竹野神社・奈具神社・宇良神社:斎王 01

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イクメ大王の后ヒバス姫は、丹波国の竹野郡で一人の女児を生んだ。
この姫は母に似て信仰心が強く、幼少の頃より自らの希望で竹野社に仕えていた。
ある時、姫は竹野郡船木の奈具社に移った。
奈具社では月読の神が祭祀されていたが、姫はそれに加えて出雲の太陽の女神を祀るようになった。
彼女は朝日信仰を大切にした。

やがて、親成の家を頼って宇良神社に移ることになった。
幼かった少女は成長し、若く立派な女性となっていた。

「親族の住まう丹波の地は居心地は良いが、朝日を拝むには少し物足りない。太陽の女神を祀るには、東向きの海岸が良い。」

姫はそう考えるようになっていた。
やがて世話になった親族を説得し、自ら旅に出ることを決意する。
彼女の名前は「大和姫」。
太陽の女神を遷宮し、伊勢にその場所を定めた姫巫女だった。
彼女は伊勢の最初の斎王となった。

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京丹後市の港町に「竹野神社」があります。

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「式内竹野神社」と刻まれた社号標の左手にはなんと、「齋宮神社」と刻まれた社号標が建っています。
斎宮神社は当社の摂社で、本殿と並んで鎮座しているということです。
丹後国一宮といえば天橋立そばに建つ「籠神社」(このじんじゃ)が有名ですし、そこは「元伊勢」とも呼ばれています。
その籠神社から丹後半島の反対側、荒々しい外海に面した漁村の集落に、最初の斎王が生まれた、竹野神社はありました。

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参道の右手に丸い池があり、池の中に小祠が建っています。

当地は今は「丹後」ですが、往古は「丹波国」に含まれていました。
徐福と大国主の娘「高照姫」は夫婦となり、子「五十猛」(イソタケ)を儲けました。
成長した五十猛は、石見国や出雲国にいる大部分の秦族を丹波国に集め、「香語山」(カゴヤマ)と名前を改め、海家の王国を造りました。
彼らが聖域として拠点にしたのが籠神社です。

そして竹野神社を建てたのも、彼ら秦族の一族でした。
彼らの太祖「徐福」は道教の方士であり、「蓬来島崇拝」の信仰を持っていました。
その信仰を形に現わしたものが、この池と島と祠であったと云います。
その島は「竜宮」だと言う人もいて、蓬莱島崇拝が「竜宮信仰」に変わっていった可能性もあります。
2度目に徐福が渡来した佐賀の地では、物部族は妻に迎えた「市杵島姫」をこの祠に祀り、弁天島としたようです。

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鬱蒼とした大木が覆う参道を進むと、

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見事な唐門が見えてきます。

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社伝には、丹波大県主由碁理(ユゴリ)の娘で開化天皇の妃となった「竹野媛」が、年老いて後、天照大神を祀ったのが当社の起源であると記されています。

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開化天皇は磯城・大和王朝の「大日々」(オオヒビ)大王のことであり、彦道主大王の祖父にあたります。

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天照大神という名の神は、当時はまだ存在せず、その神は記紀の創作とともに創り出された神でした。
なので竹野媛はここで、出雲の太陽の女神を祀ったものと思われます。

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磯城・大和王朝最後の大王「彦道主」は大王をやめた後、子ども達を連れて丹波国北部に行き、竹野郡に住みました。
物部イクメ大王の后で彦道主の娘、ヒバス姫は、父のいる竹野に里帰りし、そこで女児を産んだと云うことです。

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唐門をくぐると、そこは別格の神聖さがありました。

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神さびた本殿には、天照皇大神を祀ります。
隣の小さな社が斎宮神社で、彦道主大王の父「日子坐」(ヒコイマス)、開化天皇皇子で丹波竹野別の祖「建豊波豆羅和氣命」、そして「竹野媛命」を祀ります。

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竹野で生まれた姫は母に似て信仰心が強く、自分で希望して竹野社に奉仕したと云います。
その姫の名は「大和姫」。
一般に「倭姫」と記されますが、「倭」の字は中国の書物で記された蔑称なので、ここでは「大和」と表記します。

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すくすくと育った大和姫は、三輪山で太陽の女神を祀る姫巫女となった母「ヒバス姫」に倣って、ここ竹野社で太陽の女神を祭祀したことでしょう。

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本殿を囲む杜は、ヒメシャラの木でしょうか、艶かしい赤い樹木が林立していて、ことさら神聖さを増しているように感じられていました。

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竹野神社からしばらく山側に進んだところ、竹野郡船木の田園の中に、「奈具神社」があります。

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祭神は「豊宇賀能賣命」(トヨウカノメミコト)となっており、『丹後風土記』に天女の逸話として次のように記されています。

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ある時、天女が八人、水浴をしていたのを「和奈佐老父」(わなさおきな)「和奈佐老女」(わなさおみな)の老夫婦が見ていて、こっそり天女の一人の衣裳を隠してしまいました。
やがて天女はみな天に飛び去り帰って行きましたが、衣裳のない娘だけが一人帰れず、身を水に隠し恥ずかしがっていました。

そこで、老夫は天女に言います、「私には子供がありません。どうか天女の娘よ、あなたは私の子におなりください」と。
一人残されて、天に帰れなくなった娘は、和奈佐老夫婦の子として一緒に生活することにしました。

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天女の娘は酒を造るのがうまく、その酒を一杯飲むと、見事にどんな病気でも癒やしてしまいました。
天女の酒は瞬く間に有名になり、老夫婦たちはあっという間に豊かになりました。

