宇都母知神社/大庭神社

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神奈川県藤沢市打戻(うちもどり)に鎮座の「宇都母知神社」(うつもちじんじゃ)を訪ねてきました。

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境内の外には鐘楼、

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参道には石仏もあり、神仏習合期の名残を感じさせます。

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延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている古社で、相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされます。

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当社の創建は不詳ですが、『日本総国風土記』には、雄略天皇3年(456年?)に厳粛な祭祀が執り行われたという記録があるようです。

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祭神は「天照大御神」「稚産霊神」「若日下部命」の三柱。
若日下部命はオオサザキ朝21代・雄略大君の后ですが、天慶2年(939年)に大和国泊瀬より遷座されたと伝えられます。

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稚産霊神(わかむすびのかみ)については、イザナミがカグツチを産んで死にゆく間際の神産みで登場する神として語られます。
『古事記』では、イザナミの尿(ゆまり)から、水の神・ミヅハノメが生まれ、次にワクムスビが生まれたと記され、食物神トヨウケヒメを娘とするとあります。
『日本書紀』では第二の一書に、カグツチがハニヤマヒメを娶り、ワクムスビが生まれたとしており、ワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、臍(へそ)の中に五穀が生じたと記されます。

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これらの内容を信じるなら、稚産霊神はトヨウケヒメの母・豊玉姫ということになり、さらにカグツチとハニヤマヒメが両親であるということになります。
カグツチハニヤマヒメ、どちらも越智の気配を感じている神です。

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さらに面白いのは、稚産霊神(豊玉姫?)も穀物神としての性格を帯びていますが、『古事記』のオオゲツヒメや、『日本書紀』保食神のように、殺されて死体から穀物が生じていないということになります。

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鎮座地の「打戻」の地名もユニークですが、これは、宇都母知神社の「宇豆毛遅」(うずもち)が訛って打戻(うちもどり)になったという説があるそうです。
また、古語において「うつ」と「もち」にはどちらも「小さな盆地」という意味があり、当地の地形を「ウツモチ」と呼び、それが転化したとも伝えられます。
他にも、海老名の刀鍛冶屋、五郎正宗が鎌倉へ向かう道中この地で休憩した際に、これから納める刀の出来がよくないことを思い、「家に戻って打ち直した」ことから地名となったいう説もあるようです。

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神奈川県藤沢市稲荷に鎮座の「大庭神社」(おおばじんじゃ)にも、立ち寄ってみました。

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ちょっとわかりにくい、公園の裏手に参道入口がありました。

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こちらも『延喜式神名帳』に記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)で、論社(比定社)がもう一社、ほど近い藤沢市大庭の「熊野神社」があるそうです。
そっちは行きそびれたな。どんまい。

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登り切ったと思った先にまた階段。隙を生じぬ二段構えの石段を登ると、

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思わずため息がこぼれる、境内が広がっていました。

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こちらにも鐘楼。

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ふとみると、箒が立てかけてあったので、掃き掃きしながら参道を歩きます。

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お寺のような風格ある社殿が鎮座しています。
祭神は「神皇産靈神」を主神とし、「菅原道眞」「大庭三郎景親」を配祀します。

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江戸時代には「天神宮」「大庭大明神」「大庭天満宮」と呼称されていた記録があるそうです。

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大庭三郎景親は、神祇伯資顯王によって大庭城を拠点としていた、平安時代末期の相模国の武将です。
平家の忠実な家人で、治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破しました。
しかし、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士とともに鎌倉へ入ると、抗する術を失い、富士川の戦いで平氏が敗れたのちに降伏し、処刑されました。

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今回、宇都母知神社と大庭神社を訪れたのは、江ノ電沿線新聞社の○川社長から頂いた『藤沢のあけぼの』という書籍のコピーに、藤沢最古の神社として紹介されていたからでした。
確かに趣深い二社でした。

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この大庭神社は、2009年にNHK総合テレビの「ドラマ8」枠で放送されたテレビドラマ『ふたつのスピカ』他、たびたびロケ地として撮影が行われているようです。

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