
「風かほる こしの白根を 國の花」
(初夏の風を吹き降ろす、越のしら山こそは、国の花であることよ」
-『奥の細道』松尾芭蕉


白山のお池巡りを堪能したあと、白山奥宮祈祷殿に立ち寄りました。

御朱印をお願いしている間、改めて能登復興のお力添えを、白山比咩大神に願い奉ります。

祈祷殿の端には、十一面観音菩薩坐像と思われる仏像も置かれていました。

白山本宮の後身である白山比咩神社の境内からは白山神の像と思われる十一面観音坐像の金銅仏が出土しています。
神仏習合期に生まれた、”神は仏の仮の姿である”という本地垂迹(ほんじすいじゃく)の考えにもとづいたものです。
僕は、後からやってきた仏が日本古来の神に背乗りするという、この考えがあまり好きではありませんが、さりとてさすがは我が比咩神、金銅仏の艶かしく美しいこと。

お守りとお札も頂きました。

美味しい室堂の朝食の後は、縁側でまったりタイム。

君の名は、

ゆかり。
ごはんのお供、ゆかりは、三島哲男氏が創業した三島食品株式会社の主力商品ですが、当社は広島に本社をかかげているということで、三島という名も意味深く、なるほど白山山頂であえて販売するだけのことはあるものだと、訳のわからぬ納得をしたものです。
お味の方は、赤しその汁が甘酸っぱく、あの日飲んだ彼女の口噛み酒の味がしたよ、たぶん。

前回は、過酷な登拝を成し遂げた選ばれし者だけが頂戴できるという、シュワシュワの黄金水を頂きましたが、

今回は勇者の証、「白山頂上登拝T」をゲットしました。
これはもう、家宝やろ。

さて、そろそろお別れの時です。
愛しい加賀妻よ、名残惜しいです。
雲の隙間からちらりと見せる彼女の姿が、ほんと愛おしい。

この後の帰り道も、死ぬほどキツい思いをしました。
実際ちょっと、死にかけました。
もう一度、ここに来る自信はないけれど、でもまた、いつかやって来るから待ってて。たぶん。きっと。



弥陀ヶ原を過ぎて、

黒ボコ岩まで来ました。
ここからは来た道である砂防新道ではなく、観光新道の方を下山します。

〔ぐるっと白山〕
観光新道は砂防新道と同じく、ビギナー向けの人気のルートだと聞いていました。
行程では砂防新道よりも30分ほど余計に表示されていますが、言うても”観光”と名の付く道ですよ。観光気分で下山できるでしょ、とその時までの僕は思っていました。

いや、この道、まじっパネエから。

精一杯すぎてあまり写真撮ってませんが、ひたすら急勾配な上に岩場のオンパレですから。

ただ、道脇に咲く花が可憐で、心を癒してくれます。
花を楽しみたければ、観光新道はおすすめかと思います。酷道だけどね。

黒ボコ岩からしばらく下ると、

ありました。

そのむかし、泰澄上人が1000匹の大蛇を1か所に集めて、その上にたくさんの石を積み上げ生き埋めにしたという「蛇塚」(じゃづか)です。

そんなの絶対呪われるよぉ。
この泰澄上人と白山の3000匹の大蛇の話、オロチとはオチ族のことで、泰澄上人は越智族を虐殺したのか!とも思いましたが、さすがにそれはないでしょうとすぐに考え直しました。
実際、泰澄は、越智族の導きで白山入りを果たしている形跡を感じます。

物部と石川(蘇我)の争いのように、仏教伝来時に白山で、神道派と仏教派の争いがあったのかもしれません。
が、どちらかと言うと、越智族の存在を隠しつつ、彼らの痕跡を後世に伝えるため、3000匹の大蛇の話を白山修験者が創作したのではないかと想像しました。
蛇塚もここだけではなく、似たようなものが白山各所に見られますので、そういった信仰の痕跡なのでしょう。

グイグイ歩きます。

拙い体力を補うべく、課金して臨んだ今回の白山でしたが、登りは激キツで、正直あまり効果を実感できませんでした。
しかし降りで、それらの課金アイテムは、確かに僕の負担を軽減してくれました。

グレゴリーのカトマイ55は腰でしっかりと荷物を支え、肩や首への負荷を大幅に軽減してくれます。
「ℳ𝒾𝓏 ⚚」さんおすすめのYAMAP「山を歩くインソール」は、僕の足への衝撃を間違いなく軽減してくれています。
下山が弱い僕にとっては、これら課金アイテムはとても有効でした。助かります。

さて、石川の白山比咩神社境内にも石碑が置かれる、松尾芭蕉の一句

「風かほる こしの白根を 國の花」は、『奥の細道』の道中で詠まれたものというのが表向きの話となっています。
しかし季語の「風かおる」では、旧暦7月の季節感から外れるために、『奥の細道』で詠まれたものではないという説も強く主張されます。

