高家神社:常世ニ降ル花 神門如月篇 12

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日本で唯一、料理の神を祀る神社が千葉にあるというので、行ってみました。

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その神社は千葉県南房総市(旧千倉町)の住宅街の奥まったところにありました。
「磐鹿六雁命」(いわかむつかりのみこと)を祭神とする「高家神社」(たかべじんじゃ)です。

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式内社で、「料理の祖神」を祀る神社として料理関係者や醤油醸造業者などから崇敬される当社ですが、近年では「彼Pを胃袋で捕食する」という肉食系女子のラブスポとしても人気があるのだとか。五条桐彦も捕食されたい。

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当社の創建の由緒は不詳とされますが、高家神社の由緒書では、磐鹿六雁命の子孫の高橋氏の一部の者が、祖神に縁のある安房国に移り住み、氏神として祖神を祀ったのではないかとしています。
一時期は衰退・廃絶し、所在も不明となっていましたが、江戸時代の初頭、元和6年(1620年)に高木吉右衛門が桜の木の下から木像と2面の鏡を発見し、それを神体として「神明社」として神社を創建。その約200年後、この鏡に「御食津神、磐鹿六雁命」と書かれていることがわかり、現在の社名に改称されました。

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なぜ、祭神の磐鹿六雁命が料理の神として崇められるようになったかというと、『日本書紀』景行大君53年10月の条、並びに延暦8年(789年)の磐鹿六雁子孫による『高橋氏文』に次のように記されていることによります。

「景行天皇が皇子・日本武尊の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に入れた所、堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると、それは白蛤(しろうむぎ/はまぐり)だった。
磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膾(なます)にして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜った」と。

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膳氏(かしわでうじ)は天皇の供御の料理、供饌の事に奉仕した一族で、『日本書紀』巻第二十九によると、天武天皇13年(684年)11月に朝臣の姓を賜り、『新撰姓氏録』左京皇別及び『高橋氏文』では天武天皇12年に氏の名を高橋氏と改めたと記されています。
そして膳氏・高橋氏は、若狭及び安房国の国造となったようです。

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B女史さん改め、「ブリュショルリ氏」(”Bruchollerie” from X)さんのブログによると、

「古代氏族系譜集成に掲載される鈴木真年氏の百家系図の資料では、出雲臣の系譜に建御狭日命の子に大滝直の名があり、その傍注に賜安房国造、負膳大伴直姓とある。時代的にも大滝直と磐鹿六雁命は合致し、負膳大伴部姓という記載も合致している。磐鹿六雁命は出雲臣の大滝直であったという事が考えらる。
一般に高橋臣は、大彦命の後裔と言いますが、出雲臣向家の富氏によると元々は出雲臣姓であったと言い、この合致を裏付けます。
下総国結城郡に高橋神社(高椅神社)があり、磐鹿六雁命を祀っています。 江戸時代までは、持田氏が世襲で神主を勤めていました。これは、伊甚神社も同様で、伊甚神社の社家は現宮司家以前は、持田家であったのです。(伊甚神社のある集落は殆どが持田姓)」

と書かれています。

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ここで「伊甚」(いじみ)の名が出てきましたが、磐鹿六雁は出雲系の大滝直と推定されるということです。
そして持田氏を通じて、磐鹿六雁命を祀る高橋神社(高椅神社)社家(安房国造)と、神門系・伊勢津彦の系列である伊甚神社の元社家(伊甚国造)は繋がるということのようです。

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しかし『丹後国風土記(残欠)』によれば、

伽佐の郡。高橋の郷(高椅・高梯)
高橋と名づけられた理由は、天香語山命が倉部山の頂上に神庫を建てた。
そこに種々の神宝を収め、長い梯子を設けて、その倉の物を出し入れした。
そのために高梯の地名ができた。
いまもなお峯の頂きに神祠があり、天蔵という。
海香語山命を祀っている。
またその山口の(虫食穴)岡に祠がある。
祖母の祠と呼ぶ。
この国に、海道姫(高照姫)命というお方がいらっしゃる。
年老いてこの地に来まして、麻をつむぎ、 蚕を養い、人民に衣をつくる方法をお教えになった。
それで、「山口に鎮座し御衣つくりを教える祖母の祠」と呼んでいる。…
…庫梯山は、倉部山の別名である。

とあります。
これは、後世の高橋という苗字の由来が、高梯子であったことを示しており、すなわち高橋氏は海部族の子孫である、と示しています。
海幸彦にも例えられる海部氏の磐鹿六雁であったから、史実はどうであったかはさておき「景行帝を海の幸でもてなした」という話ができたのではないかと思われます。

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「高橋臣は、大彦命の後裔」という話ですが、大彦は確かに出雲系の印象が強い人ではありますが、海部王朝の血もまた流れています。
これらのことを踏まえると、高橋氏の祖神・磐鹿六雁は、大彦の子孫であると考えても良いのかもしれません。
大彦は長野の地で生涯を終えましたが、息子の沼川別は東国に移住しています。
さらに鈴木真年の『百家系図』によれば、大瀧直は伊勢津彦の後裔・建御狭日命の子に位置付けられているそうで、伊甚国造同様に神門家の血もまた引いていると言えそうなのです。

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『高橋氏文』は次のように伝えています。

景行72年8月、六雁命が病に冒され、同じ月に亡くなった。時に天皇はそれを聞いて大変悲しみ、親王の式に倣って葬儀を行うよう仰せになった。
そして藤河別命(ふじかわわけのみこと)と武男心命(たけをこころのみこと)らを宣命使として遣わせた。

