
ちょうどいい具合に休暇が取れたので、諸手船神事を観に行くことにした今回の旅。
今年最後ということもあり、どうせなら美保関に宿をとることに。
宿を検索してみると、とてもロマンティックな宿があったので、迷わず決定。
その宿、『文化財の館 美保館』はとても素敵なところでした。


サイトの写真を見ていると、とてもワクワクが止まりません。
車にナビゲートしてもらい、無事、美保館に到着しました!

って、あれ?
あまりロマンティックではありません。
いやいやこちらは新館でした。

ロマンティックな本館は、隣にあります。


午前中のうちに美保関に到着したのですが、祭りということもあって車は一杯です。
美保館の若女将さんにお願いしたら、快く車を停めさせてくださいました。
祭りまではまだ少し時間がありますので、美保の小さな港町を散策します。

まず訪れたのが、美保館の裏手にある「市恵美須社」。
この小さな社こそが、ミホススミ姫が、亡き父コトシロヌシを祀った聖地。
美保神社、ひいては総エビス社の発祥の社といえます。

地元のおばさんが、知ってか知らずか、「ここはお祈りしといたら、いいことあるよ」と話しかけてくれました。

そして石畳の道を北に歩いて行くと、

そこにあるのが「龍海山 佛谷寺」(りゅうかいさん ぶっこくじ)。

当院は、室町時代に隠岐へ流される「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」も立ち寄ったとされています。

佛谷寺がある当地は、弥陀が谷と呼ばれ、創建は1200年前。

寺伝では美保の由来を、かつてこの一帯で海を荒らした3つの妖しい炎を「三火」(みほ)と呼んだ事に因ると云い、

かの行基がその三火を封じるため、仏像を彫って納めたのがこの寺の始まりと伝えています。

宝物殿には5体の重要文化財指定の仏像があり、

境内には、八百屋お七の恋人、小姓の吉三の墓が安置されていました。



美保関は、古くから海上交通の要所、風待ちの港として栄えてきました。
古くから、たたら製鉄による鉄の輸出港として繁栄し、足利時代には将軍の直轄領にまでなったといいます。
源平合戦の折、源氏軍の東の大将、「松田十郎藤原貞秀」が美保関に落ち、定住したのが美保館のルーツなのだそうです。

室町時代~江戸時代~明治時代と、日鮮貿易や北前船交易の時代に、廻船問屋、船宿として栄えた「北國屋・和泉屋」、それが美保館の前身です。

明治後期に海運の衰退を予期した当主が、美保関で初めての本格旅館として「美保館」を開業し、現在に至ります。
当時から数多くの文人墨客が訪れ、島崎藤村の紀行「山陰土産」にも美保館の名が記されました。



さて、祭りが終わったので、その足で美保館に入りました。
新館は、決して新しい感じでもなく、かといってすっごく古い、という感じでもない宿です。

しかし館内、そして宿泊する部屋はとても清潔で居心地が良いです。

館内からの展望も素晴らしく、山側は美保神社社殿の双子の屋根も見ることができます。

また海側のロケーションは格別で、中国地方最高峰の大山を望むことができます。

最上階には展望風呂もあり、更に美保の海を広く眺めることができます。
屋上には別料金になりますが、貸切の露天風呂もあるそうです。



さて、部屋でまったりしていると、お待ちかねの夕食がやってきました。
女将さん直々のご配膳です。
話をすると、女将さんの娘さん、たぶん若女将ですが、僕と同じ年のようです。
とすると女将は僕の母と同じくらいの年齢なのでしょう。
いやはや今の女性はなんと若々しいことか。

美保関に来たら、やっぱり旨い海の幸を堪能しない手はありません。
スタンダードなコースにしましたが、ちょっと料理が少なめに感じるかもしれません。
でもいやいや、最後の雑炊までいただく頃には、腹がはち切れんばかりにパンパンになっていました。

冬の島根といえばカニ。
紅ズワイの刺身は甘く、トロッと溶けるようです。
最初は醤油でいただきましたが、あとは何も付けずに、素材の甘さだけで十分美味しくいただきました。

