和奈佐神社:常世ニ降ル花 和奈佐薄月篇 01

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松江市来待町に「和奈佐神社」(わなさじんじゃ)という、ちょっと変わった神社があります。

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松江市と奥出雲町を結ぶ県道25号線沿いの、田園と私有地らしき畑の間に参道があります。

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いきなり通せんぼ!かと思いましたが、ご安心ください。
イノシシ対策でしょう、横にスライドさせて通れます。開けたらちゃんと閉めましょう。

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つま先しか乗らない奥行幅のほっそ~い階段をよちよち昇ると、

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かわいい神社が鎮座しています。

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祭神は「和奈佐比古命」(わなさひこのみこと)。一般には聞き慣れない神様です。

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このワナサという名は、『丹後国風土記』逸文の「奈具社」の項に記載があります。

「丹後の國の風土記に曰く、丹後國丹波の郡、郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂きに井あり。其の名を真奈井と云ふ。今はすでに沼と成れり。此の井に天女八人降りて来て水浴みき。
時に老夫婦あり。 其の名を和奈佐の老父(おきな)、和奈佐の老女(おみな)と曰う。
此の老達、此の井に至りて、ひそかに天女一人の 衣装を取りかくしき…」

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ここではワナサは、天女をこき使い、十分な富を得て用がなくなると家から追い出す、極悪非道の老夫婦として描かれています。
しかしこの天女とは、竹野郡の奈具の社に座す「豊宇賀能賣命」なり、と記されており、物部イクメ(11代垂仁帝)に大和を追い出され、刺客を差し向けられた豊姫のことを指しています。
なので逆に、ワナサは、丹波に逃れてきた豊姫を匿った側の人たちであったと考えられ、丹波国風土記はワナサにとって悪意ある嘘話を書いたことになります。

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和奈佐神社の境内はあまり広くはありませんが、そこに立派な荒神の木がありました。ここに荒神木があったのは、少し驚きました。

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なぜなら祭神のワナサ彦は、ここから南東5Kmほどの場所にある雲南市大東町の「船林神社」では、「阿波枳閇委奈佐比古命」(あわきへわなさひこのみこと)として祀られているからです。
アワキヘ・ワナサ・ヒコ、
アワキ、阿波来、
つまりこれは四国の「阿波国から来たワナサの王」という意味の神名です。

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松江と雲南地方に、ワナサの王が祀られているということは、古代に阿波族がそこに定住していた、という根拠となります。
そしてワナサ族は海部族の王都となる旧丹波国にも、少なくとも物部王朝期には居たということです。

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ところでこの和奈佐神社、情報があまりないのですが、『出雲大社の歩き方』さんや『松江の花図鑑』さんによると、明治期に来待神社に合祀されたそうです。
その後、当社は社殿修復がなされ、来待神社の境外社として現在も和名佐地区に祀られているとのことです。

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興味深いのは、当社の由緒に、「(創建は)不詳。和名佐比古命は阿波から黒曜石を求めて「森戸山」へ降り立ったと伝えられる」とある点です。
やはり阿波族(ワナサ族)は黒曜石を求めて、島根に来ていたのです。黒曜石とは、おそらく隠岐島のものでしょう。隠岐島の黒曜石は、ロシアのウラジオストクにまで運ばれています。
そして石器である黒曜石がより重宝されたのは、出雲族が定住して製鉄を始めるよりも古い時代、いわゆる石器時代のことと考えられます。

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さらに由緒では「また別伝によれば、当社の祭神は女神ともされている」とあります。
それは、ワナサ族は母系社会であった可能性、さらには出雲王家に后を出した可能性があると思えるのです。

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12件のコメント 追加

  1. 出芽のSUETSUGU より:

    やっと参拝できました。イノシシのスライド式の柵がありました。これを読んでなかったら、なんの注意書きとなかったので中に入るのを諦めていたと思います。ありがとうございました。また、あとでワナサが合祀されてるとは知らずに、以前来待神社に行ってたことがわかりました(^_^;) 古代の阿波忌部さんたちも来待石は柔らかいからきっと加工しやすかったんでしょうね。体験できるとこが来待はあるから今度石板プレートみたいなの作りに行ってこよかなと思います😊

