
羽田には、動かしてはならない鳥居がある。
羽田のミステリー、「穴守稲荷神社」(あなもりいなりじんじゃ)を訪ねました。

穴守稲荷神社は東京都大田区羽田の街の中に鎮座しています。

参道の距離は僅かながらも、杜のトンネルとなっています。

かつては海老取川の東にあった当社ですが、終戦直後の羽田空港の拡張工事に伴いに現在地に移転しました。

江戸時代の文化元年(1804年)、羽田沖の干拓事業の折り、海が荒れて干拓地の堤防が決壊し、水田は海水による甚大な被害を受けました。
そこで村民たちは天下泰平を祈願し、堤防の上に稲荷大神を祀ったのが穴守稲荷神社の起こりとされています。
元々は羽田干拓事業を主導した鈴木家の土地にある、小さな祠であったということです。

参道の先に朱い社殿が見えてきました。

向かいには立派な神楽殿も建っています。

明治期になると穴守稲荷神社の境内も広くなり、周辺では潮干狩りや温泉を楽しむことができ、門前は温泉旅館や芸者の置屋が立ち並んで賑わいました。
この繁栄を見て、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)は京浜蒲田から穴守稲荷神社へ向けて支線を伸ばしたといいます。

昭和6年(1931年)、干拓地の北側が埋め立てられ羽田飛行場が開業します。
羽田一帯が更に盛り上がってきた昭和14年(1939年)9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻を皮切りに第二次世界大戦が勃発しました。



穴守稲荷神社の祭神は豊受姫命。
伊勢の外宮に祀られる神で、富氏が言うところの豊玉姫の娘になります。

拝殿の横には所狭しと鳥居が連なり、

更に数々の境内社がひしめき合っていました。

奥には人工の山のようなものが見えます。

その山は奥之宮となっていました。

洞窟のように作られた穴に祀られる金色の社殿。

脇には神砂「あなもりの砂」があり、ご利益を求めて持ち帰る人も多いのだとか。

あなもりの砂の由来は次の通り。
ある時、老人が漁に出て釣り上げた魚を篭に入れていましたが、中を見るとなんとそこには、湿った砂があるばかり。
翌日も翌々日も大漁でしたが、老人が篭をみると、やはり湿った砂があるばかりででした。
老人はい不思議に思い、このことを村人たちに話しました。
これは狐の仕業に違いない、と村人たちは稲荷神社を取り囲み、ついに一匹の狐を捕まえました。
狐を哀れに思った老人は、彼を許してそれを解き放しました。
それ以降、老人が漁にでると必ず大漁となり、篭には多くの魚とわずかばかりの湿った砂が残るようになりました。
老人が砂を持ち帰って家の庭にまいたところ、客が途切れることなく訪れるようになり、老人の生活は豊かになりました。
以来、あなもりの砂には招福のご利益があるとされています。

ちなみに、あなもりの砂は、求めるご利益に応じて下記のように砂を撒きます。
商・工・農・漁業・家内安全の招福には玄関入口へ。
病気平癒の場合は床の下へ。
災・厄・禍除降の場合はその方向へ。
新築・増改築の場合は敷地の中心へ。

この石垣の山は螺旋状に頂上まで登ることができます。

途中にはさまざまな稲荷社が建ち並び、

穴守稲荷神社を俯瞰することもできます。

頂部に鎮座するのは穴守稲荷神社の上社。

第二次世界大戦が終わった直後の昭和20年(1945年)9月21日、羽田飛行場を軍事基地として拡張するため、米軍のGHQにより一帯の強制退去命令が下されました。

この時、穴守稲荷神社付近と羽田の住民たちには24時間の時間しか与えられず、ほとんど着の身着のまま荷車を引いて家を後にしたといわれています。

住民の退去後、穴守稲荷神社の社殿や多くの鳥居はGHQによって取り壊されましたが、門前の大鳥居だけは撤去されず、そのまま空港の駐車場に残っていました。

なぜ門前の大鳥居だけが撤去されなかったのか。
それはGHQが撤去作業を行おうとした所で事故が相次いだからだと云われています。

門前に建っていた赤い鳥居をロープで引きずり倒そうとしたところ、ロープが切れて作業員が怪我をし、作業は一旦中止に。
その後、作業を再開すると、今度は工事責任者が病死しました。
このような怪異が何度か続き、やがてこれは「穴守さまのたたり」だという噂が流れ始めます。
結局何回やっても撤去できないため、GHQも諦めて、大鳥居をそのまま残すことになったということです。

昭和29年(1954年)、東京国際空港ターミナルビルが建設されました。
この時、滑走路も拡張されましたが、そこでも死傷者が続出しました。

もっとも、「穴もりさまのたたり」は都市伝説であり、強制的に住居を退去させられた後に整地に動員された元住民らが、反抗心から意図的に鳥居を残したのが真相だという話も伝えられています。
羽田空港の滑走路に堂々と立つ朱い大鳥居は、穴守の元住人から見れば、実に誇らしいものだったに違いありません。



その大鳥居、今は羽田空港の滑走路から移され、空港を望む埋立地の一角に鎮座しています。

1990年代に入り、羽田空港の沖合展開事業の障害になる穴守の大鳥居の撤去が計画されました。
この時、地域住民らから、穴守稲荷神社や強制接収の憂き目にあった旧住民らのシンボルとして、大鳥居を残したいとの強い要望があがりました。

そして拝殿の移設から半世紀以上経った平成11年(1999年)2月、ついに穴守の大鳥居が移設されることになりました。
いざ移転するために土台の周りを掘ってみると、鳥居は非常に頑丈にできており、とてもロープで引きずり倒せるようなものではないことが判明しました。
そこで鳥居をクレーンで吊り上げることにするのですが、この時もそれまで晴天続きだった天候がにわかに雨風となり、クレーン車のワイヤーが揺れ動く一幕もあったということです。
幸い2日間の工事は滞りなく終わり、現在地に移設されて今に至っています。

大鳥居の移設後、羽田空港は大きく飛躍することになります。
平成16年(2004年)に第2旅客ターミナルビルが、平成22年(2010年)には国際旅客ターミナルビルが運用開始されました。

「のろいの大鳥居」と呼ばれた朱い穴守の鳥居は、空高く「平和」の扁額を掲げ、今も飛び立つ翼を見守り続けているのでした。




科学では説明できないことってやはりあるんですね。
羽田空港にこんな歴史があるとは知りませんでした。
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オカルト・ミステリー・伝承などといったものの多くは、エンターテイメントでタネがあるのだと思っていますが、ごく稀には本物の神秘もあるのかもしれませんね。
そういった雑多な事情も含めて、僕は好きですが😊
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