船林神社:常世ニ降ル花 和奈佐薄月篇 03

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船岡山。郡家の東北甘一里一百歩。阿波枳閉委奈佐比古命の曳き来りすえましし船。則ち此の山是れなり。故、船岡と云う

- 出雲風土記 大原郡

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ということで、島根県雲南市大東町鎮座の「船林神社」(ふなばやしじんじゃ)を訪ねました。

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出雲風土記によれば、ワナサ彦が船を曳いて来て、ここに据えたら山になった。だから船岡というとあります。
船岡山、山???と参拝して思いましたが、岡=丘であるなら納得の小さな山です。標高は140m。

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最初は古墳かな、と思いましたが、やっぱり山なんでしょうね。
参道は思いのほか長く、峰幅も狭いので、ちょっとしたスリルを味わうことができます。
ところでGoogleマップでこの図を作成していたら、

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阿波の最大聖地である、コレに似ているな、と思いました。
偶然でしょうけど。

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当社祭神は「阿波枳閉委奈佐比古命」(あわきへ わなさひこのみこと)。
阿波から来た、ワナサ彦と言う意味ですね。
ワナサが委奈佐となっているので、「イナサヒコ」とふりがなが振ってあるサイトもありました。
やはり、稲佐の浜は、ワナサの浜である可能性も捨てきれません。

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由緒によれば、当社は出雲風土記所載の「船林社」であり、ワナサ彦が往古この山を中心に粟を主とした農耕の道を開いたので、その遺徳を偲び奉り、租神として奉斎したのが創建であると伝えています。

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しかし中世の頃、一次衰微して社殿も消滅し、山野となりました。
その頃麓に高島十助と言う者がいて、この地を開墾したところ、方三尺許りの切り石で社の土台らしきものを発見し、文化8年(1816年)に社殿を再建立したのが今の姿となります。

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味わいのある石柱が二つありました。
右が社日社で、左が荒神社のようです。

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ところで、僕の最近のX友である「あんでぃ」氏から、こんな考察をいただきました。

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和奈佐神社の近くには、玉造に注ぐ玉湯川の源流があります。
あんでぃ氏によると、
「越の八口平定の際に出発した拝志こと林という地域は玉造のすぐ西側の岬です。
今の地図を見る限り、玉造の湖岸は低地のため、昔は川幅が広く、寄港地としては向いていなかったのかと。
だから、林の岬が適地だったと思われます。
そこに、風の神シナトベノミコトを祀る布宇神社があります。
そこから今は途切れているが、川が流れていて、謎の高林神社、一人姫神社と続き、和奈佐神社、龍神社、赤川に入って、船林神社と繋がります」
とのことです。
なるほど、かつては和奈佐神社と船林神社は川で繋がっていて、阿波人(ワナサ族)はその一帯を行き来していたのかもしれません。

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このあんでぃ氏の図を、僕もGoogleマップに書き込んでみました。
すると、一帯には気になる名前の神社がわんさかありました。
こりゃまた出雲旅を計画せねばですな。
ところでこうして見ると、稲佐の浜から玉造近辺を経て、雲南市一体に阿波出身のワナサ族が定住していた様子が浮かび上がります。
玉造といえば忌部族。忌部氏とワナサ族の関係もうっすら見えて来ようというものです。

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船林神社のそばを流れる赤川についても、あんでぃ氏から情報をいただきました。
「先日須我神社の氏子の古老から聞いた話では、大蛇退治の後に血を洗ったから赤川と名がついたと聞きました。
須我神社より上流にはたたら跡も見つかってるので、鉄の可能性も捨てきれませんね」
と。
赤川は、下流で斐伊川に合流し、上流は大出日山(おおしびさん)に至ります。大出日山といえば、富家の神奈備「天宮山」の背後にある山で、現在巨大風力発電計画が進行しつつある山です。

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採石民族であるワナサ族は当初、黒曜石を求めて出雲に来ていたようなので、稲佐の浜付近を拠点に隠岐島に渡っていたのかもしれません。
やがて出雲石・瑪瑙を見つけ、布宇神社や玉造にも拠点を広げていった。
その過程で斐伊川水系に砂鉄を見出し、これを製鉄できる民族を誘致したのではないか、といったストーリーが思い浮かびます。

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そうして出雲入りを果たしたドラヴィダ族と姻戚関係を築いたワナサ族が、後の出雲忌部になったのではないでしょうか。
常世の法を知る採石民族。そうであれば、富家の親戚でありながら、王家の葬儀(穢れ)を扱うことができ、かつ、命の根源を表す胎児の形の勾玉を生み出した、出雲忌部族の特殊性をとても説明しやすいように思えるのです。

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このワナサという名前はあまり聞き慣れないのですが、その伝承地を結ぶと、実に広範囲につながることが分かります。
奇しくも、見事な二等辺三角形として。

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そしてさらに注視すべきは、それらの聖地に祀られているのは、表向きはワナサ彦ではありますが、本来はワナサ姫であるかもしれないということです。
そう、ワナサ族は母系社会で、多くの姫巫女を輩出した可能性があると思われます。

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船とは女性を表す言葉でもあります。
船林神社の祭神も女神である可能性があり、その背後には、祭神を見守るように山神が祀られていました。

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出雲で山神といえば、僕にはクナト王しか、思い浮かばなないのです。

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