「これはマズいな」
紀ノ川河口から離れていく物部の船群を眺め、大彦は思案した。
紀元180年の頃、大和の実質的な指導者だったのは彼、大彦だった。
ウマシマジら物部の一党が紀ノ川に上陸した時、大彦は対岸におびただしい数の大和王国の軍を引き連れて彼らを押し留めた。
物部を一度は退けたものの、敵の軍船を目の当たりにした時、大彦は戦力を補強しなくてはこの戦に勝てないと考えるようになった。
大彦は紀伊勢に物部の大和入りを阻止するよう伝え、その間に軍備を立て直すことにした。
大彦が助けを求めたのは東出雲王家の富家であった。
「私は八重波津身の末裔であることに誇りを持っている。どうか私に富家の兵を預けてもらえぬだろうか」
しかし、当時の出雲王国軍は但馬のヒボコ勢に敗れ、ハリマを占領されたばかりである。
富家に軍勢を分散させる余力はない。
代わりに、日本海方面の同盟国越国の豪族を頼るようにと、富家は紹介状を大彦に渡した。
大彦が王都に足を向けると、すでに大和では異母兄弟のフトニが勢力を固めていた。
大彦は大和での権力回復は難しいと考え、伊賀国に新しい王国を造ることにした。
ヤタガラス、登美家の分家・大田田根彦の導きで、物部勢は大和入りを果たす。
それにより大和では物部の銅鏡の祭りが盛んになり、出雲系の銅鐸祭祀をやめる村が増えた。
伊賀に新王国を築いた大彦は、アベ氏を名のり、銅鐸の祭りを続けた。
「このまま大和を奴らの好き勝手にはさせられぬ。今一度、大和に出雲の祭祀を復活させよう」
大彦を信奉する者は、息子のヌナカワワケ、尾張家を筆頭に彼のもとに集結した。
かつての大和王国を彷彿とさせる大軍勢を率いて、大彦は大和へ進軍したのだった。
三重県伊賀市一之宮「敢國神社」(あえくにじんじゃ)を訪ねます。
伊賀といえば伊賀忍者。
当地に住み着いた大伊賀彦の子孫が伊賀臣を名のり、伊賀忍者になったと云います。
大伊賀彦は大彦の子孫であり、銅鐸の祭りを続けました。
敢國神社はコの字型に参道が伸び、広い境内に沢山の社殿が立ち並びます。
表参道にあるのは「市杵島姫社」。
雅な朱色の社殿が鎮座します。
大彦は自分が東出雲王家・富家の事代主「八重波津身」の血を引いていることに誇りを持っていました。
それで自ら「富彦」と名乗っていたと云います。
しかし彼が出雲の富家に助力を願い出た時、大和から逃げ去る大彦が富姓を使うのは体面上よろしくないと考え、出雲では本家以外では富姓を使うことを禁じていると大彦に伝え、彼に富姓を名乗らぬよう求めました。
大彦はこれを承知し、以後アベ姓を名のることになります。
敢國神社の創祀年代は不詳。
阿拝郡に居住した阿閉氏が祖神・大彦命を祀ったのが始まりであると考えられています。
大彦は孝元天皇の皇子と記紀に記されていますが、富家の伝承では第一次物部東征はフトニの時代であったと伝わっているので年代的に合わず、実際には2代前の「国押人」(くにおしひと・6代孝安帝)の皇子と考えられます。
母は登美家の姫であり、故に大彦は事代主・八重波津身の血を受け継いでいました。
大彦は初代村雲大王の出身家・尾張一族の血も引き継いでいました。
彼は幼少の頃、葛城笛吹村の東北にある曽大根(大和高田市)で育ちました。
このことから、別名で「ナカソオネヒコ」(中曽大根彦)とも呼ばれ、それが記紀では長髄彦と記されることになります。
大彦が物部勢と戦う時、尾張一族も彼に加勢しました。
尾張家の大和での本拠地「火雷神社」の案内板には、「社家・持田家の家譜によると、大彦命は笛吹連を率いて侵入軍と戦った」と記されています。
また和国大乱期の当時、大彦は多くの豪族から次期大王候補の有力な皇子とみなされ、それぞれ后をもらい受けていたと云います。
彼は阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖となり、日本各地に多くの子孫を残したのでした。
敢國神社拝殿の下には「桃太郎岩」という石が祀られています。
当社は南宮山の麓に位置しており、この山を神奈備としていると思われます。
桃太郎岩は南宮山山頂の浅間社から遷された石で、安産にご利益があるとのこと。
