若狭姫神社:常世ニ降ル花 和奈佐薄月篇 07

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和奈佐を追って、再び若狭へやって来ました。

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福井県小浜市遠敷、久しぶりの「若狭姫神社」(わかさひめじんじゃ)です。
前回の訪問が平成29年でしたから、かれこれもう7年経ちます。そんなに経ったのかー。

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若狭姫神社は現在、若狭國一宮「若狭彦神社」の下宮ということになっています。
しかし社務所などは若狭姫神社の方にあり、上宮である若狭彦神社にはありません。
姫が本宮で、彦が奥宮みたいな位置付けなのではないでしょうか。

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参道を歩み進めると、前回と変わらぬ立派な御神木「遠敷の千年杉」が姿を見せます。

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若狭姫神社は、明治4年以前は『遠敷神社』(おにゅうじんじゃ)と呼ばれていました。
この遠敷は当地の地名でもありますが、当初は「おにふ」と呼ばれ、その後「小丹生」の字が当てられ、8世紀前後に「遠敷」と記すようになったとされています。
つまり、遠敷は丹生、水銀朱(上質の辰砂)が取れる場所を示していたようです。

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では古代では、この水銀朱はどのくらいの価値があり、どのように使われていたのでしょうか。そこが僕には、今一つピンときていません。
出雲では、王家の者が亡くなると風葬するのですが、その際に遺体の防腐処理として水銀朱が使われていたといいます。
また古墳の棺などが水銀朱で赤く染められているのを見たこともあります。

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よって、この千年杉が古来より不老長寿の象徴として篤く信仰されてきたように、水銀朱は不老不死の妙薬であると考えられてきたのかもしれません。
月にある変若水(おちみず)を、リアルに現実のものにせんと研究した一族がいたのか。
とはいえ水銀です。古代の人も、その毒性には気が付いていたと思うのですが、果たしてどうなのか。
江戸時代までおしろいに水銀が用いられていたと言いますから、身近なものだったのかもしれませんが。

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若狭彦神社・若狭姫神社の社紋は「宝珠に波」。これは干珠満珠を表していると考えられます。

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そして若狭姫神社の本殿には「若狭姫神」として「豊玉姫命」(とよたまひめみこと)を祀ります。
これは富家によると、第2次物部東征により西出雲を豊族の朝倉彦が攻めた際、軍勢を率いてそのまま因幡国から但馬国を通り、さらに東へ進軍したと伝えます。
そして途中、若狭国に住んだ一派がいたと云うことです。

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彼らは若狭を統治し、そこの豪族になりました。
その子孫が、後世に一族の神社を建てたのが当社であるということです。

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しかし何故また、出雲王国を攻めると言う目的を果たした朝倉彦は、若狭まで進軍し続けたのでしょうか。
そこから鯖街道あたりを通って、大和入りするためだったのだろうとは思いますが。

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奇しくも朝倉彦が進軍したコースは、和奈佐の名前を結ぶ道でした。
彼らの背後に、和奈佐一族がいた可能性はないでしょうか。

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若狭姫神社本殿の向かって右側には、「玉守神社」が鎮座しています。

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祭神の玉守神は「塩盈珠」(しほみつたま)「塩乾珠」(しほふるたま)の神だとされています。
その正体はおそらく月神でしょう。

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本殿左側には玉依姫命を祀る「中宮神社」。
中宮とは皇后、もしくは皇后と同格の后を指します。
玉依姫は宇佐王国の豊玉女王と同格の、越智の姫巫女である可能性が高い。

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もう一つの境内社は「日枝神社」で、祭神を大山咋神(おおやまくいのかみ)としますが、相殿に宗像神、稲荷神、愛宕神、金刀比羅神、そして夢彦神・夢姫神を祀ります。
夢を叶える神である夢彦神・夢姫神を祀る神社は、全国でもここだけだといいます。

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あれ、以前は飲むことができた、若狭の「若変りの霊水」は飲めなくなっていますね。

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それでは若狭の謎を追って、上社と創祀の社である白石神社にも立ち寄ってみたいと思います。

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小浜市竜前の上社「若狭彦神社」へやって来ました。

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境内奥からは、相変わらずしっとりとした、心地よい水の氣配が漂って来ます。

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若狭彦神社は、奈良時代初期にあたる養老5年(721年)に創建されたと伝えられます。

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小浜市下根来白石の鵜ノ瀬に先ずは若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨したと伝えられ、創祀の社して今は「白石神社」があります。
その後、霊亀元年(715年)9月10日に当地に遷社したとされています。更に6年後の養老5年2月10日に遠敷に若狭姫神社が鎮座、現在に至っているとのこと。

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それにしても、若狭彦神社のこの佇まい、風合い、何とも神侘びています。

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思うに、ここは元々、若狭を統治する豪族の屋敷だったのではないでしょうか。
出雲の神魂神社と同じように、屋敷をそのまま神社にしたような雰囲気を感じます。
祭神は「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)となっていますが、これは後の記紀神話の山幸彦のことで、記紀に忖度して祭神が変えられたのでしょう。

