丹後國(たにはのみちのしりのくに)、丹波郡(たにはのこほり)、郡家(こほりのみやけ)の西北の隅の方に、比治の里(ひぢのさと)がある。
この里の比治山の頂に井があり、その名を麻奈井(まなゐ)という。今は既に沼と成っている。
この井に、八人の天女(あまつをとめ)が降り来て、水浴びをしていた。その時、和奈佐老夫(わなさおきな)、和奈佐老婦(わなさおみな)という老夫婦が来て、一人の天女の衣裳(ころも)を密かに隠した。
その後、衣裳のある天女は皆、天に飛び去ったが、衣裳のない女娘(をとめ)だけが地上に留まり、一人水に身を隠し、恥じり居た。
それを見て老夫が天女に言う
「儂には子がいない。天女の娘よ、おぬしは我が子とならぬか」
天女が答えて言う
「わらわは仲間とはぐれ、人の世に留まざるを得なくなりました。あなたに従いますので、どうか衣裳を返してください」
「天女の娘よ、どうして私を騙そうとするのだ」
「天人(あまつひと)は真のことしか申し上げません。なぜひどく疑って、衣裳を返してくださらないのですか」
「疑うことが多くて、信じられぬのがこの世の常。だから衣裳を返すわけにはいかなかったのだ」
ついに老夫は衣裳を天女に返し、自宅へ彼女を連れ帰り、そのまま10年あまり一緒に住むことになった。
老夫婦のもとで、天女は善い酒を釀した。それは一坏飲めば、どのような病でもたちまち癒した。
その一坏を求めて、直(あたい)が財を積んだ車を送るほど価値があった。
これにより、老夫婦の家は豊かになり、土形(つぢかた/田畑)は富んだ。それでそこは土形の里(ひぢかたのさと)と呼ばれるようになった。
これが中頃から今に至るまで、比治の里(ひじのさと)と言われる由縁である。
後に老夫婦は天女呼びつけ言った
「おぬしは儂の子ではない。しばらく借り住まいさせておっただけだ。早々と出て行け」
これを聞いた天女は驚き、地に伏して泣きながら老夫婦に訴えた
「わらわは自分の意思で来たのではなく、あなたが願うから来たのです。どうしてそのような悪い心を起こして、ここを出て行けと言えるのでしょうか」
すると老夫はますます怒り、すぐに立ち去れと促した。
天女は涙を流し、門の外に少し出て、そこにいた里人に願い出て言った
「久しく人の世で暮らしていたので、天に帰ることができなくなってしまいました。親もなきゆえ、頼るところがありません。私はどうしたらよいのでしょう、ああ」
天女は涙を拭きながら嘆き、天を仰いで歌を詠んだ。
「天原(あまのはら) 振放見(ふりさけみ)れば 霞立(かすみたち) 家路惑(いへぢまど)ひて 行方知らずも」
ついに天女は老夫婦の元を去り、荒鹽の村(あらしほのむら)に至った。
天女はその村人にこう言った
「老夫老婦のなされようを思うと、わらわの心は荒鹽(荒潮)のように苦しい」
よって、その村を比治里の荒鹽村という。
また、天女は丹波の里の哭木の村(なききのむら)に至り、槻木(つきのき)にもたれて哭いた。故にそこは、哭木村という。
それから天女は竹野の郡(たかののこほり)の船木の里(ふなきのさと)の奈具の村(なぐのむら)に至った。
そこで村人らに言った
「私の心はここに来てようやく、奈具志久(なぐしく/平穏に)なりました」
そしてその村に留まった。
これが謂わゆる、竹野の郡の奈具の社(なぐのやしろ)に坐します、豊宇加能賣命(とようかのめのみこと)である。
-『丹後國風土記』逸文
京都府京丹後市峰山町久次宮にある「比沼麻奈為神社」(ひぬまないじんじゃ)を訪ねました。
式内社 丹波郡の「比治真名井神社」と比定される神社です。
参道入口には、「豊受宮」と彫られた石碑がありました。
美しい、白砂を敷き詰めた参道。
山の麓にある神社ですが、どこからか潮騒が聞こえてくるようです。
参道の側道には、摂社が二つ。
こちらはおそらく末社で、火産霊命を祀る秋葉社と、祖霊社になるのかと思われます。
須我神社の磐座のような庭石。
そしてもう一つ、ひっそりと隠れるように鎮座する、小さなお社。