松葉ガニはしゃぶしゃぶでいただきます。
身もたっぷり入った出汁でいただくしゃぶしゃぶは、これもまた磯の甘い風味が最高です。
で、この出汁でいただく雑炊が、旨くないはずはないのです。
おひつにたっぷり入ったご飯を、これでもかというくらいにぶち込んで作った雑炊は、いくらでもお腹に入っていき、後から苦しむ結果となりました。


あれだけたらふくいただいた夕食でしたが、朝になればお腹はすっきりしています。
美保関は素敵な町なので、早朝の散歩も楽しみたいところ。
なぜか中国語っぽい提灯が下がった青石畳通りを歩いてみます。

青石畳通りは江戸時代から大正時代にかけて敷かれた石畳の通りで、雨に濡れると青く光ることから、その名で呼ばれています。

北前船が入津していたころは、廻船問屋、旅籠、土産物屋が軒を連ねており、物資を運ぶ為の舗装として石が敷かれたのだそうです。
現在は、旧家が軒を連ね、そのルーツを記した屋号由来版が軒下に設置されています。



日中は人の多い美保神社ですが、早朝は静けさに包まれ、いっそう神々しいものです。

富王家が伝えるところでは、悲しい歴史があった場所ではありますが、

その悲しみを乗り越え、

さらには王国を滅した物部家とも怨讐を乗り越え、

全ての民族との和合を記念して建てられたのが美保神社。

この圧倒的開放感の拝殿が全ての人を受け入れるように、

そして二つの本殿がまるで手を取り合うように造られた、世界的にも真に稀有な神社なのです。

帰り際に見える港の景色の先には、今も釣りを楽しむコトシロヌシの姿が目に浮かぶようです。



さてさて、朝7寺半、美保館のもう一つのお楽しみ、朝食の時間がやってきました。

朝食は、そう、文化財指定の本館でいただけるのです。
カメラ必須です。

海側から本館の間を通る細い回廊を抜け、青石畳通りに出ます。

本館正面は青石畳通りに面しているのです。

中に入ってびっくり。
吹き抜けになっていました。

朝食会場は2階です。

そこから1階を見たら、ちょっとした裏町のよう。
千と千尋のようですね。

朝食もゴージャス。
おかゆと普通のご飯と用意してありました。
もちろんどちらもいただきます。

食後は館内を散策できます。

美保館本館は、明治38年(1905年)に着工、同41年(1908年)に竣工し、2004年には国の登録有形文化財に登録されました。

建具や電灯などは当時のものを使用しており、懐かしい黒電話も使用しているのだそうです。

宴席や、結婚披露宴、各種イベントの会場にも利用できるそうです。

朝食後はセルフで、好きな席でコーヒーをいただけるサービスまで付いています。
こんな素敵な宿ですが、お値段はもちろん低価格ではありませんが、十分過ぎるくらい良心的だと思いました。
文化財の館 美保館さんのサイトはこちらです。



