高角山:語家~katariga~ 19

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『秋山に 落つる黄葉 しましくは な散りまがひそ 妹があたり見む』(137)
「秋の山に落ちるもみじ葉よ、しばし散らないでおくれ。妻のあたりを眺めたいから」

人麿が出発した夕方には、渡津村の東方の空に浅利富士が見えた。その雲の間にうっすらと月が昇って見えた。
罪人は目立たぬよう夜に移動させられる。その日は夜道がよく見える満月だった。
人麿の姿がないことに気づいた彼女が袖を振っていたかも知れなかったが、景色は涙でかすんでよく見えなかった。

高角山に登ると見晴らし良く、青い空がどこまでも続いていた。人麿は馬から降り、東の先に立ち渡津村の方角へ思わず袖を振った。

『石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き我が寝し 敷栲の 妹が手本を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ はしきやし 我が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山』(138)

「石見の海には港に適した入江もなく、良い干潟も無いと人は言う。たとえ港は無くとも、たとえ干潟は無くとも、クジラや魚は捕れる。柔田津(にぎたづ)の荒磯には、青々とした玉藻や沖藻が、明け方には波に寄せられ、夕方には風に寄せられる。そんな玉藻のように寄ってきて共寝した妻の白い手元を離れてきた。来た道の曲がり角ごとに幾たびも振り返ってみたが、里はますます遠く離れ、高い山も越えてきてしまった。彼女は夏草のようにしおれて嘆いていることだろう。ああ角の里が見たくてたまらない、こんな山などいっそ消えてなくなれ」

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島根県江津市の江の川(ごうのかわ)の河口へやってきました。
江の川は、島根県および広島県を流れる一級水系の本流で、流路延長194km、流域面積3,900k㎡に及びます。

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広島県北の三次市では馬洗川にも繋がっており、古くは可愛川(えのかわ)と呼ばれていて『日本書紀』にその名を残しています。
「ゴウ」とは川・川岸という意味があり、河口の江津(ごうつ)はゴウの津、つまり川の港から名付けられたと言われています。

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この江津の海沿いに渡津(わたづ)の集落があります。

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そこに人麿が住んだ江東駅舎係員の実家があったとのことなので、ぶらり歩いてみました。
集落にあったのは素朴な大歳神社と、

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参道に咲く花も美しい嘉戸八幡宮(かどはちまんぐう)でした。

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柿本人麿の渡津での暮らしぶりを示す資料・痕跡は皆無と言って良いです。
渡津の女に関しても同様です。

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そもそも人麿の生涯そのものが謎に包まれているのです。
彼の痕跡を辿る唯一のものが和歌。
藤原不比等が、柿本人麿の存在を歴史から消そうと試みたとしても、その天才的な歌までは、この世から消し去ることはできなかったのです。

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この和歌からひとつひとつ、柿本人麿の痕跡を拾い出し、彼の歴史を蘇らせたのは他の誰でもない「斎木雲州」氏です。
氏が受け継がれた伝承を元に、失われつつある広範囲な歴史の検証と再生の努力は、筆舌を尽くしても語りきれないものなのです。

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人麿が左遷から流罪に確定し、再び刑地へ赴く旅の途上に立ち寄った「高角山」(たかつのやま)を訪れました。

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そこからは浅利富士と呼ばれる室神山と、

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渡津の集落が垣間見えていました。
汗ばむ体に、風がとても心地よい。

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この高角山には、人麻呂像があるというので探していましたが、近くまで来ているはずなのに、なかなか見つかりません。

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それで公園を整備されている男性に尋ねてみたら

「ああ、それは私が作ったものだよ」

とおっしゃるではないですか。

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「案内してあげよう」

と現地まで連れて行ってくださったのは江津にお住まいで木彫・石見根付の高名な彫刻師の「田中 俊睎」(たなかとしき)さん。

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人麻呂像制作当時のエピソードも含め、いろいろとお話してくださいました。

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人麿が別れを告げる相手の女性は渡津の女、ではなく依羅姫でした。

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江津では依羅姫は「およそ1300年の昔、角の里(現在の二宮町)の恵良に那賀郡の郡庁があった頃、石見の国の初代国守として、柿本人麻呂が都より赴任したおり、恵良の豪家の娘で人麻呂に請われて妻になった人である」と伝えられており、田中氏はこの伝承を元に銅像の製作を請け負われたのです。