    一人女神社とか高宮神社も近いから気になりました。

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    1. 五条 桐彦 より:

      あのあたりは、気になる名前の神社が多いですね😊

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  2. 匿名 より:

    追伸
    二つ目のホームページですが、現在確認できる出雲定着ですが、面白い事に約6000年前

    実は旧石器時代や縄文遺跡が極端に少ないのが出雲なんだそうです

    人のいない所に定着したと思われ、その際には大きな戦いはなかった様に思えます

    ソニーの先生のお話はもしかしたら下越方面までのオミツヌの時のお話までが入ってるのかもしれませんね

    収穫の少ない国には食料を融通する仕組みは最初からは無かった様に思えます
    家族間の助け合いの様な仕組みを国レベルで行うには大規模な血縁関係が根底にある様な気がします

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    1. 五条 桐彦 より:

      なるほど、それは心強い情報です。
      そもそも、争いを避けてわざわざ超遠回りルートで日本までやってきたのに、日本で虐殺を行うという話が矛盾しています。
      オカルトやスピリチュアルで歴史を語るのは、非常に危険です。
      偉大な王を再び召喚して根も葉もないことに謝罪させたということですから、それが本当ならどんな弊害が起きるか、恐ろしく思います。
      言向けた、ということは、血縁関係を広げたということでしょう。それが一番平和的に統治と領土拡大ができたと思われます。

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      1. 匿名 より:

        narisawa110

        私はですね、忌部氏は、三島一族の様に、富家における影の存在説をとっております。
        稲作に関する情報としては、なかひらまいさんの本によれば相当古くから九州では陸稲は作られていたと考えられ、紀州に行くまでは部族的な展開があった事を考えております。
        国譲り事件の100年前にはすでに越智族は奈良の御所市で大規模な土木工事による水田化を実施しており、それを見たクシヒカタが発展性を見出した訳です。
        宇佐、越智、おこべ神社の先祖、隼人族そしてアタ族。
        アタ族に関しては製鉄を論じる際に湖沼鉄の製鉄を持っていたと分析されています
        湖沼鉄に関しては、宇佐の領域から瀬戸内海、そして血の海とも言われた大阪までが範囲で面白い事に関東を抜けば中臣家や武内神社の領域に
        、更には忌部氏も重なります
        そこに今まで存在していなかった、五穀豊穣の宗教がやって来たわけです。感謝してるだけで病気が治ったり、収穫量が増えたり、困った時には食料を分けなさいと神託が降りたりします。人気が出ないわけがありません。
        もしかしたら稲田姫の祀られる神社の本殿の社紋の月の神も、もしかしたら出雲から九州に行き、在来の部族が独自性を獲得したのかもと、先生の撮影した写真から考え始めています。
        四国の色々の設定に関しては記紀に服属し過ぎているので逆に信ぴょう性が感じられません。
        記紀を紐解く出雲口伝の様な暗号解読法が当てはめられていないからです。
        四国の領域には、古くはナニナニ別という四つの名前が割り当ててあり、つまり、皇祖の血筋と仮定するなら、物部氏か、阿部系くらいしか別が付きません。
        オノコロして最初に降りたのもヒルコ
        系図もカミムスビとタカミムスビの子孫である事からも、やられちゃった忌部と、上手くやった祭祀が出来る分家が居たに過ぎないと思われます。
        これは出雲と違って銅剣祭祀に移行せず後半は見る銅鐸に上書きされている事からも推測できます。
        千葉の安房は、阿部が忌部氏のフリをしている可能性があります。(四国においては確か、ホヒの血も入ってた様な伝承があったかと)

        海部や物部が80代、皇族と新潟三島や富家が120〜130代

        そして諏訪においては物部氏が忌部氏と組んでミナカタを偽装した可能性を考えると

        記紀を利用した四国や忌部の偽装の解読ストーリーが出土物から考えても、見えてこないわけです。

        その上書きのタイミングが、四国阿波忌部説には見えてこないのです。

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        1. 五条 桐彦 より:

