激しくも美しい。
月の神の洗礼を、僕は受けて来ました。
紅葉も見頃の月山へ足を運びます。
駐車場側にあった廃屋ですが、屋根が湾曲しています。
山形県のほぼ中央に位置する月山では、積雪が20mに達するそうで、雪の圧力は建物も植物も押しつぶしてしまいます。
朝一でやってきましたが、観光バスがすでに来ていました。
月山への登拝路は、八方七口といわれるほど多数ありますが、主なものは月山高原ラインの羽黒口、国道112号の六十里越街道からの姥沢口と仙人沢有料道路経由の湯殿山口となっています。
今回はエスコートをお願いした山口さんの勧めで、月山の副峰姥ヶ岳方面にある「志津(リフト)口コース」を登ります。
月山に登頂して、そのまま湯殿山へ縦走する予定です。
リフトが見えて来ました。
月山ではスキーももちろん楽しめるのですが、真冬はあまりの雪の多さで閉山します。
リフトは4月上旬にオープンし、7月末頃までスキーが楽しめるという、まるで日本では考えられない山なのです。
ここまで標高1250mくらいですが、リフトで1500mあたりまで昇っていきます。
その後標高にして500m弱、3km強の道のりを登っていきます。
リフト小屋の中ではお土産や玉こんにゃくなどが販売されています。
では早速リフトに乗りましょう。
リフトに乗ってすぐに
美しい山肌が姿を現します。
他の山ではまだ紅葉は見られません。
このあたりは背の高い木がありますが、
やがて森林限界を越えていきます。
樹木の背丈が一気に低くなって来ました。
なだらかに続く山肌。
リフト終点について降り立つと、
そこはもう、燃える紅葉の世界です。
ここに来れただけも、十分なギフト。
晴れ渡っています。
良い時に来たな、そう思いました。
そう、今になって思えば、確かに絶妙な、誰もが体験できないような、良い時に来たのです。たぶん。
案内図を確認して月山に向けて出発です。
この美しい円錐形の山は月山ではありません。
月山の副峯「姥ヶ岳」です。
出羽三山とは、山形県の中央にそびえる「月山」(1984m)、「羽黒山」(414m)、「湯殿山」(1504m)の総称です。
六世紀に蜂子皇子によって開山されたと云われています。
三山といっても独立した三つの山があるわけでなく、月山を主峰に、峰続きの北の端に羽黒山があり、月山の西方に湯殿山があります。
元々は月山・羽黒山・葉山あるいは鳥海山をして出羽三山と呼び、湯殿山を三山の「総奥の院」と称していました。
葉山・鳥海山はやがて宗教上の問題で三山から外れ、湯殿山が名を連ねるに至りました。
雲がかった先が月山山頂。
石の道や
木道が山頂に向かって続いています。
そしてそこに広がる景色は、神の絨毯とも呼べる絶景でした。
造られた庭園・寺院の紅葉と違って、自然に植生する紅葉です。
まるでモザイクのような色合いが広がります。
月山は標高が高いことと、真冬の積雪が20mに及ぶことなどから、背の高い植物が育ちません。
もみじも枝を低くして育つのです。
古代日本では、山や川、木や石、動物などを神そのものとしてきました。
山や川は神の住処であり、神によって産み出されていきます。
人は神の宿る大自然から生を受け、そして死後は自然へと帰ってゆくのです。
そして大自然の象徴として最たるものが「山」でした。
高くて形のよい山は、豊かさの象徴であり、魂の静まる神聖な場所として、人々から敬われてきました。
出羽三山はそうした聖域として、多くの人々に信仰されたのです。
月山の山道を歩いていると、様々な高山植物が目を楽しませてくれます。
月山は「日本百名山」、「新日本百名山」、「花の百名山」及び「新・花の百名山」にも、その名を連ねます。
月山は万年雪および、梅雨時の大量の雪解け水が大量に浸透し、ブナなどの広葉樹林帯が水源林の役目を負っています。
その滞留時間はなんと400年だと言われています。
山麓には多くの湧水があり、「名水百選」、「月山行人清水の森」として水源の森百選にも選定され、豊かな自然の源になっているそうです。
なだらかな山全体の姿から、古くは「臥牛山」(がぎゆうさん)、「犂牛山」(くろうしのやま)などと呼ばれていました。
火山活動は約70万年前に始まり、最後に噴火したのは約30万年前、その時に山頂部まで形成されたそうです。
月山は山自体が御神体、信仰の山ですが、山頂の月山神社には、農業の神「月読命」(ツクヨミノミコト)が祀られています。
月読命の大元宮は長崎壱岐の「月読神社」であると、一般には云われています。
京都松尾大社の摂社である「月読神社」も、壱岐から勧請されたと伝わります。
