古代の男たちは、意中の異性を岩の前に呼び出し、相手が応じてくれたなら、今夜はOKだという合図と受け止めた。
かの八重波津身も、沼川姫とここで落ち合い、その夜に建御名方を授かったという。
その岩の名は、OK岩。
というのはもちろんウソで、宇治川合戦の名馬「池月」が倉ノ谷と宇賀の間にあった大岩の絶壁を蹴り飛ばしたことでできたという伝承が残されている「馬道岩」(メドいわ)です。
穴から抜け落ちた丸い岩は、近くの海辺に亀のような形で残っているそうですが、気づかんかったー。
確かに、亀のような穴の形していますね。っていうか、本当にぶち抜いたんチャウやろ。
これはサイノカミの磐座なんじゃないだろうかと思うのよね。
だとしたら、僕の説もあながち、なんてね。
穴の形が、角度によっては龍にならないか実験。
ウムム、タツノオトシゴみたいにはなるけど、違うな。
こっちもなりません。残念。
馬道岩横から見た図。結構薄っぺらい岩となっています。
沖に見える、あれは三郎岩ではないだろうか。
三郎岩は中ノ島に行った時、チャリ漕ぎで疲れ果て、パスしたところでした。
馬道岩のそばに、もはや草に埋もれつつある鳥居があります。
比奈麻治比賣命神社の鳥居なのですが、扁額には「濟神社」(すんじんじゃ)とあるようです。
隠岐郡西ノ島町宇賀に鎮座の「比奈麻治比賣命神社」(ひなまちひめみことじんじゃ)にやって来ました。
西ノ島の東部にひっそりとある神社。すっご~っ!
まるで映画のワンシーンのようなロケーションです。
先の緑に埋もれた白い鳥居は当社のもので、祭神は「濟大明神」とも呼ばれています。
というのも、比奈麻治比賣命神社はここから東北方約4Kmの海に面した濟地区の山上にありました。
安政2年(1855年)に参拝に不便であったため、峠越に社地を設定して遷座。
しかし25年経過した明治13年に、神託(氏子の中に種々の災い)があったとのことで、元の濟の旧社地に遷し戻されました。
ところが昭和3年になつて、またもや現社地に里宮建立という名目で再び遷座されます。
旧地には現在、神社跡はあるものの、神体そのほかの全ては現社地に移されたそうです。
創建の由来としては『日本後紀』巻8の延暦18年(799年)5月の条を引用します。
渤海国への使節として派遣された内蔵宿祢賀茂麻呂(くらのすくねかもまろ)が帰途に難破しかかった時、闇夜に見えた不思議な明かりをたよりになんとか進み、無事隠岐西ノ島に上陸することができたというもの。
そこで、不思議な光を尋ねてみると、比奈麻治比売神社の神が、進路を失った船を導くための神火の灯であったということです。
この賀茂麻呂の奏上によって、比奈麻治比売神社は隠岐国最初の官社となったといわれています。
濟(すん)という文字は「済」であり、濟国とは百済のことであろうと思われます。
渤海国とは現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家で、百済・高句麗が滅んだ後、新羅が南方を領有してその北方を渤海が領有しました。
つまり、比奈麻治比賣命神社の旧社地というのは、隠岐の民の氏神ではなく、半島・大陸と出雲の交易のための燈台・道しるべのような意味合いで祀られた神であろうことが予想されます。
比奈麻治比賣命神社の拝殿を覗こうとしたら、「立入注意」の張り紙がありました。「立入禁止」ではなく、「注意」です。
ゆっくり扉を開けて、中にお邪魔すると、ああ、なるほど、
朽ちる寸前です。
プラスチックの板で屋根が補修されていますが、時間の問題でしょう。
これは神社を守ろうとされてある方に対して、甚だ失礼ではあるのですが、僕は今の状態の比奈麻治比賣命神社に、カタストロフィ的美しさを感じていました。
朽ちかけてなお美しい建造物、それが日本の神社です。