すると、和奈佐老夫婦は天女に、「お前は私の子ではない。暫くの間、仮に住んでいただけだ。早く出で行ってしまえ」と追い出してしまいました。
天女は「わたしは自分から来たくて来たのではありません。これはお爺さんたちが願ったことなのに。」と訴えます。
しかし老夫婦はそれを聞き入れないどころか、ますます怒りだす始末。

「天の原 ふりさけ見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも」
(はるか大空を仰ぐと霞が立って家路がはっきりしないで行くべきすべを知らない)

他に身寄りのない天女の娘はそう歌を残すと、流浪の旅に出ました。
彼女が立ち寄り、心が荒潮のようだと呟いた場所が比治の里の「荒塩の村」となり、また、槻の木にもたれて哭いた場所が、「丹波の哭木(なきき)の村」となりました。

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やがて竹野(たかの)の郡、船木の里に至った娘は、村人達に言いました。
「ここに来て、私の心はなぐしく(平和に)なりました。」と。
故にそこは「奈具志の村」と呼ばれました。
この羽衣天女こそが豊宇賀能賣だと云います。

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豊宇賀能賣と聞いて思い浮かぶのは、伊勢神宮外宮の祭神「豊受大神」(トヨウケノオオカミ)です。
籠神社の奥宮「真名井神社」の祭神も豊受大神ですが、両者は同じ神を指しているものと思われます。
豊宇賀能賣、豊受大神の正体とは、宇佐の豊玉姫の娘「豊姫」のことであり、他に豊来入姫、豊鍬入姫などと呼ばれ、また邪馬台国の女王卑弥呼の後継者「台与」と称されたその人でもあります。

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豊姫は兄の豊彦と、物部イニエ王と共に大和へ東征しました。
東征はうまくいき、豊姫は三輪山の麓、大和笠縫村の「檜原神社」で月読みの神の巫女として祭祀を行いました。
当初は順調に見えたのですが、彼女の人気と豊彦の勢力を恐れたイニエ大王は、二人を罠に嵌め、丹波へ追いやったのです。
当初、海族の籠神社で保護してもらった豊姫でしたが、そこにもイクメ王の軍勢が攻めてきたので、伊勢の宇治土公家を頼って椿大神社に逃げ込みました。
しかし彼女は、その甲斐虚しく、イクメ王の刺客によって殺されてしまうのです。
椿大神社は出雲の幸神「サルタ彦」を祀っていましたので、豊姫は「猿女命」、あるいは「天鈿女」として祀られるようになりました。

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ところで、この豊姫の話の流れ、どことなく奈具神社の天女の話に似ています。
そこでキーとなるのが老夫婦の名「和奈佐」(ワナサ)です。
「和奈佐神社」というのが島根県松江市と徳島県海部郡にあるそうで、和奈佐とは阿波国の地名であり、「阿波国から来た人」を意味するのだそうです。
しかしこの和奈佐とは、「罠作」(わなさ)であって、罠作りをする人の意味も含まれていると云います。
僕は和奈佐老夫婦は、狡猾な罠をめぐらし、豊兄妹を攻め立てたイクメ大王を指しているとしか思えません。
往古の人々は天女の伝説に、豊姫の悲しい真実の歴史を隠し残したのではないでしょうか。

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奈具神社では、豊宇賀能賣命の名で月読みの神が祀られました。
そこへやってきた大和姫は、月読みの神に加え、竹野社で祀られていた太陽の女神も祭祀しました。
それは豊姫の霊を慰める意味合いもあったのではないでしょうか。
太陽の女神と豊受大神を合わせて祀る、伊勢神宮の原型がここに生まれたと言えるのかもしれません。

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奈具神社でしばらく祭祀を続けた大和姫は、与謝郡伊根町の「宇良神社」に移り住みました。
そこは姫の母方の祖父、彦道主王がイクメ王に敗れた後、隠棲した地であり、彼の子孫が治める土地でした。

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当社の社伝によると、天長2年、「浦嶋子」を筒川大明神として祀ったのが創始とあります。

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浦嶋子とは、丹後国与謝郡筒川の庄の浦嶋太郎の子で、その太祖は月読命の子孫であり、さらには当地の領主であったと云います。

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宇良社で保護を受けた豊姫の世話をした男は、本庄村の「島子」と名乗りました。
島子とは、そこの首長を意味する役職名だったようです。

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浦嶋子の伝説は、いわゆる浦嶋伝説です。
浦嶋子は亀に乗って海神の都にたどりつき、そこで347年もの間、乙姫と共に暮らしました。
やがて地上に戻ってきた嶋子は、乙姫からもらった玉手箱を開けたところ、紫の雲煙があらわれ、それまでの紅顔の美少年がたちまち痩せ衰えた老翁となり、亡くなったと云います。

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この浦嶋子が本庄村の島子のことであり、乙姫は豊姫であるとするなら、島子と豊姫は夫婦の契りを交わしたのかもしれません。
であるなら、「太祖は月読命の子孫」であるというのも納得がいきます。

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さらに深読みするならば、竜宮から帰ってきて玉手箱を開けたら老けて死んだと言うのは、島子は豊姫と共に椿大神社まで行き、そこで一緒に暮らしたのかもしれません。
しかし彼女が殺された時、もしくはその後故郷に帰ってから、島子もやはり刺客によって殺されてしまったのでしょうか。

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当社の神宝には、浦嶋伝説に関するものが多く、乙姫の小袖や玉手箱などが残っていると云う話です。
それは豊姫と島子の、儚くもささやかな、幸せの日々の痕跡なのかもしれません。

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