
県道37号桜井吉野線から、「鹿路」(ろくろ)地区へ少し入ったところに、変わった石があるというので立ち寄ってみました。

あ! やせいの イシツブテが あらわれた!

やせいのイシツブテは「ろくろかめ石」さんという方で、横から見ると頭もありました。

人の手の加わらない自然石だということですが、”ちちさま”同様、神様は時々、おもろいものをこさえます。

ろくろかめ石さんは、おケツのアングルが、可愛い。

ろくろかめ石さんの近くに、「天一神社」(てんいちじんじゃ)の案内があったので、行ってみました。
細い山道を走ります。

味わいのある手水。

なんか龍神さんっぽい人がいるなと思ったら、

いわゆる、はちまき石の石英部分でした。

シックな拝殿の中は、

最新の設備。

ということで境内に足を踏み込むと、

おお、

すごい!

本殿はなく、玉垣の中に、杉の木一本が祀られています。

天一神社の創祀年代は不詳。祭神は「天目一箇神」(あめのまひとのかみ)とされています。

地名の鹿路(ろくろ)は、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を制作していた「木地師」(きじし)がここを拠点としていた時期があったことの名残のようです。
木地師は、惟喬親王の家来「太政大臣小椋秀実」の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証する「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だったと云います。
もっとも、この「朱雀天皇の綸旨」は偽作であったようですが、木地師が定住する場合に有利に働いたとのことです。

木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていたと伝えられます。
中には移動生活をやめ、集落を作り焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる者もおり、そうした集落は移動する木地師達の拠点となったようです。

当地もそうした集落のひとつでしょうか。現在は、わずか10世帯ほどしか、暮らしていないということです。

木地師の里ゆえに、杉が御神体なのは理解できますが、何故そこに天目一箇神たる製鉄神を充てたのか。
当地に定住した木地師に、製鉄へと転向した者がいたのか、また製鉄を行う別の一族がいたのか。

地元の方がいらっしゃったので、少しお話を伺いましたが、ここに製鉄神が祀られていることには、少々疑問を持っておられるようでした。

また、天一神社では毎年綱掛神事が行われているそうで、これがそうかは分かりませんが、夫婦杉に掛けられた綱は、どこか出雲の藁蛇を彷彿とさせたのでした。