          僕の言う阿波王国の越智と忌部は、便宜上、そう呼び分けています。
          忌部は、出雲ではさほど力を持っているようには見えず、また別の面では物部などの影響も強く見受けられます。
          越智の本拠とされる伊予国では、その先祖は饒速日となっており、これまた物部の上書きが強く疑われるところです。
          出雲王国に対して、阿波王国も便宜上そう呼んでいますが、あるいは別の相応しい呼び名があるかもしれません。
          淡路島と四国全土を本拠地とした大きな王国が日本の古代史の原初にあり、それが東西の二王家に分かれ、主に西側を真祖越智家、東側を真祖忌部家があった、というイメージです。

          〇〇別というのであれば、四国には「天石門別神」があります。
          古来より天皇の宮殿の四方の門に祀られていた神で、忌部の祖神とされます。
          徳島の方の話では、阿波国一宮の大粟神社は天石門別八倉比売神社であり、祭神は大宜津比売、また現在の八倉比売神社は天石門別豊玉比売なのだそうです。
          今回、高知の天石門別安國玉主天神社という同名の二社を参拝しましたが、それぞれ祭神が「天石門別神」と「天手力男命」となっています。
          この祭神は忌部の神である「玉主命」(たまぬしのみこと)となるようで、娘は静岡の事任八幡宮に祀られるコトノマチヒメ(阿波々神社の阿波姫)であり、その夫は中臣の祖である「興台産命」(こことむすびのみこと)で、子に天児屋根をもうけたと伝えられます。

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          1. 匿名 より:

            narisawa110

            私は、四国の神様があれだけ多彩になったのはヒボコを始めとする負けちゃった軍団が流れ着いたからと考えています。
            なので豊彦が居たり、阿部が居るのだと。
            まず必ず阿波説で出てくるのが
            【天石門別八倉比賣神社】
            ビッグネームであります。
            阿波説の要点は
            「大宜都比売(阿波の神)=天石門別八倉比賣=天照大御神」
            ということの様です。

            まず、
            社名から考えて、天石門別神と八倉比売命の二座を祀るはずですが、何故か延喜式でも一座とされております。
            現在も八倉比売命のみを祀っていますね。
            ただし、参道沿いの箭執神社で天石門別神(櫛岩窓命・豊岩窓命) を祀っているので、
            これでいいのかもしれません。
            主祭神は当然ながら八倉比売命のはずなのですが、境内の案内板には大日孁女命と書かれているのです。

            両者は同一神?というと、天照大神を八倉比売命という別名で祀っている神社は基本的に四国以外に見当たらないので、どう考えても本来は地元神で伝承が失われた女神という範疇を出ないと考えられます。

            一般に偽書とされる「天石門別八倉比賣大神御本記」ですが、その一方で『安房斎部系図』に
            天背男命(カガセオ。物部の投影と考えられます)の后神が八倉比売神で、その子が天日鷲翔矢命(阿波忌部の祖)とあります。
            つまり物部の子孫の自己紹介な訳です。
            要は、家督を継がなかった物部に嫁入りした女系の家が忌部氏だよという事ですね。
            阿波のみに祀られている八倉比売の記述内容としては、より信用のできる内容かと思います。

            また、『斎部宿禰本系帳』では天背男命は天石門別神の別名とされています。
            この珍しい神社名は、夫婦の物で間違いないでしょう。
            そもそもが、忌部氏そのものが自分の家系を物部(タカミムスビ)や事代主(神魂家=富家)の子孫だと言ってるわけです。

            天石門別神は天孫・瓊瓊杵尊に従って天降るので、八倉比売を天照とするのは、完全に記紀服属で実態がわからない事になります。
            逆に崇神の投影がニニギであると出雲口伝式に考えるのであれば、まさに伝承通り、忌部氏が第二次物部東征で物部氏として振る舞った証拠であると言えます
            とても長髄彦の時代にまでは遡れません。

