
大宝元年(701年)八幡大菩薩が衆民済度のため、一切の願い事が叶うという如意宝珠を英彦山権現より賜ろうと思い、宇佐の小倉山から英彦山へ行った。
そこへ英彦山で修行中の法蓮が来て「私はまだ宝珠を見たことがない」という。
それならばと権現が珠を見せようと法蓮の前に置くと、八幡に奉仕する翁が出てきて、珠は私に渡してほしいと言って欺いて持って逃げてしまった。
法蓮は大変怒り諌山郷南の高山(箭山)まで追いかけ、大菩薩を大声で叱責すると、その声は伊予國の石鎚山まで聞こえた。
大菩薩は金色の鷹となり、翁が身を変えた金色の犬を召し連れて箭山へ飛んで帰ってきた。
大菩薩は大きな岩の上に降り立つと、そこで法蓮と話し合った。
「私は八幡大菩薩である。私に宝珠を渡すなら、宇佐に垂迹の時は神宮寺別当に任ぜよう」
そういうので法蓮は和与した。
そして八幡は永く宝珠を得ることができ、法蓮も神宮寺の別当となった。
この話し合いをした大きな岩を「和与石」と呼んでいる。
ー 『八面山縁起』より ー


大分県中津市にある、当地のシンボルとも言える頂部が平たい「八面山」(はちめんざん)。
高さ659mの卓状溶岩台地(メサ)であるこの山は、四方八方のどの方角からみてもほぼ同じ姿をしているところから、その名で呼ばれているそうです。

途中立ち寄った道の駅でおすすめのランチをいただきました。
名物の「しらすご飯」「だご汁」、そして中津といえば「から揚げ」の三点セットです。

さて、風光明媚な八面山、昔はこの山に矢竹が多く生えていたことから「箭山」(ややま)とも呼ばれています。

古くは山岳仏教の信仰を集めた修験の山とされ、それにまつわる名跡も多く存在しています。

八面山の麓に「箭山神社」(ややまじんじゃ)下宮が鎮座しています。

祭神は「聖母」(神功皇后)・「八幡」(応神天皇)・「比賣神」(玉依姫)となっており、この他「天照大神」「天三御中主神」「和気清麻呂神」「菅原神」等十七柱の神々を合祀するとしています。

当社は行幸会スタートの地「薦神社」(こもじんじゃ)の奥宮とされています。
薦神社は宇佐神宮より歴史が古く、祖宮とも云われてます。

薦神社の境内には3歳の童の姿で顕現した八幡神の足跡なるものが存在し、神体池に自生する真薦で作った御神体「薦枕」を、各社を巡行して奈多宮から海に流すという神事が「宇佐行幸会」となっています。

一般に宇佐系の「比賣神」は「宗像三女神」とされていますが、当社は玉依姫になっています。

社殿の前には狛犬ならぬ狛猪が鎮座していますが、これは祭神の一柱「和気清麻呂」公に由来するものと思われます。

和気清麻呂は称徳天皇の代、道鏡による皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物です。
道鏡は称徳天皇の愛人であったという話ですが、女系天皇制がいかに皇統断絶の危機を含んでいるかという例の一つに挙げられます。

清麻呂が脚が不自由になった時、300頭の神猪が現れて山中に走り去ると立って歩けるようになったという伝承から、彼を祀る神社では狛犬の代わりに狛猪が置かれているのだそうです。



箭山神社下宮には本殿がなく、神体山である八面山を直接拝するようになっています。
下宮があるということは上宮があるということなので、山頂方面を目指して進みます。
八面山山頂付近までは車で登ることも可能です。

八面山を登っていて気付くのは、岩が多いということです。
すると「箭山権現石舞台」という案内板を見つけました。

車道から少し登ってみると、なるほど大岩が巨躯を晒しています。

いかにも祭祀跡と言わんばかりの雰囲気。

石舞台に向かう道には、他にも大きな岩がごろごろ転がっています。

岩肌が見えてきました、でかいっ!

広角でなければ入りきれないのですが、それではこの迫力を伝えきれません。

この石舞台は古代巨石信仰の磐座と伝えられます。

縦19.3m、横13m、周囲57.5m、面積250.9㎡。
畳152枚敷分の広さをもち、石舞台としては日本一の大きさを誇ります。

この石舞台が面白いのは、裏に回ればなんと上に上がることができること。

まるで階段のように削れた岩面を登ると、

そこには絶景が広がります。

下を覗き見れば、僕の宝珠もひゅんとなる「玉ヒュン事案」発生です。

石舞台の上には大きな石が二つ。

まるで祭壇のようなものと、

きわどいバランスで乗っかっているものと。

昔は、この石舞台で、雨乞いや五穀豊穣のために箭山権現に神楽を奉納していたと云われています。

また京都から敗走した足利尊氏も、この石舞台で武運長久を祈願したと伝えられていました。



さて、再び山頂を目指していると「和与石」の案内板を見かけました。

登っていくと

ゴツゴツとした岩が。

その先にあるひときわでかい岩が和与石です。

『八面山縁起』によると、大宝元年に、英彦山権現の宝珠の授受について、八幡大菩薩と僧の法連が和与(和解)したときに御座した巨石であると伝えられています。

そこには英彦山権現の宝珠をめぐっての、八幡神と英彦山修験僧の法蓮との生々しいやりとりが記されています。

英彦山は高木神から「天忍穂耳」(あめのおしほみみ)に支配を受け継いだ、正当なる物部族の信仰圏です。
そこに属する法蓮が宇佐の神宮寺の別当になった、その正当性を説く話がこの縁起の本質かと思われます。

それにしても穏やかではない、強引なやり取りがあったことを感じる内容。
『靈卷五 八幡宇佐宮御託宣集』 には宝珠を持ち逃げた翁は八幡神本人であったとし、2度も騙し取って法蓮を激しく怒らせている様子も記されていました。



いよいよ八面山山頂付近、そこに箭山神社奥宮がありました。

かつて数十宇の堂社と寺院が栄えていたという当地は、神仏習合の名残を匂わせます。

天正年中(1573~1593年)、大友氏の兵火に箭山は山頂まで焼き尽くされたとあり、堂社と寺院も全て焼失してしまったのだそうです。

ひっそりと佇む赤い社殿。
祭神は「八幡大神」「比売大神」「大帯姫命」。

その社殿の横には、これまた神気を放つ磐座が存在しています。

この覆いかぶさった岩が八幡大菩薩が金色の鷹に変化し、巨石になったという「鷹石」で当社の御神体です。

手前の岩は金色の犬になった翁の「犬石」。

この神体石は上から下へ、ぐるりと一周できるようになっており、下から見るとその巨大さに恐れ慄きます。

この磐座群が古代の祭祀跡であるというのは間違い無いでしょう。

先ほどの和与石は物部的な蓬莱信仰を感じさせる磐座でしたが、こちらはなんとなく出雲的な印象です。

古来、宇佐族は月神信仰でした。

八面という名が示す特徴的な山上にあるこれらの磐座。

そこからは天空を望むことができます。

豊玉女王もここへ足を運び、月読の祭祀を行ったのでしょうか。

古記録などによると、当山は大宝元年に法蓮によって開山されたとあり、その縁起がかの内容であるということは、物部の末裔である法蓮の半ば強引な当地支配を物語ります。

宇佐家の子孫が出雲的気質を多く受け継いでいたとしたら、さもありなんと思う次第です。