南宮山は円融天皇貞元2年(977年)に、美濃国一宮・南宮大社から金山比咩命を勧請したと伝えられ、敢國神社の祭神の一柱として、この金山比咩が祀られています。
各地に祀られる金山比咩命または金山比古命は鉱山の神とされ、特に製鉄神としての性格を帯びています。
故にこの神も出雲と関連の深さを伺わせます。
敢國神社は阿閉(阿部)氏が大彦を祀ったのが創建と考えられていますが、その大元は、大彦が新王国で事代主を少名彦として祀ったのが始まりであると考えられます。
大彦は伊賀の地で、出雲のサイノカミ祭祀のひとつ、銅鐸の祭りを続けたのです。
本殿の向かって右側には、六所社が鎮座します。
そこには伊賀忍者の祖であり、大彦の子孫と伝わる甲賀三郎が祀られているのだそうです。
敢國神社の裏参道には様々な境内社が祀られていて、心地よい空間となっています。
銅鐸祭祀を続けた大彦は、鏡を1枚も持たなかったと云います。
それは支那国の鏡には、物部勢が崇拝する道教の神獣が描かれることが多かったためでした。
大彦が新たな拠点とした伊賀国は、木津川流域を支配することが可能で、水上路を使って大和や河内(大阪)、山城(京都)、近江へも至ることができ、至便の地域でした。
彼は地の利を知る才能も高かったことが窺い知れます。
やがて大彦が大和に銅鐸祭祀を復活させようとする動きがもとになり、大彦勢と物部勢との間で激しい宗教戦争が起こることになりました。
記紀の神武東征神話で、大彦は神武らを攻撃する賊として記されました。
彼は「長髄彦」の名で、大和の豪族「饒速日」によって殺されたと、嘘の話を残したのです。
しかし彼は、物部や大和の一党に殺されてはいないのでした。
尾張一族の加勢も得て一時は優勢だった大彦軍も、数年続く戦に弱体化し、物部氏の勢力が優位になっていきます。
そんな折、物部勢に「タケハニヤスヒコ」が加わり、大彦勢を襲いました。
大彦は大軍に囲まれて窮地に陥りますが、「ヒコクニブク」率いる軍勢に助けられて、なんとか命拾いをしたと云います。
そして大彦は拠点を、摂津、そして琵琶湖東岸に移すのでした。
ところで、敢國神社の神奈備・南宮山は、円錐形を成す山であることから、古代は出雲の太陽の女神を祀ったのではないかと思われます。
近くには元伊勢「敢都美恵宮」も鎮座していました。
かつては敢國神社南方200m付近に「黒岩」と呼ばれる大岩が存在したそうで、これを磐座として南宮山に昇る朝日を遥拝したのではないでしょうか。
同地に祀られていた大石明神(大岩明神)は現在、敢國神社境内裏参道の端に、「大石社」として祀られていました。
いわゆる斎木本からの大きな転換点が大彦の記述ですよね。
確かにおかしいとは思っていたのです。
第二次物部東征は葛城國が再び分裂したタイミングで起きたと書かれているのに、フトニの対立軸が具体的に描かれていなかったのです。
いつも必ず大きな敵となるのが親戚。新参者は敵視され、誰もついてきません。
尾張氏との連合ができた時点で、ヒボコは圧倒され、果たして熊野からきた兵站が伸び切った物部族だけの事でフトニが大和に帰れなくなるものかという疑問があったのです。
親戚同士の争いの隙を狙って漁夫の利を画策していた太田氏ならさもアリなんですし、イメージ的に1.5代から2代の欠史の説明も出来ます。
そして、ヤマトの豪族の代を並べると、旧事本紀では国押人の代で、アタカタスの誤挿入があるわけです。
何かあったはずだと見当を付けていましたが、まだまだ混乱というか、補足の情報が欲しい所ですね。
そうすると、180年代をフトニVS大彦、アーンド太田太根彦+物部とすると、今度は卑弥呼の整理が必要になってますね。
クニクルが物部の姫を貰ったのは政治的な妥協ではなく体制強化の側面も考慮に入れることになります。
50年後の景初においては太田家から、開花やヒコイマスなどの磯城王家の勢力の盛り返しが伺われ、王家主導で卑弥呼祭は復活していたことになります。
磯城王家から見た裏切り者の太田氏は卑弥呼祭祀の中心から外されていて、景初の際には既に月神に接近していたのではという推測が成り立つわけです。
第二次物部統制の際に月神がもたらされたのなら、人気が出るのが早すぎます。
太田氏は二度、物部を引き込んだのではないでしょうか?