            天石門の名から岩戸神話と結び付けただけのイメージの話が大日孁女と考えられます。

            逆にこの設定を最大限に活かせるとしたら豊彦や、豊姫の子孫しかあり得ません。

            阿波説って、忌部氏すら言ってない事を知らない人がウワサしあってる様にしか見えないんです。

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          2. 五条 桐彦 より:

            確かに、四国は敗者が流れ着く場所であり、その点は長野同様に歴史の上書きがされすぎて訳のわからない事になっています。
            僕は阿波における八倉比売の天照説や、ユダヤ伝承もさほど興味はなかったのですが、爆破された浮島八幡宮を訪ねた辺りから、阿波の姫神が気になって仕方なくなりました。阿波姫も1人の女性を表しているのではなく、複数人いると思っています。そのどれもが、何処かの王家に繋がっています。

            阿波地方の山中には驚くべき石積みの磐座が幾つもあり、古代にそれだけのものを作らせた、大きな勢力があったことは間違いないでしょう。阿波王朝説や九州王朝説に賛同はしませんが、それ等を主張しうる神跡があるのもまた事実です。

            最近、出雲に移住された方からの情報も含め、とりあえず情報を出し切って、俯瞰的に見てみると、何かわかるのかも知れません。

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  3. 匿名 より:

    narisawa110
    荒神谷とは昔は幸神谷であったと思われ、6本の銅矛はど真ん中で九州との関連が窺われます

    この辺がうまくまとまったサイトです
    ttp://stelo.sblo.jp/s/article/190296277.html

    大元本に出ていた青銅のガス抜けが良い云々は再現実験を受けての事だったらしいですね
    時代設定もヒボコ渡来の後一世紀あたりまで
    更にはこの石の加工温度。
    通常より高い温度での運用が求められます。繰り返し高音で炙られた痕跡のあるあの遺跡では、単に埋められた場所というよりは正に青銅器が作られていた可能性が高いと私は考えています
    つまり、遺跡そのものが古墳時代前から勾玉のヤスリ以外の用途であの石を使っていた証拠になり得ると思われます。
    銅素材は大陸産とされますが、国産説もあります
    ttps://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1288410790705/html/common/5ffcee63012.htm
    来待石そのものは古墳時代の石棺にも使われているので、伝承の確度の高さが伺えます
    青銅材料のインゴットの製作には、鉛と錫が不可欠で、特に錫の方は鉛ほど研究が進んで無い印象がありますが吉野ヶ里では錫のインゴットが出土

    青銅器文化は我が国に短時間での波及をもたらしましたが、最先端の流行は北九州ではなかったかと最近では考えています

    その頃は忌部氏は独立していなかったでしょうからどんな呼ばれ方をしてたんでしょうね

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    1. 五条 桐彦 より:

      来待石の文鎮(?)は僕も持っていますが、確かにガス抜けは良さそうですが、そんなに熱に強いとは思いませんでした。
      最近吉野ヶ里で、銅剣・銅矛の鋳型が出土したそうですが、それは蛇紋岩でできているとのことです。
      来待石の鋳型が出土したら、面白いですね。

      越智はおち水、忌部は忌み部、どちらも常世に関連があるんですよね。阿波も粟島がそうであるように、常世に関連した名称なのかもしれません。
      摂津の三島鴨神社の宮司さんに瀬織津姫について尋ねた時、罪人を淀川から流して、流れ着くところが淡路島や四国だといったことを話されていました。
      古来から穢れ(死んだ魂)が流れ着く場所が四国だという考えがあったのかもしれません。『死国』なんて映画があったように思いますが。
      忌部の前は越智と合わせて、阿波だったのではないでしょうか。

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  4. 匿名 より:

    narisawa110
    来待町でピンと来ますね

    まだ調べていませんが、これ、青銅器とも関連する石がここらで産出されてませんかね

    富神社の文鎮のあの石の名前に似ています

    先祖の地に帰ってきた神社なのかもしれませんね。

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    1. 五条 桐彦 より:

      来待町、とうぜん来待石が採れたんだと思います。そして採石民族といえば阿波族ではないかと思い始めています。

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