おそらくこれは「佐田神社」です。
中には猨田比古神という木札が収められていました。
佐田といえば、島根県松江市鹿島町佐陀にある出雲国二宮「佐太神社」が思い浮かびますが、そこから勧請されたものでしょうか。
あそこは、島根半島を支配する、大きな勢力の中心都市だったのではないかと考えていますが。
さて当社は、『丹後國風土記』逸文から導かれるところの「比沼真名井」(ひぬのまない)の社であるとし、伊勢神宮外宮の元宮であると主張します。
つまり元伊勢です。
比沼真名井とは、『丹後國風土記』に記される羽衣天女の話の中で、天女らが天降った比治山(土形)の頂にある麻奈井(まなゐ)を表しています。
一般的に、この伝承の比治山は「磯砂山」(いさなごさん)のことで、そこにある「女池」(めいけ)が真名井であるとされます。
また、磯砂山の麓には「藤社神社」(ふじそこじんじゃ)が鎮座しており、それこそが比沼麻奈為神社であるという説も根強く存在します。
これに対し、久次岳を比治山とみる説もあり、比沼麻奈為神社はこの山麓に鎮座しています。
土地の人は久次岳を「真名井山」あるいは「真名井カ嶽」などと呼び親しんでおり、山頂近くに「大神杜」があり、「降神岩」や「穂井の段」、「応石」(おおみあえいし)といった磐座があるようです。
ともあれ、比沼麻奈為神社も藤社神社も非常に近い位置にあり、そもそも羽衣伝説は世界各地に存在する伝説のひとつになります。
『丹後國風土記』のそれも、当地に起きた出来事を、羽衣伝説に置き換えたと言うことになろうかと思われます。
元伊勢を強く主張するかのような、立派な神明造に祀られるのは、「豊受大神」(とようけのおおかみ)。
他に「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)「天太玉命」(あめのふとだまのみこと)を配祀します。
この主祭神を見守るように祀られるのは
稲荷神。
稲荷は穀物神とされますが、豊受大神もまた、穀物神としての性格を持ちます。
比治山に降り立った羽衣天女は、『丹後國風土記』に豊宇賀能売(とようかのめ)、つまり豊受姫であると伝えています。
1900年(明治33年)に境内に立てられた栗田寛の「頌徳碑」にも「崇神天皇の時代に豊受大神が人間の姿のまま当社に鎮座し、その当時の宮は久次岳のふもとの大宮屋敷にあったが、のちの戦乱の際により奥まった現在地に遷座した」と記されています。
これに富家伝承を合わせ見れば、この羽衣天女の説話は大和を東征した物部イクメ王と豊来入彦・豊来入姫兄妹の話が根底にあり、当地で受けた豊来入姫の受難を物語っていると言うことになります。
豊来入姫は、偉大な宇佐・豊王国の女王「豊玉姫」の娘でした。イクメと豊兄妹は大和を治めることに成功し、彼女は月読みの姫巫女として、大和の⺠衆から絶大な人気を得ました。これを妬んだイクメは、豊兄妹を騙して大和から追い出し、追討軍を差し向けたのです。
豊来入姫は当初、旧丹波国(丹後)で匿われることになりました。そこで一時の安息を得た姫でしたが、やがて旧丹波国にもイクメの軍が迫って来たので、当地を離れなければなりませんでした。
彼女は導きに応じて伊勢国の椿大神社まで逃げましたが、そこでイクメの放った刺客によって命を落としたと、 出雲の旧家で伝えられています。
『丹後國風土記』の羽衣天女伝承でいう悲劇の天女が豊宇賀能売、つまり豊来入姫だとして、それでは老夫婦の「和奈佐老夫」(わなさおきな)、「和奈佐老婦」(わなさおみな)とはどう言う人物だったのでしょうか。
彼らは都から天降って帰れなくなった姫巫女・豊来入姫を迎え入れた人物ということになり、羽衣伝承で言うような強欲で意地悪な老夫婦という印象は間違っていると言わざるを得ません。
老夫婦の二人はいわば、和奈佐社で祀られる和奈佐彦・和奈佐姫であり、和奈佐族の王と姫巫女を表しています。
風土記の内容は、豊来入姫の受難の元である物部イクメの存在を隠し、和奈佐の人を悪人に仕立て上げていることになります。