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「太田氏は二度、物部を引き込んだ」というのもなるほどと思いますが、それであれば物部東征は三度あったということになりますね。
僕はシンプルに、本来月神信仰も太陽信仰と並列して大和にも存在したと考えています。
農耕、漁を行う上で、月読は必要不可欠だったのでは。
ただ、そのスペシャリストで絶大なカリスマだったのが豊の女王だったのではないでしょうか。
なのでイニエも豊玉姫なら大和に対抗しうると考えたのだと思っています。
大彦の時代は大和大乱と称されるように、本当に混沌としていたのでしょう。確かにもう少し、情報が欲しいところですね。
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あるえ?
富士林先生の本だと、八咫烏は太田太根彦になってませんでしたっけ?
それだと2回で済む訳でございます
京都の賀茂神社は、三嶋みそぐい耳で、お父さんを祀る神社という感じになるのだと思います
加茂氏と太田氏の第二次物部東征の動き、気になりますね
先代伝承者は、八咫烏は裏切り者で味方のふりして裏切ったとありますので、これからの本で大元本で明らかになるのではと期待しています
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ああ、なるほど、勘違いしていました。
ウマシマジとイクメの両方で導き入れたということですね。
ヤタガラスの正体は大元本の各本で記載が違っていますが、時代的に富士林先生の説が合っていると思いますし、富編集長の最新の見解でもあると思われます。
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賀茂氏から太田家の系図って、何気に意味があると思いませんですか?
なんだか急な感じがするんです。
加茂建津身一派は第一次物部東征前に小規模に山城国に拠点を作っていて、親戚の逃げ込む先の下地があったと仮定します
第二次物部東征の際に、本家の富太田彦が三輪山奪還の為に誰に近づくのか?
そもそも太田彦って?
共闘先としては、物部と通じる賀茂氏にスポットが当然に当たる気がするんです。
加茂氏の三輪山の戦いに参加した一派が、三輪山奪還作戦成功後に独立して野見宿禰の名前からとって太田氏を名乗る様になったが、記紀に登場した事で、便宜上、加茂太根彦が、太田氏であったかの様に書かれている気がいたします。
野見宿禰はその後直ぐに無くなってしまうので、太田氏は物部政権とのパイプを失い、婚姻関係を結べなかった事で、太陽と月の女神を失うことになった
そんな気がします
そうするとその後の物部政権がヤマトから再び追い出される下地になる様な気がいたします
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最終的に何が言いたいかと申しますと、ちょっと怖い想像なのですが
先代伝承者の部分を加味して仮説を作ると
野見宿禰の暗殺に、太田氏が一枚噛んでいる
故に、出雲とやまとのあけぼのの時の方針から、富士林先生の本の内容に変化したと。
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少々内容の咀嚼に時間がかかりました。このようなことでしょうか?
第一次物部東征軍を賀茂家が引き入れる。(ヤタガラス=大御饌主?どれかの大元本にあったような)
賀茂家が三輪山を奪われ、山城国に拠点を置く(建角身?)
