あります。

「掩蔽」(隠蔽)して「棲息」するための建造物、故に棲息掩蔽部。
弾薬・火薬や物資を格納するとともに、兵士の宿舎としても機能していたようです。

内部は真っ暗ですが、カメラの感度を上げて撮影。
奥に各部屋を行き来する通路が設けられています。

中央の橋のアーチも良い雰囲気でロマンティック。

機能的なだけでなく、芸術的とも言える建築センスに脱帽です。

写真を撮りつつぶらぶら散策していると、丁度管理の方がいらっしゃって言います。
「洞窟の電気をつけましょうか?」

なぬ?電気!?
是非にとお願いしました。
これで棲息掩蔽部に明かりが灯るようです。

で、ふと一番奥の小さな通路が気になりました。
これは何?

見ると奥に奥に、真っ暗な道が通じています。

これはやばい。
電気つけてもらわなかったら、絶対に入れないところでした。
ここには久米島仙人もいないし。

ずいずい歩いて行くと、階段がありました。

その先は二手に分かれています。
ってか怖い、悪魔でも出てきそう。

左の部屋。
奥に通路のようなものが見えますが物置で行き止まりです。

続いて右の部屋。

同じです。
怖っ!
閉所恐怖症の人は耐えきれないでしょう。
でもここはなんの部屋?
悪魔崇拝のミサが行われていたのでしょうか?

いえ、ここは「側防窖室」(そくぼうこうしつ)と言って、この細い窓から銃を覗かせて、外敵を撃つ部屋でした。
すげえな。

階段を昇って丘の上に向かいます。

そこにも3つの棲息掩蔽部のほか、

3つの砲台跡がありました。

明治22年(1889年)に佐世保鎮守府が開かれ、大日本帝国海軍の根拠地としての佐世保軍港が築造されました。

その佐世保軍港を防衛するため大日本帝国陸軍の佐世保要塞が計画され、明治30年(1897年)より築造が開始されたといいます。

堡塁とは、敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のことを言います。

佐世保要塞は佐世保湾の北に高後崎砲台、小首砲台、丸出山堡塁、
佐世保市の北と西に牽牛崎堡塁砲台、前岳堡塁、
佐世保湾の南に面高堡塁砲台とこの石原岳堡塁が築かれました。

堡塁は、銃座、砲座、指揮所、観測所、兵舎や弾薬庫となる掩蔽棲息部、交通路等からなり、これら複数の堡塁を結んで巨大な防衛線となっています。

石原岳堡塁では、標高73~77mの高さの砲台に、クルップル式10cmカノン砲6門、鋼製9cm臼砲4門、砲座数7基を備えていました。

しかしながらこれらの設備は陸戦、もしくは対艦射撃用を想定して建設されたものであり、航空機が実用化されるようになると廃れていきました。
上空から偵察や攻撃には全く無力だったのです。
また当堡塁は、日露戦争で一発の砲弾も発射されることなく終戦を迎えたということでした。



補足です。
ブログを書きながら調べていると、公園の裏手に、あの悪魔教のミサ部屋があるというので、翌週再び訪ねてみました。

いえ、「側防窖室」です。

公園の外周を半周ほどすると、何やら見えてきました。

側防窖室の外観です。

やはり悪魔教の匂いがします。

この穴から銃身をのぞかせ、僕のような侵入者を撃ち殺す算段だったのでしょう。

あなおそろしや。

またしばらく歩くと、

今度は独立した側防窖室がありました。

せっかく入口があるので、入ってみましょう。

ひぃーこわい。

ここは逃げ道もなく、入ったらやるかやられるかの世界です。

兵隊さんは本当に、いろんな意味で勇敢でないと務まりませんね。

戦争なんて2度と起きないことを祈るばかりです。