現代でも、和奈佐とは、「罠作」(わなさ)の意味であって、「罠作りをする人」を表していると解釈する向きもあります。
しかし敢えて羽衣天女は豊宇賀能売であると告白している点を鑑みれば、風土記の筆記者は、真実を曲げて書くよう圧力を受けた中で、密かに歴史を紐解く鍵を伝えようとしたのかもしれません。
ところで、比沼麻奈為神社の本殿の床下を見ると、丸石がこんもりと盛られていました。
明治30年頃の大八州雑誌『飯田武郷紀行文』では、「久次に比沼真名井原宮があり、五穀の神として、今も神殿の下の土の中から、米の形の土(土の米)が湧き出るが、ときどき沢山湧き出て、高くもりあがり、里の人は神様が喜んでおられるのだと、非常に尊敬している」と記されており、この社殿の床下から出る米粒のようなものを「ドシャ」といって、産婦に呑ませたと伝えられていました。
比沼麻奈為神社から国道482号線に出る手前に、ごめんなさいしている像がありました。
これは楠公父子別れの石像で、いわゆる桜井の別れを表しているものでした。
「桜井の別れ」は『太平記』に記される一場面。
建武3年5月(1336年6月)、九州から山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏・数十万の軍勢に対し、楠木正成は京都誘引策を後醍醐天皇に言上しますが聞き入れられず、死を覚悟して湊川の戦場に赴むくことになります。
その途上、正成は、現大阪府三島郡の桜井駅で駒をとめ、同行していた11歳の嫡子・正行に対し
「お前は生き残って河内へ帰り、いつの日か朝敵を滅せ」
と諭し、後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を授けて涙ながらに今生の別れを告げたといいます。
ごめんなさいの像ではなく、涙の別れの像でした、ごめんなさい。
なぜ、その桜井の別れ像がここにあるのかは分かりませんが、向かいの丘に「船岡神社」がありました。
祭神は「丹波道主命」でした。なるほど。
また北に少し行くと、「月の輪田」(つきのわでん)と呼ばれる史跡がありました。
ここは豊受大神が、天照大神のために籾種を蒔いて稲作をした場所で、「稲作発祥の地」とされます。
月の輪田は、江戸時代には水田として使われた記録が残るものの、祟りがあるとして領主は年貢を課すのを忌避し、また耕作しないのも二箇・苗代の両村に祟りがあるといわれ、昭和時代前期には身を清めた二箇村の者が稲を育て、1斗2 – 3升の精米を初穂として伊勢の御師幸福出雲太夫に奉納し、藁はすべて田に戻して翌年の肥料としていたといいます。
昭和30年代以降は耕作放棄地とされ、平成25年(2013年)、丹後建国1300年を記念して京丹後市と二箇地区が月の輪田を復興、地域住民らが耕作を行っての古代米栽培が始まりました。
しかし昭和42年(1967年)に、耕地整理で場所を移しており、神代の伝承地と同位置ではなくなっています。
「月の輪」の名は三日月形の田であることに由来し、「三日月田」(みかづきた)とも呼ばれるそうですが、石祠の前にある窪地がそれのようで、今一つ形がはっきりとしませんでした。
思うに「月の輪」と言うなら、それは満月の形であるべきです。月の輪田の名の由来は田の形ではなく、ここで田植えや収穫を行う日取りを決めるため、月読みがなされたことに由来するのではないかと思われました。
さらに少し離れて、月の輪田の関連史跡「清水戸」(せいすいど)と呼ばれる井水がありました。
これは、豊受大神が農耕を試みる際、籾を浸した霊井であると伝えられていました。
「いざなぎや 種をひたする清水戸 五穀始まる これぞ苗代」
伝え残されている古歌の「いざなぎ」は磯砂山を意味するとされます。
旱魃にも涸れる事が無いといわれる小さな井水は、あの事待池のように青く白濁しており、夜に月を美しく映すのだろうかと空想に耽るのでした。