和奈佐意富曽神社:常世ニ降ル花 和奈佐薄月篇 02

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「奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部は波をば奈と云ふ」

ー阿波国風土記 逸文

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日本は広い。
たまに他人から、世界ではどこに行ったの?と聞かれるけど、世界なんてとんでもない。
日本はこんなにも広く、僕のポケットは、この国の素敵な景色だけで溢れそうだ。
たくさん、たくさん日本を旅してまわったんだよね、ほんと。
それでどうなんだろうね、もう十分楽しませてもらったと思うんだけど、まだちょっとだけ行きたい場所があって、
ここもそんな場所の一つではあるのだけど、

遠い。
ただ、ひたすらに遠い。

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遠すぎるよ~っ、和奈佐意富曽神社。
阿波から来た人の神社が出雲にあるっていうんで出雲に行って、そんで四国にその元宮があるっていうんで向かっているんだけど、和奈佐意富曽神社遠すぎ問題!
徳島市内から車で2時間、高知市内からだと車で2時間半。
今回僕は、マイカーで四国に来たからさ、このまま福岡に帰らなきゃいけないんだけど、どんだけかかるのさ、我家まで。。

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今回の宿泊先は高知にしました。

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福岡からam4:00に出発して、岡山を経て、瀬戸大橋を渡り、徳島で「清頭岡磐座」なんかにちらりと立ち寄り、運転だけで10時間くらいかけて高知に着きました。

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もう、かつおのタタキだけが癒しですわー。
かにみそとしらすも付けたるわー。

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そんで安兵衛の屋台餃子のお決まりコースで締めくくり。
明日のロングドライブに備えます。

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am4:00に宿をチェックアウトして、真っ暗な中をドライブ。
途中コンビニで、眠気覚ましのコーヒーを買ったりして、目的地に到着したのが、ちょうど日の出の頃のam7:00前でした。

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まずやって来たのは、徳島県海陽町にある「大里八幡神社」(おおさとはちまんじんじゃ)です。
海岸沿いにある素朴な神社。

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日の出頃とはいえ曇天なので、薄暗い中の参拝です。

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創建年は不詳。徳島藩主・蜂須賀至鎮は当社に修復費をたびたび出していたといいます。

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あまり情報のない大里八幡神社ですが、社頭に秋祭りの紹介文がありました。
右から読んでいると、なんのこっちゃ?となりましたが、よく見てみると左から読むようになっています。なるほど。

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これによると、和奈佐意富曽神社は当初、那佐浦に鎮座していましたが、のちに鞆奥の大宮山に遷座され、天正年間(1573~1592年)に大里の浜崎地へ、さらに慶長9年(1604年)に大里の現地に遷座されたとあります。そしておそらく、和奈佐意富曽神社はいつしか一般的な八幡社に置き換えられ、摂社としてその名を残していたのでしょう。

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やがて延喜式の神名を伝えるため、和奈佐意富曽神社は分祀され、現在は200m南西の地に独立した中宮(大里八幡神社の境内社)として鎮座しています。

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大里八幡神社の祭神は八幡社らしい、「誉田別命」(応神天皇)と「神功皇后」(息長足姫命)となっています。
ただ、徳島県神社庁が昭和55年に発行した『徳島県神社誌』には、祭神として「誉田別神」「天照大神」「天児屋根神」の三神が記されています。

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先の秋祭りの紹介文でもう少し気になったことが。
当社の氏子は、海南町・海部町の全域にまたがっており、この一帯を海部郷と呼び、藩政のころは海部城も置かれていたそうです。
海のそばなので海部なのかもしれませんが、海部族の聖地、丹後(旧丹波国)に、「和奈佐の老父」(おきな)・「和奈佐の老女」(おみな)の伝承があることと無関係ではないように感じます。

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秋祭りのだんじりには、関船を取り付けるそうで、この関船は昔の戦艦であるといわれています。
これはいわゆる「和寇」(わこう)と呼ばれる海賊を意味しているのかもしれません。

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若衆たちの歌う「イセハイセー・イセハツテモツ・ツハ・イセテモツ」という祭りばやしの意味も、気になるところです。

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「和奈佐意富曽神社」(わなさおうそ<おほそ>じんじゃ)に来ました。