しかし日本で最初に月の神を信仰したのは、大分宇佐にあった「豊王国」であると、斎木雲州氏は語ります。
豊王国とは、いわゆる僕らがイメージする「邪馬台国」のことであり、その女王「豊玉姫」が「卑弥呼」であると云います。
豊玉姫は月神を信仰しますが、稲作を営む者にとって、月の満ち欠けを読むことは大切なことでした。
そこから「月読の巫女」が生まれ、神格化し、「月読みの命」となっていったのだと思われます。
なので本来、月読みの神は女神だったと僕は思っています。
記紀ではイザナギから生まれた三貴神を「アマテラス」「ツクヨミ」「スサノオ」として記されています。
アマテラスは出雲族が信奉していた「太陽の女神」であり、
ツクヨミは豊王国が信奉した「月の女神」なのです。
そしてスサノオは中華の秦国から渡来した「徐福」その人であり、物部氏の祖神となった人です。
豊王国の豊玉姫は、物部のイニエ王と連合し、磯城大和王朝へ東征を画策します。
僕はその豊王国と物部族の繋がりから生まれた一族が「安曇族」であると考えていて、物部の神である「海童神」が「綿津見神」の龍宮伝説に変化し、その龍宮の姫として豊玉姫の神話が生まれたのだろうと思っています。
つまり、安曇族のテリトリーだった志賀島から壱岐・対馬に於いて、月読信仰や龍宮信仰が根付いたのではないでしょうか。
さて、なだらかだった道の様相が変わって来ました。
ここから一気に、土と石がむき出しの、道とも言えない道となっていきます。
しばらく進むと、急にガスが強くなってきました。
山頂は雲の中だったので、それは想定内です。
しかし紅葉だった景色がなぜか白くくすんで見えます。
確かに紅葉はあるのですが、、、
これは霜が降りているのでしょうか。
吹く風は冷たく、激しくなってきました。
しかし霧が晴れる一瞬の景色は、先ほどと変わりありません。
でも、ああ、間違いなく凍っています。
流石は月山、すごい景色を見せてくれるものだと、この時はまだ余裕綽々で感心していました。
月読みの神を祀る神社として有名なものが、伊勢神宮の別宮にあります。
別宮とは内宮・外宮に次いで次に重要な宮となりますが、内宮にも、外宮にも、それぞれの月読神の別宮が、両宮のほど近いところあります。
内宮の別宮は「月讀宮」と表記され、境内に4つの社が設けられています。
それは「月讀宮」「月讀荒御魂宮」「伊佐奈岐宮」「伊佐奈弥宮」となっているのですが、由緒を調べると、どうやらここは月読神を祀るというよりは、アマテラスの両親である「イザナギ・イザナミ」を祀るために創建されたようです。
では外宮の別宮の方は。
外宮の別宮は「月夜見宮」と表記されます。
境内には一つの社があり、その中で「月夜見尊」とその「荒御魂」(あらみたま)が一緒に祀られていると云います。
そして月夜見尊と外宮の豊受大神は恋仲であると囁かれています。
しかしこれには理由がありました。
もともとの外宮は、出雲の太陽の女神を祀る「内宮」に対し、「月読みの神」を祀っていたそうです。
件の物部・豊王国連合は、大和東征を果たし、豊玉姫の娘「豊鍬入姫」(トヨスキイリヒメ・豊姫・台与)が大和の巫女として一世を風靡するに至ります。
しかし大和の混乱とイクメ王の嫉妬から豊鍬入姫は大和を追われ、丹波に逃れ、さらに伊勢一ノ宮の「椿大神社」に匿われたと云います。
ようやく安堵を得たにもかかわらず、姫はそこで暗殺されました。
後世にこの豊鍬入姫を祀るために、外宮を「豊受大神」と祭神を変え、元に祀られていた月読神を外宮に移したそうです。
気付けば足元は岩場になっていました。
およそ道らしきものなく、赤く引かれたマーカーを頼りに登ります。
三山のそれぞれの山は、羽黒山が現世(正観世音菩薩=観音浄土)、月山が前世(阿弥陀如来=阿弥陀浄土)、湯殿山が来世(大日如来=寂光浄土)という三世の浄土を表すと云います。
近世の出羽三山詣では、現世たる羽黒山から入り、月山で死とよみがえりの修行を行い、湯殿山で再生するという巡礼が多く行われているそうです。
死と再生による生まれ変わり、「三関三渡」(さんかんさんど)の旅です。
三山を開山した蜂子皇子が、何故月山に月読命を祀ったかはわかりません。
羽黒山では出雲系のヤタガラスの助けを得たようですが、豊王国系との繋がりは見えません。
しかしここに立つと、確かに死と再生を司る月神の存在を、濃厚に感じます。
先ほどまではあんなに快晴だったのに、今は全ての命が凍てつく世界となっていました。
幻想的、そんなことをのんびりと感じていました。
幻想的、、
いや、まて、これはマズくないか!?
