
新倉富士浅間神社から、398段、長さは約200mの咲くや姫階段を悲鳴を上げつつ登れば、

新倉山浅間公園の絶景がありました。
この五重塔は戦没者慰霊塔で、春には桜とのコラボレーションが有名です。
有名すぎて、外国人だらけですけどね。

山梨県富士吉田市大明見にある「小室浅間神社」(おむろせんげんじんじゃ)に来ました。

旧称は「阿曽谷宮守神社」といい、「大明見小室浅間神社」「北東本宮小室浅間神社」「富士山北東本宮小室浅間神社」とも称します。

崇神天皇6年(紀元前92年)、阿曽谷神社を鎮祭したことにより始まると伝えられる当社。

その後、富士山噴火を鎮めるため応神天皇第二皇子が宮守を司り阿曽谷宮守神社と改称し、崇峻天皇己酉2年(589年)、厩戸皇子来たりて富士山元宮阿座眞明神と改称したと伝わります。

応神天皇第二皇子?豊系??

厩戸皇子到来???

祭神は「木花開耶姫命」(このはなさくやひめのみこと)他、「誉田別命」(ほんだわけのみこと)、「国狭槌命」(くにさつちのみこと)、「泥土煮命」(ういじにのみこと)、「上筒男命」(うわつつのおのみこと)、etc.

当社はもともと大明見村字古屋敷にありましたが、貞享3年(1686年)、現在地に遷座し、先に当地で祀られていた福地八幡大神社を合殿に合祀したとのこと。
本来ここは、八幡社だったのですね。

北口本宮冨士浅間神社もそうでしたが、浅間信仰は比較的新しい信仰なので、古い信仰を上書きして存在してる感じがします。

ただ、富士山の祭神がコノハナサクヤヒメであることに強い違和感を感じている僕は、この山の真の祭神はイワナガヒメだったのではないかと考えています。
そうであれば、八幡社に浅間神社が乗っかっていることにも、納得できるのですが。

明治16年(1883年)、当社である事件が勃発しました。
宮司家である宮下家から、秘匿されていた『宮下文書』(富士古文書、富士古文献)が公開されたのです。

宮下文書(みやしたもんじょ)とは、中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている文書です。
そこには、初代天皇が現れるはるか以前の超古代に、富士山麓に「富士高天原王朝」があったーと書かれているのだとか。



小室浅間神社の旧社地、古屋敷の古宮を訪ねてみました。

草が生えっぱなしの社地には、南朝系の人がいたり、

泰山府君の人がいたり。

奥に石祠がありますが、ある人が言っていた「徐福のお社とお墓」とはこれのことでしょうか。

まあ、富士山に徐福の墓があるはずもなく、彼が当地に来ていたというのもあり得ないでしょう。
故に宮下文書は、見るまでもなく偽書たり得るのです。

宮下文書の文体は、漢語と万葉仮名を併用した記紀風のもので、筆者・成立事情は不明。助詞の用例や発音など言語的特徴から幕末期の成立であるとも考えられています。
富士神代文字を徐福が漢字に翻訳とのことですが、う~む。。。

近くに、宮下文書を元に、富士王朝の時代に有った神宮を再建したという富士阿蘇大神宮(不二阿祖山太神宮)なるものがあると伺いましたが、ネットで見ただけでも十分にお腹いっぱいになりましたので、参拝は割愛しました。

でも最後にこの小屋の中を見て、小室浅間神社に来て良かったと思ったのでした。

🐥なんで小屋なの🐤
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なんでやろな🤔
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