宝厳寺:八雲ニ散ル花 番外

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愛媛県松山市、道後温泉を眼下に見る「伊佐爾波神社」(いさにわじんじゃ)、3度目の参拝です。
日本に3つしかないとされる国の重要文化財・八幡造りの社殿は、いつ見ても凛としていて見惚れてしまいます。

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「湯月八幡宮」と古く称された当社をこの度参拝したのは、うさの彫刻を確認するため。
いますね。

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猫や

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龍さんもいらっしゃいますが、

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四隅で

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頑張ってらっしゃる方もいらっしゃいますが、

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うさぎがいるいる。

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それにしても、「波とうさぎ」のモチーフは日本の伝統的デザインとしてあるのですが、何故に波とうさぎなのか。
因幡の素兎にしてもそうですが、水に濡れると命に関わるうさぎは、絶対に海に近づかないと思うんですよね。

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これは古代に、宇佐族と海部族に、関係があったことを伝えているんじゃないかと思っています。

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なんかちょっと怖いうさぎと、

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ヤックル的な何か。

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今回道後に来たのは、伊佐爾波神社のうさ確認と、お隣にある「宝厳寺」(ほうごんじ)を訪ねるためでした。

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宝厳寺は、愛媛県松山市道後湯月町にある時宗の寺院。

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山号は豊国山。院号は遍照院。

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当院の境内は、「一遍上人の誕生地」として愛媛県指定史跡となっています。

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寺伝によると、天智4年(665年)に、斉明天皇の勅願により国司「越智守興」(おちもりおき)が創建したということです。

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宝厳寺は正応5年(1292年)、時宗の祖・一遍の弟にあたる仙阿によって再興され、時宗十二派のうちの奥谷派本山となりました。

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一遍は延応元年(1239年)伊予国(愛媛県)久米郡の豪族、河野通広の第2子として生まれました。
彼は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、下人や非人も含む民衆に「踊り念仏」と「賦算」(ふさん/南無阿弥陀仏、決定往生六十万人と記した念仏札を配ること)で極楽浄土へと導いたとされます。
この踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と説いたといいます。

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彼は本来、阿弥陀仏以外の地蔵菩薩や薬師如来などを信ずることは雑修とする立場でした。
しかしある時、一遍は一人の僧に信心の心がないことを理由にお札の受け取りを拒否されました。この時、一遍は周囲の人々の目を気にして、お札を強引に渡してしまいます。
その後、彼は、その行動が正しかったのか、と悩むようになったといいます。

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一遍は、熊野本宮の証誠殿に参籠し、神託を仰ぐことにしました。神に祈りを捧げていると、突然お堂の扉が開き、長頭巾に袈裟を着た白髪の山伏が現れ、言いました。

「念仏を勧める聖よ、あなたが勧めたことで、はじめて人々が往生するのではない。念仏をするだけで極楽往生できるのは、遠い音に阿弥陀如来が正しい悟りを得たときに、もう決まっていることなのだ。相手に信心があろうがなかろうが、浄らかであろうがなかろうが、人を選ぶことなくただお札を配って念仏を勧めなさい」

この神託を受け、一遍上人は阿弥陀信仰の真意を悟り、確信を持って布教活動に専念するようになったのでした。
この時のお札の受け取りを拒否した僧、熊野本宮の山伏は、実は熊野権現の化身であったと伝えられています。

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「聖絵」によれば一遍は14の神社に参詣して結縁したと云われ、一遍の神祇観は「専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」との言に代表されるように、神明すなわち日本の神をあがめ、神の本地である仏の徳を拝することは専修念仏の妨げとはならないというものであり、熊野権現の神託や鹿児島神宮(大隅正八幡宮)での神詠も受け入れたということです。

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日本に蒙古襲来の脅威が迫り、国家存亡の危機を迎えようとしていた時代、臨時的に集まって六時(一日を六分した時間)を交替しながら、昼夜不断で念仏を唱える集団を「時衆」と呼びました。そこに一遍上人やその弟子たちもおり、時衆の一員でした。
のちに江戸時代に、一遍を祖とする時衆の宗教は、「時宗」と呼ばれるようになっていきます。

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一遍上入は、山野を放浪しながらどのような場所でも布教していたので、自分の宗教のための寺院は必要ないと考えていたようです。
彼は念仏を広めるのに不要なものは一切持たなかったので、「捨聖」とも呼ばれました。
片瀬で布教をしていた時、「紫雲たちて花ふりはじめけり」という不思議な現象が起き、人々が一遍上人にことことを尋ねると、「花のことは花に問へ、紫雲のことは紫雲に問へ、一遍知らず」と言ったといいます。
彼は、周囲の期待をよそに、自分自身を神格化して宣伝したり、自分の教団をつくろうとする意志は全くなかったのでした。

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晩年の一遍上人は、病を得ると、彼の尊敬する平安時代の僧・教信が祀られる教信寺(加古川市)で最期を迎えようと、その地を目指します。
ところが、その途中で兵庫の人々に請われ、そちらへ赴くことになりました。
そしてそこの観音堂(真光寺)で、弟子や信者たちに見守られながら、51歳で亡くなります。
遺言は、教信と同じように「葬式をせず遺骸を野に捨てるように」というものだったそうです。

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上人の遺骸は、在家の人たちによって茶毘に臥され、その墓が建てられたそうですが、現在真光寺には、一遍上人の立派な五輪塔の墓が建っています。
1995年の阪神大震災ではその五輪塔が倒壊し、水輪の中から骨壺と骨灰があらわれました。骨壺は水差しを流用したもので、蓋は無かったといいます。
調査の結果、それは一遍上人にふさわしいということで、現在は新しい骨壷をつくって、ふたたび遺骨をもとの場所に納めたとのことです。

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一遍上人は、布教する相手の身分は間わず、誰にでも平等に教えを説いてまわるものでした。
それは「名号は信ずるも信ぜざるも、唱ふれば他力不思議の力にて往生す」というもので、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えれば、かならず極楽往生で
きるという教えでした。
とくに生活苦にあえぐ卑賤の民は、このような一遍の無欲さや人々に平等に接する姿勢に感銘を受け、つぎつぎと一遍の教えを信じるようになりました。
そして、その人々の中には、漂泊の民、出雲散家も多く含まれていたのでした。

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時宗の信者は自ら阿弥号を名乗り、阿弥衆と呼ばれるようになりました。
それで出雲散家の信者にも、阿弥号を名乗る者が出てきました。
時宗の信者の中には田楽をおこなう法師もいて、その踊りの所作が踊り念仏にも取り入れられたと言われています。
田楽は、猿楽を真似して行われるようになりました。猿楽が中央の神社や寺院などで興行されていたのに対し、地方の神社の祭りで行われたのが田舎猿楽で、それを略して田楽と呼ば
れるようになったといいます。

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その猿楽や田楽の演者の中にも出雲散家がおり、時宗の信者になっている者が多かったのでした。
室町時代に猿楽の演者の中から登場したのが、有名な「観阿弥」と「世阿弥」の親子であったということです。

大元出版:富士林雅樹著『出雲散家の芸と大名』より

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