
「そうだ、木津呂に行こう!」
木津呂(きづろ)は、三重県熊野市紀和町にある集落で、その特徴的な形状から、まるでUFOのようだと話題になりました。
当然、そのUFOを僕も見ようと現地に赴いたのですが、この景色は対岸にある山に登る必要があり、かつ、その山は現在は立入禁止になっているとのこと。
まあ、色々とやらかしたみたいですね、観光客が。
UFO集落の姿を見れないのは残念ですが、他の人が撮った写真はたくさんありますし、ドローン映像もあるので、それでいいか。

木津呂集落は北山川が屈曲してできた中ほどにあり、 突き出した半島のような形をしています。

せっかくなので集落まで行ってみるのですが、まあまあな細道。

運転には気を使いますが、所々に紀伊半島を代表する渓谷「瀞峡」(どろきょう)の絶景が垣間見え、心をときめかせます。

木津呂集落の入口近くに来たら、UFO集落は見れませんが、UFO島っぽいのは見れました。

このお息子さんみたいな部分ですね。

木津呂の地形は、約1500万年前の火山噴火などによって沈降した土地が、北山川の侵食作用を受けて形成されたと考えられています。

Wiki先生によると、2015年現在で木津呂集落に暮らす人は、お年寄りら11人とのこと。

小高く積まれた石垣が特徴的で、とてものどかです。

半島の半分は森になっていました。

木津呂集落はそこはかとない郷愁を感じさせ、どことなく穏やかさと、寂しい気持ちが込み上げてくる場所でした。
集落を散策される際は、住民の生活に、十分ご配慮ください。

帰り際、謎の階段を発見。

陽光に誘われて登ってみると、

神社がありました。

綺麗に積まれた白い石。

梵字が彫られた石碑と、

謎の小石。

この神社は天乃神社元宮(天石神社元宮)で、集落の入口にありますので、元はサイノカミ的な聖地だったのかもしれません。



「私の大好きな大丹倉をステキなブログにしてくれて、ありがとうございます😊 私が三重県の阿田和ってゆう、海側のところで、千枚田の近くの入鹿窯のおじさんに教えてもらったスポットです。入鹿八幡も気持ちいいですよ🌈色々勉強になりました🍀感謝です✨✨✨🤗」 2021年5月13日
と以前、「ちづる」さんからコメントをいただいておりましたので、三重県熊野市紀和町小栗須に鎮座の「入鹿八幡宮」(いるかはちまんぐう)にも立ち寄って来ました。

入鹿八幡宮が、というよりも、入鹿八幡宮を含む集落がとてものどかで、気持ち良い場所です。

永享4年(1432年)に、入鹿某が豊前(大分)の宇佐から勧請し、小栗須の岡原山に祀ったのが創建であるとされており、近郷では特に有名な神社なのだそうです。

ウナギノ匂イ、セシ者ヨ、熊野牛マデモ、食ラウタカ

食イシン坊メ、我ニモ旨イモノ、食ワセロ

気になるのは、この神紋。
鹿の角でしょうか。

八幡宮は元来、源氏の信仰があつく、棟札に山本義家とか、入鹿村総領一族などの文言があることから、源氏の一統山本氏が氏神である八幡宮を勧請し崇拝したのものと考えられているとのこと。
そのような折、ご先祖が1338年まで入鹿八幡宮の宮司をしていたという方からコメントをいただきました。

その方のご先祖は北畠親房に仕えていたのですが、義良親王や北畠親房の一行と共に陸奥に向かい、ご先祖が乗った船は青森の八戸へ到着されたのだと。
北畠親房は南朝の公卿で、南朝の正統性を主張する『神皇正統記』を執筆し、南朝を実質的に指導した人物として知られます。
八戸に上陸したご先祖は、そのまま和賀郡の鏑八幡宮の宮司になり江戸時代末期までそこにおられたそうです。
入鹿八幡宮には、その方のご先祖の名前が書かれた木簡もあるそうで、なぜ陸奥の地から入鹿八幡宮まで移られたのか。
それはおそらく、その方のご先祖にとって小栗須の地が大切な場所だったからだ、と思うのです。
いずれにせよ、そのように先祖の由来がしっかりと受け継がれている方が羨ましい限りです。

明治39年の一村一柱令により、いくつかの神社が当社に合祀されていますが、その中に木津呂の天石神社がありますので、先の天乃神社元宮の嫁ぎ先がこちらということなのだろうと思われます。


1338年まで先祖が入鹿八幡宮の宮司をしていました。北畠親房に仕えていたのですが、義良親王や北畠親房の一行と共に陸奥に向かうのですが、嵐のために多くの船が諦めたのですが一部の船は今の宮城県辺りと先祖が乗った船は八戸まで到着しました。そのまま和賀郡の鏑八幡宮の宮司になり江戸時代末期までそこにいました。入鹿八幡宮の管理は今から20年ほど前までは、私と同じ先祖の一族が管理していました。先祖の名前が書かれた木簡を見せていただきました。それは確か教育委員会の書籍にも書かれて残っています。入鹿八幡宮は明治天皇が整備し直すようになさって、お手植えの木も川のそばに植えられています。南朝の為に多くの地元人々が力を合わせて活動した伝承が残っていました。偶然このブログを見つけたので、思い出しながら楽しく拝見させていただきました。ありがとうございました。
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こんにちは。
コメント、ありがとうございます
北畠親房を調べてみると、後醍醐天皇の側近として吉田定房・万里小路宣房とならんで「後の三房」と謳われるほどの篤い信任を得た方だったようですね。
南朝ゆかりの地は、私も知らず知らずのうちに結構まわっておりましたが、今では南朝と聞くとひっそりと胸にたぎるものを感じます。
入鹿八幡宮は素朴な神社ながらに凛としたものがありましたが、明治天皇も気に掛けられていたということは、それだけ歴史的にも意味のある場所だったんですね。
貴重なコメントありがとうございました。
こちらの内容を、記事にも反映させていただきたいと思います😊
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いつも楽しみに拝読しております。
一つ気になったので調べてみたのですが・・・
「木津呂の地形は、約1500年前の火山噴火などによって沈降した土地が・・・」の部分、wikiにも「1500年前」と書かれているのですが、地質図を見ると周辺の火山岩は1500万年前のものしか分布していませんね。wiki(または元文献)の間違いだと思います。
ついでに、産総研の地質図によると、木津呂集落の北側くびれのあたりに断層があり、断層を境して南北で地質が大きく変わっています。
https://gbank.gsj.jp/seamless/v2/viewer/?center=33.8869%2C135.8878&z=13&subtype=lfs
まあ、「1500年前の火山活動」なら、神話・伝承に大きく影響を与えているでしょうねぇ・・・
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なるほど、確かにそうですね。
Wiki先生からコピペしたと思うので、そのまま間違ってしまってますね。訂正させていただきます😊
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