宣命使が言う。

「天皇のお言葉を伝える。
六雁命が思いがけなく亡くなったと聞きいて、昼夜悲しみ憂いている。私の世の間は、六雁命も健在で、いつでも会えるであろうと思っていたが、突然別れが訪れてしまった。
そこで今思えば、十一月の新嘗の会も、膳職が御膳に奉仕することになったのも皆、六雁命が苦労して始めたことである。
これをもって六雁命の御魂を膳職で斎き奉り、春秋の永き世にわたって、神財として奉仕させることにしよう。
六雁命の子孫たちを、長き世、遠き世の膳職の長官とも、上総国の長官とも、淡国(あはのくに/安房国)の長官とも定めて、他の氏の者を交えず治めさせよう。
もし膳臣らの継ぎ手がないときには、朕の王子らに継がせ、他の氏を交えず乱すまい」

そして「和加佐(わかさ/若狭)の国は六雁命の子孫等が永遠の所領とせよ遠き世の国家とせよ」と、定めてお与えになった。

「このことは、後世にも決して覆すまい。この志をわきまえて、よく膳職の内も外も守護し、宮廷に災いのなきよう努めてもらいたい」と天皇のお言葉は続き、「六雁命の御魂も聞き届けよ」と、仰せ賜ったのである。

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13件のコメント 追加

  1. 三九郎 のアバター 三九郎 より:

    歴史ではない別件で上空写真を見ていたら、たまたま『佐伎治(さきち)神社』を見つけました。式内社です。

    由緒には「磐鹿六雁が若狭国造を授けられた時には既に鎮座」と出てきますが、祭神はオオナムチ、スサノオ、イナダ姫。

    https://sakichi-jinja.com/2yuisyo.html

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      砕導大明神とは、なんでしょうね🤔

      いいね: 1人

      1. 三九郎 のアバター 三九郎 より:

        大日本地名辞書で調べてみましたが、砕導は特に深堀されていなく、謎ですね。
        ちなみに、すぐ脇の砕導山城の規模は若狭国内最大らしいです。

        いいね: 1人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          何か別の読み方とか、漢字をあててみたりできそうな気もしますが、思いつきません😅

          いいね: 1人

  2. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    そしてもう一つだけ。

    三島の高橋神社には唯一、景行天皇との関係に言及した由緒があります。

    ムツカリに関して

    第十二代景行天皇の叔父に当たり、
     その子孫は代々大膳式(宮中の食事を司る職)の長官として宮中に使えた。

    まさかの神戸家系高橋さんが居たりしてww

    いいね: 1人

  3. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    正直、九州に行くまで高橋氏の事を調べもしませんでしたが、何と日本で3番目の多さの苗字である事がわかりました。

    その割に、圧倒的神社の少なさは瞠目に当たると考えます。

    一応、クニクル系(何と家紋が三つ柏)と物部系があるそうですが。

    何と奈良のそれは物部系高橋氏ルーツらしいのです。

    更には和歌山になるとムツカリは出て来ず、持田的になります。ここは物部氏と高橋の関係のヒントになるっぽい事が出てています(名前を変えたカゴヤマが居ます)

    ttp://kamnavi.jp/mn/kinki/takahasi.htm

    しかしながら、一番の問題は、明らかに九州に高橋神が居るのに一切その情報が一般化されていない事ではないでしょうか?

    きっと弓削さんも足を使って九州回らなければ出てこない所に居る気がします

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      過去に弓削さんというお客様がいらっしゃいました。
      興梠さんも。
      弓削神社ってのもあったと思います。
      高橋さんは多すぎて、気にもとめてなかったですね😅

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  4. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    あの頃は、神門臣との話が中心でしたが、高橋的に考えると、この神社、とんでもない事が書いてありますね。

    大滝直=磐鹿六雁命  大滝の海部化は高橋化だった事に。

    母系と父系の違いで認識のずれがあるだけのような気もするし、系図は難しいですね。

    話は変わりますが持田氏って、葛木坐火雷神社の宮司家も似たような名前でしたっけ?直ぐに資料が出てこないや。

    いいね: 1人

  5. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110
    奈良時代の八上采女(八上姫)が何らかの事情で記紀の出雲神話に残された様に、伊勢津彦も同じく設定が弄られていると最近は考えています。
    木曽川から入った伊勢津彦がミナカタに変化。
    都落ちした物部氏が諏訪から出ないと言うお話に
    後の神門臣家のワニ氏が物部直として海部と同化し、物部氏に乗っ取られたと表される様になる。
    実際のミナカタは最終的に関東に行き、後年の大彦の日本海太平洋経済圏の基礎となった。
    同一視の具体例を真妄想してみました。
    最終的に何らかの形でこのエリアが諏訪祭司化しますが、これは特定の士族の現象ではなかったため、諏訪大社も複数化した。
    三島の社の様に。(これは越智化するとお家の安定に繋がる時期があった事を示すのかもしれません)

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      富先生とB氏の見解では、伊勢津彦は神門の流れなのです。そして、あり得る話としてタケミナカタが東国まで移住していたとすると、伊勢津彦がミナカタの空席に収まった可能性はあり得るかも知れませんね。
      まあこの辺りはなかなか、想像の域を越える事ができませんが。

      いいね: 1人

  6. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    この大瀧の出てくる系図の分かりやすいやつが島根県史の出雲臣系図になります。

    稲荷山鉄剣のタカヒシワケが高橋氏の先祖とありますが、よく考えたら、苗字としての高橋の利用は後年の可能性もある訳ですよね。それこそ太田タネコと同じで。

    私的には大伴部との混同の方が気になりますが、どちらも神門臣家と、その後の海部化(直)の組み合わせ。

    千葉の安房(阿波)はこれだと仮定するのであれば後年の阿波の関東進出は海部、神門臣、物部であったとすれば例の忌部系図の通りになる気がしますね

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      神門と海部、この組み合わせは結構多いように思います。😌

      いいね: 1人

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