白山比咩神社の奉納句集である『柞原集』(1692年)の巻頭には、「春なれやこしの白根を国乃花」として掲載され、「此句芭蕉翁一とせの夏越路行脚の時五文字風かをると置てひそかに聞え侍るをおもひ出て卒爾に五文字をあらたむ」と注釈が載っています。
この『柞原集』の編者である「鶴屋句空」(つるやくくう)が、この歌の作者ではないか、というのが今の通説のようです。

句空は京都の知恩院で仏門に入り、のちに金沢の卯辰山に「柳陰軒」を結び、隠棲します。
元禄2年(1689年)7月、芭蕉が『奥の細道』の旅の途上で金沢を訪れ、その時、句空は入門しました。
芭蕉は柳陰軒に一泊したとも伝えられます。

正徳2年(1712年)1月25日、句空没。
「風かおる~」の句が、芭蕉によるものか、句空によるものかは定かではありませんが、風そよぐ夏の白山は、僕の心に花を咲かせるのでした。

ところで、白山はなぜ白山なのでしょうか。
一年の大半を雪が覆う山、だから白山なのだとは思いますが、それであれば立山連峰始め、この付近の高山は全部白山になっても良いはず。
そういえば、漢字というのは言葉の意味を表す象形文字から始まったといいます。
そこで、白の象形文字を検索してみると、なんと、白は頭蓋骨の象形文字が元だということです。
でも、真ん中の文字、何でも越智病の僕には、これ宝珠に見えるんですけどー。
宝珠といえば、干珠満珠がそのような形をしていたとも伝えられ、潮の満ち引きを司る珠といえば、それは月なのです。
豊族も越智族も月神祭祀族であり、ツクヨミの持てる霊水が変若水(おちみず)です。

つまり、干珠満珠を用いた月神祭祀が行われた神奈備であったから、白山はそう呼ばれるようになった、というのは、少々飛躍し過ぎた発想でしょうかね。



愛しい人との別れの時間は、センチメンタルになるものです。
いい歳をしたおっさんが、青春、なんてことを言い出せば、それはイタい奴だと思われてしまいますが、愛や恋というのは本当に、いったいどこからやって来るのでしょうか。

探しても見つからず、でもそれはある日突然、胸の奥を突き上げるものです。
今の僕は長いこと、燃え尽き症候群に近い状態にあり、軽い無気力の日々が続いておりました。
コロナ禍が過ぎて仕事もある程度一区切りし、本が終わったこと、旅をあらかたやりおおせたこと、小さな相棒が旅立ってしまったこと、などが重なり、かつての情熱の炎が小さく消えかかっている気がしていました。

もうひとたび、情熱を燃やせる何かを求めて、僕は白山を登りました。
それはたぶん、そう、新たな恋がしたかったのだと思います。

例えば10代の夏休みなんて僕の場合は、初日から最終日まで、毎日が青春でした。
朝から晩まで好きな娘のことばかり考えて、女の子にモテたいがために生徒会役員になったり、バンドをやってみたり、車の免許を取ったりしていました。
全ての動機は女の子にモテたい、恋がしたい、その一点にありましたよね。はい、アホです。

でも女の子に恋をすることは、10代の僕にとって一番大事なことで、それゆえに情熱を燃やせました。
やがて大人になって、恋する対象が変わっていき、それは仕事であったり、家庭であったり、趣味であったり、人であったり、そうして恋することで情熱に薪を焚べてきたのです。
富家伝承や富先生にも、恋をしました。

さて、すっかり出涸らしのおっさんになってしまった僕は、この先の恋路をどうしたものか。

そこで今回、白山ツンデレの姫君に逢って思いました。やっぱり今の僕は、神様と恋がしたいんだって。
だってまだまだ、日本中の神様にモテたいじゃん。モテモテになりたいじゃん。
だったら、燃え尽きたなんて言っていないで、カバン片手に旅に出掛けよう。ザック背負って山に登ろう。
そうして少しだけ、僕の純愛にまた、炎が灯るのでした。

やれやれ、山登りのトレーニングでも始めてみますか。またキミに会うために。



Beautiful pictures. Thank you for sharing such wonderful scenery.
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Thank you for visiting.
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🐥神様にモテたいんですか?でしたら毎日シャワーを浴びたり風呂に入ったりして禊ぎをしてたまに水行(冷たい水を頭からかぶる)をして食生活を整えて偏食を慎み体の老廃物は必ず1日一回以上は排泄してできれば掃除は頻繁にしといたらええと思います🐣これであなたも異臭と無縁の清浄男子🐥
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なるほど、あえての”匂わせ”デスネ🤠
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🐣匂わせ…脱臭が匂わせやったら元も子もない。逆張りで臭さ臭さ演出したら匂いフェチが寄り付きそうやな🐤
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