
京都府舞鶴市の女布(にょう)集落に、「日原神社」(ひはらじんじゃ)があります。

創建は不詳ですが、朱鳥元年(686年)に祭祀されたとも、白鳳年間(650-680年)天武天皇のころに既に女布近郊において九社明神の渡御神事が行われたことから、それ以前に祭祀されていたともいわれています。

境内は苔がびっしり。
水氣を感じさせます。

祭神もよく分かっておらず、『女布史』によれば、「天日腹大科度美神」(あめのひばらおおしなどみのかみ)とあり、また、「日臣命」(ひのおみのみこと)とも伝えられます。

天日腹大科度美神は『古事記』にのみ登場する神で、大国主7世孫の布忍富鳥鳴海神が若尽女神を娶って生まれた神で、天之狭霧神の娘の遠津待根神を娶って遠津山岬多良斯神を生んだとされています。

古事記の大国主系譜は、東王家と西王家を一つに合わせてしまっています。
つまり正しくは、天日腹大科度美神とは、15代大名持で富家の「布忍取成身」(ぬのおしとみとりなるみ)の子、16代大名持「簸張大科戸箕」(ひばりおおしなどみ)のこととなります。

気になるのは、彼が天之狭霧神の娘の遠津待根神を娶って、17代大名持の「遠津山崎帯」(とおつやまさきたらし)を儲けているという点です。
遠津山崎帯は神門家の王ですが、父系が富家で母系が神門家ということでしょうか。
天之狭霧は大山祇神(クナト神)とカヤノ神(幸姫?)との間に生まれたとされますが、こちらの系譜も気になります。



「笠水(宇介美都ウケミヅと訓む)
別名を真名井という。白雲山の北郊にあって、その清らかさは麗しい鏡の如し。これは、豊宇気大神(とようけのおおかみ)が降臨した時に、この地に湧き出た霊泉である。
その深さは3尺ばかり、その廻りは122歩ある。炎旱でも涸れることなく、長雨であっても溢れず、常に増減することはない。
その味は甘露のようで、万病を治す力がある。
傍らに二つの祠がある。東は伊加里姫命(いかりひめのみこと)、あるいは豊水富神(とよみずほのかみ)と称する。西は笠水神すなわち笠水彦命・笠水日女命の2柱の神である。これは海部直らの斎き祀る祖神である。(以下、5行虫食)」
– 『丹後風土記残欠』

伊加理姫神社から北に1.35km、京都府舞鶴市公文名に「笠水神社」(かさみずじんじゃ)があります。
『丹後風土記残欠』では、「宇介美都」と書いて「ウケミヅ」と読むとしています。

大きな社と小さな社が並んでいます。

大きい社に笠水神社の額がかけられており、こちらが本社となるようです。

『丹後風土記残欠』によれば、笠水神社に祀られる神は、笠水彦命・笠水日女命の2柱ということ。

では隣の、ひとまわり小さな社には誰が祀られているのか。
Googleの口コミによれば、「伊加里姫命」(豊水富神)が祀られているのだそうです。

『丹後風土記残欠』には豊宇気大神が降臨したという「真名井」の傍に、東に伊加里姫命、西に笠水神の二つの祠があったといいますので、なるほどこれが、ということになりますが、では真名井はどこにあるのでしょうか。

Googleマップで検索してみると、笠水神社から南に700mほどのところに、二つの真名井がヒットしました。
そして真名井からさらに650mほど南に、あの伊加理姫神社が鎮座しています。
これは両社どちらにせよ、真名井の傍というには、離れすぎているように思います。

さらに、伊加理姫と豊水富神は同神であるかのように『丹後風土記残欠』では伝えますが、富家の姫と伝わる豊水富姫と伊加理姫は時代が合わず、伝わる性格からも別人であろうと思われます。
海部氏の『勘注系図』でも、伊加理姫は初代大君の「天村雲」に嫁いでおり、その子「天御蔭」に豊水富姫が嫁ぎ、その子が笠水彦ということになっています。

祖母と孫が並んで祀られるというのも不可解です。
もともと真名井のそばにあった伊加理姫神社と笠水神社は、何かの理由で南東にそれぞれ離されて遷座された。笠水神社の隣には、母神として別に豊水富姫が祀られ、いつしか伊加理姫と豊水富姫が混同されて伝わるようになった、ということではないでしょうか。