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低めの鳥居と、小さなお社がポツンと建っています。

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この小さなお社の写真を撮るために、福岡からはるばるやって来ました。

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祭神に関しては諸説あり、一応『大日本史』に基づいて「大麻比古神」とされています。
他には、『特選神名牒』の「大麻神」。
『式社略考』では、和奈はワナであり「鳥獣を取ることに長けた人」。
『名神序頌』では、日本武尊の子「息長田別」、あるいは意富曾から「大碓」。
『阿波志』では和奈佐居父祖として「日本武」。
『下灘郷土讀本』では、「和奈佐毘古」「和奈佐毘賣」。
『海部郡誌』では、「息長足姫」、etc.

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一説に女神である、と伝えられており、出雲・雲南市の和奈佐神社にもそんなことが伝えられていましたので、僕はワナサ彦・ワナサ姫が祀られており、より女神の方が人気が高かったのではと推察します。丹後に伝わる天女伝説の和奈佐の老父・老女も、ワナサ彦・ワナサ姫のことでしょう。

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今は小さく祀られている和奈佐意富曽神社ですが、社殿の彫刻などは見事で、丁寧に造られているのを感じます。

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地元の氏子さん達にも大切にされているのでしょう。

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境内にはゴミひとつなく、きれいに清められていましたが、

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僕も参道の落ち葉だけ、すこし掃かせていただきました。

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神社の対面は、美しい松林となっており、その先の海まで歩いてみることにしました。

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和奈佐意富曽神社の最初の鎮座地、「那佐浦」の地名は、当社祭神名に因むものと考えられます。
ではワナサとはワ・ナサということでしょうか。

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那佐浦について調べて見ると、鎌倉中期の『萬葉集註釋』の「卷第三」に「阿波の國の風土記に云はく」として「奈佐の浦」について次のように記されています。

「奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部は波をば奈と云ふ」と。

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阿波の海部郷では波を「奈」(な)と言い、波の音が止むことがないので「奈佐」と言うのだとのこと。
つまりワナサ神とは、「(ア)ワの波の神」を表しているとすることができます。
そこで僕はふと思いました。出雲の稲佐の浜は、元は「阿波奈佐」だったのではないだろうか、と。

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古代阿波族の海部郷の人々は、波の女神を船に掲げ、大海原へと旅立ち、やがて出雲や丹後に至ったのでしょう。
彼らはなぜそのような危険な旅に出たのか。それは貴重な石、良質な黒曜石を求めてのことだったのかもしれません。

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和奈佐意富曽神社の帰り道に、気になる場所を見つけました。

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社日碑があり、

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こんもりとした杜の中に、三つの社が祀られていました。
どことなく出雲の荒神を感じさせます。

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また、大里古墳なるものもあり、

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かつて有力氏族がいたことを物語っています。

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高知市内に戻っていると、すんごい岩を見かけました。

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なんじゃこりゃ!
龍、というか、ゴジラの背鰭みたいです。

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ここは室戸岬町と佐喜浜町の境の鹿岡鼻にある、「鹿岡の夫婦岩」と呼ばれる場所でした。
秋分から春分までの間、この岩の間から昇るダルマ朝日を拝む事が出来ると、良縁に恵まれるという言い伝えがあるらしいのですが、現在は崩落の危険があり、近くに立ち入ることができません。
「南路志に云う。往古より大晦日の晩、夫婦岩の間鵜の碆に「竜燈」がともると、この神火を地元では「かじょうさま」と云い、立岩の峯々を越えて大滝の上に舞上がり、コ方山麓の家々に請じ入れられて大年を迎える浄火となったと云う」
と伝えられていました。

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2件のコメント 追加

  1. Yopioid より:

    広島の呉の女性が私というときに強くならないようにtを鼻音化してわなしと発音します。tとnとはいずれも舌頂音で、鼻音化のあるなし。もし、上代に音の区別が曖昧であったと仮にすると、わなさ、わたさが入り混じっていたかどうか。わたさ、わたつみ・・なんてことを考えました。な、が波のことだとすると、なぎ、なぶら、なだ、など波の様子を表す言葉とかかわってくるのかな。面白い記事をありがとうございます。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 より:

      なるほど、面白い考察ですね。
      何かのヒントになりそうです。
      頭の片隅に記憶しておきます♪

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