
mono:
これまた気になる神社ですね!
画像の氏子寿命鏡に埴安姫神社の名が併記されており、「神殿跡」が埴安姫神社跡だとしたら羽黒山三の坂の埴安姫神社の配置みたい꒰ ♡´∀`♡ ꒱
湯殿山は水銀の産地らしくて、私的に水銀は変若水なんです。
桐:
神社の案内では、境内社の天神社祭神が福岡縣神社誌では埴安神となっているので、その埴安神社だと思っていました。
しかし確かに、本家羽黒山の境内図に従うなら、天神社は埴安彦で神殿跡に祀られていたのは埴安姫の可能性がありますね😊
- 以前、福岡の羽黒神社の記事を投稿した際、Xでmonoさんとこのような会話をしました。

と、いうことで、山形の本家羽黒山「出羽神社」へやって来ました。
今回は羽黒山自動車道を通って、いきなり山頂の本社を訪ねます。

そこからグイ~っと階段を降りていくと、

埴安姫神社があるのです。

この写真が、福岡の羽黒神社の参道途中にある神殿跡です。
ここにあったという謎の神殿、それは埴安姫神社なのではないかと考察されたのが、mono嬢でした。
なるほど、確かに。
羽黒山・出羽神社の境内図を見ると、数ある境内社の中でも、埴安姫神社は特別に記されており、重要な社であることが窺えます。
その鎮座地もまさに、福岡の羽黒神社神殿跡地と重なります。
とある方のブログによれば「羽黒山(本宮)開山以降、修験道が活発になりますと、羽黒信仰を広めるため に、修験者たちが日本全国に羽黒神社を勧請していくのですが」とあります。
福岡の羽黒神社は、羽黒修験者によって勧請された一社ということになるのでしょう。

この埴安姫とはどのような神なのか。
記紀の神産み神話では、火の神カグツチを産んだイザナミは大火傷により死に至ります。その死の間際、イザナミの吐物からは鉱山の神カナヤマヒコが、大便からは土の神ハニヤスが、小便からは水の神ミヅハノメが生まれます。
古代語の「ハニ」は、土器や陶器のもとになる粘土を示す語であることから、ハニヤス神は「土の神」とされ、農耕・開墾・田畑の守護神であると一般には考えられています。

一方『延喜式』第八巻「祝詞」に収録されている「鎮火の祝詞」にもハニヤス神が登場します。
亡くなったイザナミの元へやって来たイザナギは、「7日7晩の間、ここを開けないでください」と約束された岩戸を開けてしまいました。約束に反されたイザナミは「自分は夜見国を治めることにするので、イザナギは現世の国を治めなさい」と告げて去ってしまいます。ところはイザナミは、何かを思い出して、黄泉比良坂まで引き返してきて次のように告げるのでした。
「私の愛しい夫が司る地上の国に、悪い子(火の神・ホムスビ)を生み置いてきたことが気がかりです」
そうして一度現世に戻り、更に次の子らを産みました。それは水の神(ミツハノメ)と、水を汲むためのヒサゴ(ひょうたん)、それから埴山姫(はにやまひめ)と、火消しに用いる川菜(ミズゴケ)でした。
イザナミは「この心の悪い子が暴れて現世に害を及ぼすならば、水の神はひょうたんで水をかけ、 埴山姫は川菜を持ってこれを鎮めよ」と告げました。

故に、ハニヤス神は火消しのご利益が付与され、火の神を祀る「愛宕神社」や「秋葉神社」においても、重要な神として祀られています。
この鎮火の祝詞で、一度死に別れたイザナミが、夫と現世を慮ってハニヤスとミツハノメを産み置いたという話は、記紀でいう千曳の岩でイザナギ・イザナミの中を取り持った菊理姫の話を彷彿とさせます。
羽黒山の埴安姫は菊理姫同様、縁結びの神として、参拝者に深く崇敬されていたのでした。



さて、出羽三山の開祖は、32代崇峻帝の第三皇子「蜂子皇子」(はちのこのおうじ)であるとされています。
崇峻5年(592年)の冬、父である崇峻帝が蘇我馬子によって暗殺され、聖徳太子の勧めで宮を逃れ、当地に至り開山したというものです。
伝承では、蜂子皇子は越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた時、容姿端正な美童八人に会います。
不思議に思った皇子が近づくと、乙女らは皆逃れ隠れてしまい、そこに髭の翁があらわれ告げました。
「この地は伯禽島姫(しなとりしまひめ)の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい」
皇子はその教えに従い東の方に向かって進みましたが、途中道を失ってしまいます。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導きました。
これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた、ということです。