石器時代、奈良の葛城にサヌカイトを求めて移住した一族が居た、と僕は考えます。
出雲族が製鉄を行うようになり、彼らは吉野川流域の水銀を採掘するようになりました。
やがて、彼らの一派が舞鶴に移住し、そこで水銀の採掘を始めます。その場所は丹生から女布と呼ばれるようになりました。

伊加理姫は女布で水銀を採掘していた一族の姫であり、この地で丹波王国の海家・村雲の后となった。
そして彼女の一族が、村雲を奈良の葛城へ進軍を仄めかしたのではないでしょうか。

伊加理姫神社の西200mの場所に「幸谷神社」(こうだにじんじゃ)があります。

幸谷とは「サイノカミの谷」を意味するものかと思い訪ねた社でした。

見事な龍の彫刻。
しかしここに祀られていたのは、意外な神でした。
祭神は「手力雄神」(たぢからおのかみ)。

当社は九社の一で、「神名帳」に「正一位田力男明神」とある由緒正き大社で、水銀と関係深い社であったとのことです。

タヂカラオは越智と深い関わりのある神、真の越智族の真の祖神であろうと僕は考えます。
すると、伊加理姫の素性が自ずと導き出されます。
越智族は、海王家にも后を出していたのです。

水銀硫化物は「辰砂」と呼ばれ、その鮮やかな赤は、古くから珍重されてきました。
顔料としての硫化水銀は朱または丹と呼ばれ、大変貴重なものだったといいます。
その反面、光る水は「白」としての印象も強く、後年はおしろいの原料にもなっています。
伊加理姫の父は「天白雲別」(あめのしらくもわけ)、越智に通じる「白」とは水銀を示しているのかもしれません。

『日本書紀』には初代天皇が大和において「もし飴ができれば武器を使わないで天下を平らげるだろう」と言ったと記されます。
この飴とは「水銀」のこと。
村雲の大和への南征は、水銀を求めたものだったのだろうか、と僕は思いを巡らせるのでした。

「石器時代、奈良の葛城にサヌカイトを求めて移住した一族が居た、と僕は考えます。」
なるほど。。。ここでまた越智が関係してくるのですね。この回は全部読み終わった後、「これは伏線回収、じゃなかった、一周回ってああこういうことだったのか」と、とても納得、ストーンと落ちてきました。
しかしこれは凄い考察力ですね。
あっぱれです。数ある五条さんのブログの中で相当お気に入りマーク☺
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narisawa110
ワケという古代カバネ。先生は如何思われますか?私的にはとても重要な気がして居ます。岩戸神と、岩戸別神は別の存在と考えて居ます。
別れた家や、副王などを示す様ですね。皇別と、神別に使われる様で、出雲系には稀と思われます。
伊加里姫命が叢雲の別の奥さんだとすると、海部が分家で、カゴヤマの実家が尾張家という感じになるのかなと思われます。
あと、鏡が流行ったり、青銅器が流行ったりするのに私が思うにバブルが必要と考えます。あれだけの古墳が作られるのに交易などでのバブルがあったのではと思います。
硬玉の頃には米やヒスイ。古墳の頃には水銀。その様に考えて居ます。卑弥呼時代までは我が国は水銀を輸入して居ましたが、その後は国産化が進んだので、輸出に転じたことによりバブル発生。
つまり、水銀で金持ちになった人たちは、すこし後年の人なんではないかと。
これを思いついたのは徳島です。村雲社は、諏訪系の出早の姫とセットになって祀られます。しかし実際には諏訪のミナカタの娘と叢雲が結婚するのは不可能です。
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確かに、水銀バブルはやや後年の印象でしたが、ヒミコ時代以降になりますか。
別は分家、その路線での考察も必要ですね🤔
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🐥越智族と水銀とはどんな関連性があるのですか?変若水とは似ても似つかない、使うと老化する物質である水銀ですが🐤
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出雲王国時代に、遺体の防腐処理として水銀朱が使われていましたので、不老不死と結びつけられたのでしょう。
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🐥死体を防腐処理とは🐤ますます永遠の若さとはかけ離れてますがな…🦑
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遺体を防腐処理するのは風葬のための過程の話ですけどね。
まあ、生きて不老となるために水銀を用いる発想は、生きて仏を求める即身成仏や補陀落を求める渡海の発想に似ていますね😌
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🐣ミイラでんがな
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