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本殿横の若狭彦神社唯一の境内社「若宮神社」に祀られるのは、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)。つまり豊来入彦です。
小さな社ですが相殿があり、大山祇神と蟻通神が祀られます。蟻通神は別名「大名持命」で、唐の国から日本人の才を試そうと、幾重にも曲がった玉に緒を通すようにとの難題が出された時、蟻に糸を結びつけて通したと伝えられる知恵の神とされます。
若狭姫神社の中宮に玉依姫が祀られていたことから、当地に来た朝倉彦軍の後世の人たちは、大和の大名持として豊来入彦を、皇后として常世織姫(玉依姫)を若狭に祀ったのかもしれません。

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ただ、それより以前は、祭神が若狭彦・若狭姫とあるように、和奈佐彦・和奈佐姫が祀ってあったのだと思われます。
この若狭彦神社は、和奈佐彦の王宮であり、後に和奈佐彦を祀る社へと変わっていったのではないでしょうか。

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小浜市下根来白石の「白石神社」にやって来ました。
若狭彦神社・若狭姫神社の創祀の社と伝えられる聖蹟です。

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苔むして、少し寂しげではありますが、良い雰囲気の神社です。

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この辺りは「鵜の瀬」と呼ばれ、鸕鶿草葺不合尊との関連を思わせます。

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和奈佐は「阿波から来た人」と出雲で伝えられ、実際に徳島(阿波国)に「和奈佐意富曽神社」が鎮座していました。
彼らはなぜ出雲に来たかというと、それは隠岐島の黒曜石を求めて来た、と僕は考えています。
阿波人は採石民族で、阿波国では辰砂も採れていました。

若狭と水銀が関係するものとして、若狭彦神社の神事としては「お水送り」があります。
当地の伝承では、752年、奈良市の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したというものです。
この鵜の瀬の水は「若返りの水」と伝えられていますが、また二月堂の若狭井に通じているとされており、旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われます。

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修二会の「お水送り」は752年に始められたと伝えられますが、この年は奈良の大仏開眼の年となります。
大仏の金めっきは、金を水銀に溶かしたアマルガムが使用され、塗布後、沸点の低い水銀(357°C)を松明や蝋燭で揮発させることにより、施したと考えられています。
つまり、お水送りの水とは「水銀」を表しているのですが、「遠敷明神が遅刻した」というのは、この頃全国で水銀が不足していたということや、希少な水銀を若狭から大量に運び出すカモフラージュとして表現された可能性があります。

世界的には、アマルガムから金を取り出すという手法は錬金術師の常套手段だったようですが、気化した水銀を吸えば重篤で深刻な障害を人に与えることになります。
この大仏建立でも多くの人の犠牲があったと思われますが、歴史はそれを語りません。
ただやはり、危険であるからこそ、古代人の目にも水銀朱・辰砂は魅力的に映っていたのかもしれません。
人魚の肉を食べたという八百比丘尼(やおびくに)は若狭の出身であると伝えられ、怪しげな金属の水に変若水を見い出したがゆえに、当地に生まれた伝承なのでしょう。
和奈佐とは、若狭(若水)を追求した、越智族の派生なのかも知れません。

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4件のコメント 追加

  1. Nekonekoneko より:

    🐥人魚の肉を食べることで不老不死を得ようとする人の話は逸話では割とよく聞く話ですな。水銀をおしろいに使うというのは、水銀を使うとファンデーション(おしろい)ののりが良くなるからかもしれません…表面的に綺麗にすれば若返る訳では無いのに🐣迷信と頑迷な信仰と激しい思い込みは時に劇薬と不老不死の薬を取り違える事があるのかもしれません…🐤

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    1. 五条 桐彦 より:

      腐らない水、ということで古代人の妄想を駆り立てたのかも知れません。水銀朱は実際に、遺体の防腐処理に使われていました。水銀で作られた粉末は、肌を白く見せる効果もあったのでしょうが、その不変性から、いつまでも若さを保ちたいという願望があったのかも知れないですね。

      いいね: 2人

  2. 匿名 より:

    narisawa110

    そう言えば、勾玉は衰退したのに、水銀は八世紀になっても古墳以外の使い方があり、廃れなかったという事なのでしょうかね?

    水銀は昔から貴重品でありながら研究が深掘りされてない気がします。

    今回の朝倉彦のルートは安芸国からなので、トオチネも一緒ですよね。

    そう言えば矢坂入彦のルートって出雲伝承で出てましたっけ?

    京都の祇園執行家は、朝鮮系と武内宿禰系があり、京都の八坂神社と、ほかの東海などの八坂神社ってイメージ的に同じ神社とは思えないんですよね。

    長野県の物部氏は、関ヶ原から岐阜に入り、そこから木曽川を辿って沢に来た様な気がして居ます。水無神社が岐阜と木曽にありますので。

    八坂はとにかくよくわからんのです。

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    1. 五条 桐彦 より:

      朝倉彦はおそらくトオチネ軍と一緒に出雲入りしたと思われるところから、ざっくりルートを引きました。矢坂入彦ルートは出てないでしょうね。というか、矢坂入彦の名前すら出ていないのではないでしょうか。
      福岡にも祇園社とされる櫛田神社がありますが、祇園と称されるようになってからは、神仏習合の影響を強く受けているような印象があります。その頃に、背乗りされたか、書き換えられたかしたのではないでしょうか。諏訪のヤサカトメなどとは全く違う印象です。

      水無神社も未訪問で気になっている神社です。飛騨王朝、なんかが絡んでくるんですかね。沼りそう😅

      いいね: 1人

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