富太田彦が賀茂家に田道間守征伐と三輪山奪還の協力要請
賀茂家が太田彦暗殺
賀茂家が太田彦の名を奪う
賀茂太田彦=大田田根彦
なるほど、僕も太田彦と大田田根彦って名前が似てるなとは思っていました。が、現段階では不確定要素が多すぎるので、なんとも言い難いです。
時間軸も再考しなくてはなりません。
まあ、大田田根彦がそのくらいのことをしていれば、現代の日本の秘密結社ヤタガラス(があるとして)につながっていてもおかしくありませんね。
ただ、僕は大元本のヤタガラスの正体のブレは、富家伝承そのもののブレだと感じています。曖昧な部分故に斎木先生も考察からあけぼのに建角身と書き、後に再考証されて田根彦とし、富士林先生もそうされたのでは、と現段階では考えています。
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千家と国造のドサクサでも見られたように、加茂氏太田派の貢献がまるで無かったかのように映るのが宿禰姓の下賜
現政権において、本来の本家とはいえ自分の家の上位に他国の人間が据え置かれる訳ですので、短期間とはいえ、大君を自認していた勢力が果たして承伏したかどうか。
私は伝承がブレていたのでは無く、公開する順番が決められていたとか、編集長による何かの配慮やためらいの様なものを感じます。
佐伯本の、物部氏は恩知らずという表現が、富士林本では、物部氏が奈良の出雲族の保護の側面をわざわざ書いて(占領した)と変わっています。(第一次物部東征の頃の話だったでしたっけ?)
第二次物部東征は、物部氏は、磯城王家物部派閥以外に、共闘先の当てがあったのではないかと思います。
仮に意図的に宿禰姓を富家にやったとしたら、不気味なほど物部氏はキレる人物だったという見方もできますね。
イクメは困った末に出雲兵を大和に引き入れたのではなく、書いていた絵図だったのかもしれないなーと妄想中
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こんばんは。お邪魔します。
「忌部氏が曲者」に笑ってしまいました。
なるほどそういうことでしたか。(別系統の忌部氏がいた??うーんわからん。まあいいか。で終わってました。)
下照姫の話で思い出したのですが、キャナルシティのすぐ側に下照姫神社がありますね。
ご存じかもしれませんが、創建は古く1700年ほど前にはあった事が確認されているそうです。私が読んでいる伝承でも、この神社は要チェックと書いてありました。
当時は現在より海が入り込んでいましたから、下照姫に関わる人達の海上交通の拠点だったかもしれませんね。(と、すぐ妄想に走る。すみません。)
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nakagawaさん、おはようございます。
下照姫神社、たしかアジスキタカヒコも祀られている神社ですね。
なぜお二人がこのような場所に祀られているのか?と不思議に思っていました。
確かに古代には、住吉神社・櫛田神社前まで海が迫っていました。
下照姫もアジスキタカヒコも、西出雲・郷戸家「大国主」の子供です。
アジスキタカヒコの母は宗像のタギツヒメになりますので当地に彼が祀られているのは自然な成り行きでしょうが、下照姫は別名「木股姫」、因幡の素兎の曳田八上姫を母とします。
小社とはいえ、今に残るまでの社を構えたということは、伯耆国からそれなりの勢力がここに移り住んだということなのかもしれませんね。
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”しとり”については「出雲と大和のあけぼの」に出てきましたが、
シタテルヒメは海人族の文化を知っていたということ?と疑問に思っていた場所です!
タケハヅチが海人文化を持っていたんですね。
古代の海人族には大変興味があります。
臣をなぜ「とみ」と読むのか、小学生の頃の封印していた疑問の一つですね。
静神社自体初めて知りました。静神社の御祭神、ドンピシャですね。
静御前とかドラえもんの静ちゃんとか、亀井静香は関係ないですよね。
私がつまんないこと言ったらスルーの方向でお願いします。
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しとり、そうでしたね。
宗像族・安曇族・住吉族・和邇族、などなど、海人族は確かに面白い。
対馬など、ワクワクしますよ。
亀井静香、めちゃ懐かしいですね(笑)
そういや広島のドンでした!
おなじしずかちゃんでも、こうも違うものか爆!
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こんにちは。富を名乗ることに関連して教えていただきたいのですが、
日本書紀の編纂にまずーく関わった忌部氏が阿波から安房にきて、
安房神社下宮では「天富命」として祀られ、”安房開拓の神様”と書いてありました。
当地には富浦とか、高速道路にはハイウェイオアシスとみやま(富楽里)などがあり、
関係があるのかな、それとも勝手に忌部氏が名乗ったのかななどと妄想しています。
差し障りのない範囲で考えるヒントを頂けると幸甚です。
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Yopioidさん、さすがです。
富家本を読み始めてもうその境地にたどり着くとは。
そのまま全集中で富の呼吸をマスターすれば、富柱を名乗れる日もそう遠くはありません!