ただ、せっかく里宮としてリスタートした神社ですから、なんとか復興してほしい。
神名帳考証には『火焼権現トモイフ』とあるようで、火焼権現とは焼火神社と同一神か関連のある神なのか。
確かに賀茂麻呂を灯火が導いたという話は、火焼神社の伝承に似通った話ではあると思います。
また、当鎮座地を「宇賀」というあたりは、宇受賀命との関系を連想させます。
つまり、比奈麻治比賣と大山神(焼火神)、宇受賀神の三角関係の伝承は、当社の元社地から現社地への遷座のいざこざを伝えているのではないかと推察します。
DV神だとか、ストーカー神だとか、男を争わせる高飛車姫神だとか言っちゃって、ごめんなさい。
では、比奈麻治比賣自体はどういった神だったのでしょうか。
異国の姫神だったのか。
『式内社調査報告』では否定されていますが、一説には、活玉依姫の別号とするとあるそうです。活玉依姫、そう三島溝杙姫です。
他には、「因幡の白菟」のウサギは、比奈麻冶比売を氏神とした民族だったのではないかとの説も。
比奈麻冶比売という名は他に見られないとされますが、長崎県西海市の「焼火神社」と出雲大社の十九社、そして博多の櫛田神社境内の「二十二社」にも祀られているそうです。
西海市の焼火神社は当地から勧請されたものでしょうし、隠岐に近い出雲に祀られるのは分かりますが、何故博多の櫛田神社なのか、その関係性が気になります。
そして境内の片隅に、草に埋もれつつある石碑、
そこには白龍大神の名が刻まれていました。
旧社地の土中には、磐座があるといいます。
やはり、越智系の気配を感じてしまうのでした。
後日、どうしても気になったので、博多の櫛田神社に行って来ました。
街中にあって静かな、良い神社でしたが、最近はすっかりインバウンドマシマシになっています。
それにしても、興味深いラインナップの境内社。博多の総鎮守としての風格を感じます。
そしてこれが二十二社です。
困ったことに、祭神名が天神地祇としか表示されていません。
普通は二十二社といえば、神宮を筆頭に、京都・奈良の神社を中心とした上七社・中七社・下八社を指します。
当然そこには、比奈麻治比賣の名は見えません。
困った僕は、社務所の前を3往復くらいウロウロとし、意を決してご神職に尋ねてみました。
「すみません。先日、隠岐島に伺いまして、そこの比奈麻治比賣命神社を参拝したのですが、この神様がこちらの二十二社に祀られているという情報を目にしました。誠に申し訳ありませんが、二十二社の祭神のお名前は分かりますか」
忙しい最中に面倒なご質問だったはずです。しかしご神職は快くご対応くださり、しばらく奥で資料を探してくださいました。
このような人気社になっても、気さくでご丁寧に対応くださるご神職に、感謝で頭が下がります。
そして持って来てくださった資料には、
確かに、比奈麻治比賣命の名前が記されていました。しかも筆頭です。
二十二社は、元は十七社だったそうですが、祭神が加えられて二十二になったとのことです。
他の祭神には、玉依姫や溝咋耳神の名まで見られます。面白い。
おそらく近隣の小社を合祀したものでしょうが、筆頭に名が上がるということは、博多の比奈麻治比賣社がその中でも大きく重要な社だったということでしょう。
ふと思ったのですが、ヒナマチヒメとはコトノマチヒメのことではないでしょうか。二十二社の他の祭神を見て、そう感じました。
「比奈麻治比賣は隠岐島固有の神なのだそうですが、なぜか櫛田神社の境内社に祀られていると聞いて、とても気になったんです」
「へえ、隠岐島と博多ですか。でもそういったところにルーツのヒントがあったりしますよね。私もちょっと調べてみますね」
とても気さくなご神職さんは、しばらく僕の雑談に付き合ってくださったのでした。
🧡
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