蜂子皇子は何故か異形の姿で描かれることが多く、伝承ではまた何故か、不自然に八咫烏と思われる人物が登場ます。
「筑紫の羽黒神社は、元は “羽白神社”だったそうだ」とは九州王朝説論者のN氏の言葉ですが、確かに筑紫には羽白熊鷲という豪族がいましたが、他に羽白という神社は青森の羽白稲荷神社しか見えず、説には少々無理を感じます。

ただ、羽黒山の蜂子皇子と八咫烏に対する違和感は、白を隠すためのカモフラージュによるもの、ということなのかもしれません。

羽黒山 出羽神社の祭神は現在、出羽国の国魂である「伊氏波神」(いではのかみ)と「稲倉魂命」(うかのみたのみこと)の二神となっています。
このことについて、先にも引用した、とある神社のブログが参考になります。
その神社とは石川県珠洲市の奥能登に鎮座する羽黒神社です。

羽黒神社の髙山宮司によると、江戸時代の文献『羽黒山の祭神考』に記載される羽黒山の神は、
「伯禽州姫命」(しなとりしまひめひめのみこと=聖観音)
「羽黒彦命」(うがひこのみこと=軍荼利明王)
「玉依姫命」(たまよりひめのみこと=妙見大菩薩)
の羽黒三所権現であったということです。

「伯禽州姫」(しなとりしまひめ)、一般には聞きなれないこの姫神は、蜂子皇子が山形の八乙女浦にたどり着いた際に名が語られる神です。
八乙女浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、この洞窟は羽黒山頂の霊地「鏡池」とつながっていると云われています。

出羽神社三神合祭殿の正面にある鏡池は、中世には羽黒山の神体とみなされていた時期があり、御名も「池御魂神」(いけのみたまのかみ)と称されていたといいます。
この鏡池には龍神が棲んでいるとされ、その龍神が伯禽州姫ということになりそうです。

伯禽州姫は一説に、ウガヤフキアエズと玉依姫の娘であるとされるそうで、それを元に考えると、羽黒彦とは豊彦(豊来入彦)で、玉依姫(常世織姫)の親娘神ではないかと僕は推察します。
羽黒山の本来の祭神は、豊・越智系のサイノカミ三神であり、そうであるなら、出羽信仰の最高峰に月読神が祀られるのも、まことに納得できるものです。
また、伯禽州姫が龍宮の姫神であり、鏡池の龍神とされる理由となります。
羽黒彦は羽黒山の龍神である羽黒九頭竜王の御子神で、稲倉魂の別名であるともいわれていました。



希少な”月山たけのこ”入りの山菜そばで小腹を満たし、羽黒山自動車道を下っていると、

蜂子皇子を祀る「吹越神社」があったので、立ち寄ってみました。

大元出版の『出雲散家の芸と大名』(富士林雅樹 著)によれば、出雲系修験(サンカ)の他に、もう一つの修験の系統として出羽三山の羽黒山を紹介しています。
羽黒山系の修験者は羽織袴を纏い、胸に玉飾りのついた帯をたらし、頭にユダヤ系の黒い小さい冠を付けています。これはユダヤ人の習慣が修験道にも取り入れられたものと考えられ、応神大君の時代に渡来したユダヤ系秦族の影響があると考えられます。
思うに、伯禽州姫は応神大君(竹葉瀬ノ君)の母親なのではないでしょうか。

今回ご参考にさせていただいた、奥能登珠洲市の羽黒神社・髙山宮司様のブログですが、こちらには福岡の羽黒神社の記事で伯禽州姫と玉依姫の関連を調べていた際に行き着きました。
それ以来、いつか珠洲市の羽黒神社を参拝し、運良く髙山宮司にお会いできれば、ぜひお話を聞かせていただきたいと思っておりました。そのような最中の今年元旦の震災です。
改めて髙山宮司のブログを今年最初の記事から今日まで拝見させていただきましたが、胸に込み上げるものを感じます。国の政策には思うところもありますが、地震からすでに8ヶ月目、1日も早く能登に暮らす全ての方々に、普通の日々が戻られることを願うばかりです。