忌部氏は富家の分家である、そう大元出版本では解説されています。
しかし同出版社の本では物部と一緒に東征をしたと記されており、僕も混乱しました。
そこで先日富氏にお手紙でこのことを質問したばかりです。
すると富氏はお電話でしっかりとご説明してくださいました。
忌部は富家の分家である、そのことは間違いないそうです。
富家領地の玉造において勾玉などを造っていた一族で、隣の東忌部町に忌部神社があり、そこに祖の太玉命が住んでいたと言い伝えられています。
事代主の息子、富家のクシヒカタが大和へ移住する時、忌部太玉も大和へ移住し、以後子孫は大王家の宮中祭祀を司るようになります。
忌部氏の忌部とは忌日の忌であり、王家の葬儀を司ったのが名の由来のようです。
忌部氏が宮中祭祀を行う際の神具が取り決められました。
それが麻の衣(麁服)や鍬(忌鍬)などで、今も大嘗祭に受け継がれています。
その神具の材料を確保するのに適した場所が阿波国でした。
そこで忌部氏の一部が阿波国へ移住し、阿波忌部となっていったのだそうです。
ところでこの忌部氏が曲者だ、と富氏はおっしゃります。
富家が優勢なときは富の親族であることを表に出し、他家が優勢なときはその一族の振りをするのだそうで。
それが物部東征の時で、物部が優勢になりそうだ、となると物部の振りをしたのだそうです。
やがて房総半島に渡った阿波忌部の一族が建てたのが安房神社です。
その頃は物部の勢力は衰え始めており、やっぱ富家やわ、と開き直った忌部氏は富を名乗りたがりました。
しかし大彦がそうであったように、富家は本家以外で富を名乗ることを禁じました。
そこで仕方なく、土地の名前に富を入れて、おいらは富の地の人間やぞ、と威張っていたそうです。
また中には本家に黙ってこっそり富を名乗る人もいたのだとか、やれやれ。
なかなかのご名答、ご推察ですね♪
富氏曰く、安房神社は当主の住まいがそのまま神社となったのだそうです。
伊勢神宮など、ほとんどの神社は倉が神社化したんだよ、と富さんは教えてくださいました。
出雲大社や神魂神社は王宮が神社になっていますが、そうした形式は少ないのだと。
安房神社はまだ未訪問ですが、しかし写真で社殿を見た感じは伊勢神宮などと同じ形式に見えました。
来年はぜひ早い時期に、房総半島巡りをしたいものだと考えているところです。
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「富」には名前自体に力があったんですね。
忌部氏の風見鶏ぶり、いまの政治家も顔負けですね。
富浦。富津、そして富山。。本末転倒だったとはちょっとがっかりです、いんべさん。
佐貫(さぬき)の地名もあったり安房国は謎に満ちてます。
安房神社の下宮に天富命(忌部氏)が祀られています。千木は縦削ぎでした。
逆に上宮は大きくて九州式の横削ぎの千木でしたよ。
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なるほど、やはり一度足を運んでみたいものですね。
来年は柿本人麿と太安万侶の史跡を訪ねて、一度千葉方面に足を伸ばす予定です。
千木も分かってくると、面白いですよね。
ただ今の神社は社殿が作り変えられる時に、縦横が変えられてしまった可能性はありますが。
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富の名前でもうひとつ。
島根のお隣、鳥取伯耆国に倭文神社があります。
そこの祭神「建葉槌命」は映画「君の名は。」の宮水神社で祀られている神という設定です。
建葉槌は古事記に天稚彦と記され、そのことからも渡来人「海部家」の人間であると推察されます。
が、大国主の娘「下照姫」(木股姫)を妻に迎えることで、出雲王家の分家として認められていました。
倭文神社は「しとり」と読みますが、「しずり・しず」とも読む場合があります。
この建葉槌の子孫が関東方面に移住し、祖・建葉槌を祀ったのが茨城の静神社です。
彼らもどうしても富を名乗りたかったようで、地名である「中」(那珂)に「臣」をとみと呼ばせて「中臣」(なかとみ)となったそうです。
中臣鎌足は中大兄皇子(天智天皇)に取り入り、藤原姓を賜ると、今度は傍流の中臣には藤原を名乗ることを禁じました。
この時、藤原と中臣とで一悶着あった様子です。
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