
長野県大町市に、国宝にして日本最古の神明造と伝わる社が鎮座します。
「仁科神明宮」(にしなしんめいぐう)です。

大きな一ノ鳥居が見えてきましたが、この先まで進むと駐車場があります。

車から降りると、そこにはこんもりとした杜が。

見上げてみると、ひときわ高い杉の先端は白骨化しています。

境内に入ってすぐ目に入るのは、その「三本杉」。

中央の大杉は根元しか残っていませんが、昭和五十四年の突風で倒れてしまったとのこと。

参道を進むと、正面に立派な手水舎があります。

奥は苔の絨毯になっており、

先にはいくつかの境内社があります。

「全国神社名鑑」には、末社二十二社と記されているそうです。

手水舎を左に折れるとニノ鳥居があり、左手に社務所が建っています。

厳かな雰囲気の参道を歩いていき、三ノ鳥居を過ぎるとお目当の社殿にたどり着きました。

当社の創祀年代は不詳。
一説には、当地を開拓した仁品王を祀ったとも、仁品王が勧請したとも伝えられています。

「仁品王」(ひとしなおう)はし崇神帝(物部イニエ)の息子であり、垂仁帝(物部イクメ)の弟にあたる人物とされています。

彼は崇神帝の名によって安曇野に至り、八面大王を討伐した後に当地に住み着きました。
彼の子孫が後に仁科氏となったと云います。

八面大王は伝承では村人を困らせた鬼と伝えられていましたが、それは仁科氏が伝えるところであり、本当はタケミナカタの血族であり当地の偉大な王でした。

つまり八面大王は、第2次物部東征の余波で大和・物部政権に討伐された出雲系諏訪族の王だったのです。

鬼の釜古墳を守っておられるH氏によると、この時から彼のご先祖は当地に封されてきたのだとか。

仁科神明宮は白鳳元年(672年)、仁科氏が社殿を再築、その後当地が伊勢内宮の神領・仁科御厨となったので神領鎮護のため、氏が伊勢内宮を康和年中(1100年頃)に勧請し今に続くと云います。

往年は伊勢同様、式年造営で社殿すべてを立て替えていたそうですが、仁科氏滅亡後は部分的に修理するのみになっています。
現在の社殿は、寛永十三年、松本藩主松平直政により造替されたものであり、日本最古の神明造として国宝に指定されました。

本殿の左手奥には、式年造営のための仮宮がありました。

当社は国宝に指定されていながらも、なぜか観光スポットとしてはそれほど知名度もなく、故に厳かな空気をゆっくり堪能することができます。
仁科氏の権威が氏族の滅亡と共に朽ちていく様に、古びた神明造の社殿は静かに終わりの時を待っているかの様でした。


narisawa110
仁科氏に関しては面白いことに、阿部氏説があります。安曇に関しては、磐井の乱で、一緒に長野に流れた説があります。
この地域は出雲族が来る前からの関東を中心とした翡翠ルートとも考えられます。
少なくも諏訪信仰と弥彦の信仰が下地になり、乱を通じて親戚を頼って安曇氏がここに来たと思われます。
故に安曇氏と大彦系が混同して説に投影されるのだろうと思われます
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仁科が阿部だと、また話が違って見えて来ますね。
阿部と安曇が一緒に長野に流れ着いたのでしょうか。
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narisawa110
仁科氏の立ち位置を表すかの様な実態として
実はここの摂社群ですが、諏訪大社四つが区別されて並んでいます。
上社、下社の区別ではなく、よっつを区別して摂社としています。
まるで各社の中心の一族を区別しているかの様です
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なるほど、お目付役としての立ち位置が、境内にも表れているんですね。
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