
厳原町阿連(あれ)の里で行われた「お日照様」の本山送りに参列した夜、空に浮かぶ月を見て、この祭りが旧暦11月9日に行われる意味をもう一度考えてみました。

その頃は、現在の暦でいうと12月初旬から下旬にあたり、収穫期を終えた頃ですから、この1年の豊作・豊漁を感謝する意味合いがあるのだと思われます。
それを象徴するかのように、雷命神社の本殿前には、海のもの山のものの幸が奉納されていました。

また同時に、お日照様は1週間の里神と神婚を経て懐妊し、子を宿した状態で本山へと還されます。
この子は阿連の大地に還り、翌年の作物や魚介の新たな命の源になります。また、子が育って、翌年のお日照様へと成長するのかもしれません。
つまり、来年の豊穣を願う祭りでもあるということです。
それで「お日照様」という、その神名に着目してみます。

旧暦とは、いわゆる月齢の暦であり、春分・秋分・夏至・冬至を軸とする太陽暦とはひと月ほどのズレとブレが生じます。
そこで、旧暦における神無月の始まりの日を11月1日と仮定して、その日の朝日の方向を見てみました。

そうすると、雷命神社の祭神が出雲の神議りに出かける頃、阿連の里からは、ちょうど雷命神社の裏山あたりから朝日が昇るのを見ることになろうかと思われます。
つまり、祭神の留守中は、太陽の女神が代わりに里を見守るように、神奈備から昇るのです。

そして祭神が社に戻り、神婚が営まれ、本山送りが催行される冬至の頃、

太陽の女神は、お日照様の社がある聖域の辺りから昇ります。

これは山に昇る朝日を拝んだ、出雲族の信仰に酷似しており、

対馬県主であった「建弥己己命」「伊奈久比命」の先祖が神門家の「赤衾伊努大住日子佐別命」(サワケ)であるという、B女史さんの考察も無関係ではないと思われます。

お日照様の一連の神事の目的は、諏訪のミシャクジ信仰で神が木を伝って大祝に降りてくるように、お日照様もヒモロ木を伝って里に降り、里で神の子(新たな命)を宿し、ヒモロ木の根を伝って翌年の収穫ための新たな命を大地に還すことだと考えられます。
これは見方を変えると、太陽の精力を大地に受精させる神事であると受け取ることができます。
対馬に伝わる太陽信仰、とりわけ太陽の光が女性の陰部に差し込んで孕み、子供を産むという「太陽感精神話」に由来する「天道信仰」の原点にあたるのかもしれません。
そう考えると本山送りは、月の女神が懐妊した姿になる上弦の太陰暦9日、そして、陰の氣が最も高まり、陽の氣に転ずる冬至の頃に行われるのが、最も相応しい祭日となります。
それが旧暦11月9日なのでしょう。

なので、旧暦11月9日と冬至が重なる年は、最も神事の効果が高まる、とても特別な年となります。
前回は2012年がそうでした。
日本の元来の暦である太陰太陽暦では冬至を含む月を11月と定義していますが、19年に1度、冬至の日が11月1日、つまり新月が重なることがあり、これを「朔旦冬至」(さくたんとうじ)といいます。
朔旦冬至は月の暦が新規原点に戻る日でもあり、冬至は暦計算の起点となる日でした。

阿連の本山送り神事は、これを上弦に置き換えたもので、19年周期の月暦が狂いがないかを確認する月読の最たる神事であったとも言えます。
伊勢神宮の式年遷宮も、本来はこの19年周期で行われていたものが、切りが良いからと20年周期に改変されてしまったのだと云います。

太陽の暦は農耕に重要な暦ですが、月の暦は潮の干満に関係し、漁業や航海、出産や船での戦に重要な暦でした。
元寇の発端は、元の国がローマとの戦に備えて日本の優秀な月の暦を欲し、使者を送ったが、時の日本の為政者にこれを斬られて激怒したから、という話も聞いたことがあります。
この時、対馬が狙われたのは、たまたま航路にあったからだけではないのかもしれません。

ともあれ、さすがは亀卜の里。
阿連には豊穣を祈る、出雲的太陽信仰と、豊・越智的な月読信仰の見事な融合がありました。
厳しい自然の中で生きてきた里の人々の顔には笑顔が溢れ、人に優しく、神の恵み「誕(あ)れ」の地として、今も息づいているのでした。