温暖な九州に慣れ親しんだ僕は、当然冬山の準備なんかしてないのです。
初老のご夫婦が登っておられました。
下山すべきか思い悩んでいると、奥さんがせっかくあと少しなので登らないと後悔するよとおっしゃっています。
そうか、あと少しなら、ここまで来たんだし、登らないと。
そう誘惑に負けてしまいました。
景色はどんどん変わっていきます。
似たような風景、道はまだかろうじて判別できます。
これが死後の世界感でなくで、なんだと言うのか。
雪もはっきりと降り始めました。
なんか石の祠があります。
この横壁で、一時風をしのぎます。
月山は標高2000mに至らない山ですが、大陸からの寒気団が最初にぶつかる山だということです。
今朝の予報では曇り時々晴れでしたが、そう言えば寒気団が来ていると言っていたような。。
もうここまで来たら引けない、そんな思いで登ります。
ストックを刺しても、体を持っていかれるような強風です。
それが右から左から、吹き荒れます。
鍛冶小屋跡への下り口の所にあるこれは、松尾芭蕉「雲の峰いくつ崩れて月の山」の句碑だということです。
もちろん、文字など見えません。
この日は山形で初雪となり、月山で初冠雪を見た、ということでした。
初もの、いただきました。
ふと、風が止み、
穏やかさが一瞬訪れます。
そしてついに見えて来ました。
天空の神殿、「月山神社」です。
万感の思いで、今ここに立っています。
月山は天候の良い時は、遠く日本海から、太平洋側の山々まで、素晴らしい眺望が見れるそうです。
それも見てみたいっちゃ、見てみたい。
しかしどうでしょう、
これはこれで、狙っても見れる景色ではないはずです。
月山の撮影は、この石の鳥居までとなっています。
この先の撮影は禁忌です。
そっと鳥居をくぐり、参拝します。
月山神社は、その豪雪から神殿を守るため、城壁のような石垣に守られています。
その石垣が、神秘さを一層際立たせています。
月の女神は、初物の壮絶な美を用意して、僕を迎えてくれました。
しかし、彼女のもてなしを得るということは、この先の下山において、死に直面する恐怖もまた得るということでした。
撮影できたのは、ここまでが限界です。
みるみる空は暗転し、強風は吹き止まず激しさを増し、雪は雹となって顔面を強く打ち付けます。
手指の感覚は麻痺し、視界は効きません。
道しるべだった赤いマーカーは雪に消え、岩は足を滑らせます。
山慣れした他の登山客はとっくに下山し、僕らは山中に取り残されていきました。
孤独と不安、嫌な予感しか脳裏に浮かびません。
しかし僕らは生きて帰らなくてはならないのです。
基本的には整備された登山道のはず。
微かなマーカーの影と記憶を頼りに、誤らないように慎重に道を選びます。
突風に耐え、少しずつ、怪我をしないように足を進めます。
美容師たる僕は、手を失うわけにはいかないので、手を守り、感覚を少しづつ取り戻すようにしました。
湯殿山への縦走は諦め、リフトの方へ戻ります。
気が遠くなるような下山の後、リフトがまだ動いていたのは奇跡だと思いました。
今回無事下山できたのは、
山口さんが貸してくださった暖を守るためのインナーがあったこと、
かるべさんでしっかりとした朝食をとらせていただけたこと、
一緒に登った仲間がいたこと、
あと、クマが空気を読んで出てこなかったことなどがあると思います。
今も左手の中指と薬指の指先には、若干麻痺したような感覚が残りますが、仕事には全く支障ありません。
自然の怖さと、命を教わって帰って来ました。
そう、でも僕は、今またこの月山に登りたいと思い始めているのです。