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田中さんはこの銅像を制作するにあたり、古代のことにことさら詳しいわけでもなく、大変ご苦労なされたそうです。
独学で研究され、イメージを膨らませ、像の制作にあたられたとのこと。

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出来上がったものは誠に素晴らしく、また根付師らしい創意に溢れるものでした。
ただ、それにケチをつける古代史専門家やフリークスもいるようで、だったらお前がデザインしてみろよと言ってやりたいところです。

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ところでこの依羅姫像、くるりと回転するギミック付きであることにお気づきでしょうか。
依羅姫が人麿と向かい合ったり、プンっとそっぽを向いたりします。
そして田中氏らしい遊び心が回転する台座にありました。
そこにこっそり現れる名は「恵良姫」。

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江津では恵良姫(えらひめ)が、後に依羅姫に変えられたのだと伝えられていました。
そこで氏は、この乙女の像を恵良姫像として作りたかった、との思いでここに名を刻んでいるのです。

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僕は田中さんに人麿の本を書いていることをお伝えしました。
しかし僕の本は斎木雲州氏の原著を元にしており、依羅姫は和泉国の大依羅神社社家の娘であると書いてあります。
そのことを素直にお話ししましたが、田中さんは「いいよいいよ、柿本人麿や依羅姫にもいろんな説があるしそれでいいと思っている」と快くおっしゃっていただけました。

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謎に満ちた人麿の生涯を、彼の和歌から導き出したのは僕の貢献ではなく、斎木雲州氏のものであります。
「人麿古事記と安万侶書紀」は、斎木雲州原著を踏まえ、伝承地を訪ね歩き、僕なりの考察も加えて物語調の本として書き上げたものです。

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斎木氏は著書で、依羅姫と渡津の女について、こう語ります。
人麿は歌の中で依羅姫を歌うときに「若草」という言葉を使っていました。

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いにしえの人は、情緒深いというか、露骨というか、歌の中にかなりストレートに情愛を詠いました。
それをなるだけ紳士的に、解説を試みてみましょう。
古代の日本人は、「ビーナスの丘の下草」は美しい物と考えていたました。
そして女の年代を、歌の中で草で表現したそうです。

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つまり和歌の「若草」や「春草」は乙女のそれを意味します。対して夏草は良く茂るので、女盛りを例えました。
138番の『靡けこの山』の歌は渡津の女性に向けて歌われたものですが、そこには「夏草の思い萎え」とあり、これは人麿の「夏草に接し得ぬ未練」を示しています。
また同歌の「荒磯」とは、盛んに肉体を揺する熱烈な様を表し、そこに乙女の恥じらいは見受けられません。
つまり渡津の女性は熟練の大人であることが推察されます。
当時の年齢で20代、今の感覚で言うなら30代くらいの女性ということでしょうか。

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それにしても人麿ちゃん、僕になんて解説をさせるんだ。
夏草に荒磯って、爽やかに歌いつつも未練たっぷりやないかい。

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しかし人麿のこの138番は、妻がいる渡津の村が山々が邪魔で見えない、「靡けこの山」と詠っており、どこか呪術的にも思える素晴らしい和歌なのでした。

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光栄にも偶然お会いした田中俊睎さんは、そのあと自宅のアトリエで数々の貴重な根付作品を僕に見せてくださいました。
奥様も同席いただき、3人で交わしたひとときの何と貴重なことか。
おいとましかけた僕に、「もう少し時間あるかい」と言って案内してくださったのは、江津にある別の依羅姫像でした。

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そこに置かれていたのは、まだあどけなさの残る若草の依羅姫。

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「私が思うに、人麿と依羅姫は師弟関係だったのではないかねぇ。師と弟子に、次第に愛が芽生えたと考えているよ」
田中さんはこの像を見せてくれながら、そう僕に話されました。

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古代史の知識はないと言いながらも、そこにたどり着く田中さんのご慧眼に感服です。

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もう一ヶ所、江津市総合市民センターに置かれてある

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「平成の恵良媛」像も紹介くださいました。

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それは成熟した大人の女性、

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夏草の恵良姫です。
薄衣を纏い、どこか現代風でもある空に伸びゆく像。

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「ここから見る角度が一番色っぽいんだよ」
と恵良媛像の後ろが見える場所に、田中さんは最後に僕を連れて行ってくれました。
はい、とっても良いおしりです。
夏草の思ひ萎えて、田中さんも僕も、やっぱり出雲の子だなぁと実感したのでした。

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