さて、美保館さんでは美保神社の「朝御饌祭」(あさみけさい)を勧められました。

美保神社では毎朝8:30から、朝の神事を執り行っています。

定刻に、宮司さん二人と巫女さん二人が拝殿に入場されます。

そこで4人による合唱のような、輪唱のような、祝詞奏上が始まりました。
このような、響く祝詞奏上は、他ではあまり聞いたことがありません。

これは鳴り物好きとして知られるコトシロヌシも大喜びでしょう。
独特の、神秘的な時間が過ぎていきます。

そして、そう、うら若き巫女の舞が始まります。

巫女が舞う、というだけで、それはもう尊いのです。

朝からほっこりとした気分になり、美保関を後にしました。

TOMI KANEKO様。
一一日常的にお気づきになったとき、それは護られている意味もありますから素直に導かれるままに過ごされるのが何よりと思います。一
↑このお言葉に正直安堵しました。運転中によくあることなので気になっていました。
まさか、地味〜な地元では全く知られていないあの場所のことで情報を共有できるとは思いませんでした。関東と出雲(伯耆も出雲ですもんね)との繋がりを感じさせる出来事と思えてなりません。ありがとうございました。
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(追記)
博労町遺跡出土のX型勾玉は、翡翠製かと思っていましたが、(そうならばもっと騒がれますね(^_^;))、恐らく滑石、タルク製?でした。縄文時代後期か?あるいは3世紀後半のものともいわれており、関東の古墳から出土される、立花というX字を型どった装飾品と類似性があり、この当時の弓ヶ浜半島〜博労町付近の集落に住む豪族が、関東となんらかの交流があったのでは?と言われてます。
X型、というのが。。富家口伝愛読者からすると気になりますよねえ。
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X型!
( ゚д゚ ) ガタッ
.r ヾ
__|_| / ̄ ̄ ̄/_
\/ /
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横から失礼いたします。異型勾玉、もうかなり前のことですが、東京大学の考古学専門の方々と我が一族が保管している異型勾玉との関係性やどの地域との類似性を検証しようということになり、2008年に米子に伺いました。科学的確証は出ませんでしたが、何もないとは言えない恐ろしいほどの特殊性でした。
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TOMI KANEKO様、コメントありがとうございます。こちらに調査にこられたとは、なんともコアな。正直驚きました。ご一族が保管されているお宝となにやら類似性がありそうですね。
以前、東京のなにやら偉い学者さんが、この異型X型勾玉について論文を書いておられることを十年前くらいに知りました。その学者さんにとっては、ものすごい発見だそうで興奮されたそうなのですが。。地元では誰〜も知りません(^_^;)
私は出土された真上に建てられた建物でこの3月まで勤務していました。
ちょっと怖いお話を失礼ながらさせて頂くと。。。13年間で職員が65歳未満、50代で亡くなられたのが、10人近くもおられるのです。ちょっとおかしい、と建築専門の職員が、実は建て替えたときに、地鎮祭をしていないと。。そしてそれを気にやんでおられた当人さまも、65歳にならないうちにお亡くなりになりました。
建て替えしたときに、出土品や竪穴式住居やら古代祭祀場っぽいものが次々とでてきたので、工事中断となり、職員朝礼で、X型勾玉を見たい人は見れますので申し出てくださいとの通達があり、希望者は1人のみ。その方に色々聞きました。そして事務長さんに聞いたら、やはり地鎮祭をしていないと。
ありえないですよね、いまどき。地鎮祭してないなんて。。。。ちょっとおどろおどろしい小話でしたが、外交の保険員さんも、なんでこんなに多いのかな??と言っておられまして。地鎮祭してないことは関係しないかもしれませんが。。
こういう場所はするべきだと思います。古代の祭祀と関係するような神聖な場所であるならばよけいに。長文失礼いたしました。
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出芽のSUETSUGUさま ご丁寧なお話ありがとうございます。まさに東京の学者さん…と訪問しておりますので大変身近なお話です。ピンポイント名はどうかとも思いましたが、某高校さんにも伺いました。2007年から8年までの遺跡発掘詳細資料も公開されており、日本もこの分野随分開放されてきて嬉しいです。https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13769 第二次発掘が近年あったとのご連絡も戴いております。
地鎮ですか…これを書くとお話長くなりそうなので簡潔にいたしますが、私共一家は明治に神社を持たなくなってからも全国の影の祭祀役として、現在も各地で鎮めのご依頼を戴いております。
決してオカルト都市伝説ではなく全国各地で多々同様の事例があり、全く実施しない場合だけでなく、形骸的な地鎮祭では全く鎮まっていない場所も多々、意外と近年のほうがイケイケ開発だった高度成長期頃よりきちんと本質を分析しての祭祀は増えてきているようです。地域の神社さんやお寺さんと協力し合っての「神々や古の方々の想いまで感じ取り」的確な鎮めの儀は必要と思っております。
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残念なのは2008年に伺った際に個人的にでも多少なり鎮めの祈りが出来ていたら…と
その頃はあくまで出土品絡みのお話だけでゆっくり土地を拝見することは出来ず…
近年は別件での出張でも必ず気になった場所では出来る限りの事はするようにと心がけております。
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TOMI KANEKO様 こちらこそ経緯を丁寧に教えて頂き大変ありがとうございました。え〜、まさにそこに2011年からおりました。(そういえばその前は福市遺跡の近くで勤務ですね。。)
2008年に私も是非とも立ち合っていたかったなあと思いました。令和2年の第二次調査のときは、まさにそこにいたのですがその話題は全くと言っていいほど職員間で共有されておりませんでした。私も今のように古代史に沼っていませんでしたし。。。
実際に勾玉を見たのは職員1人のみ、あの頃のことを覚えておられ、福市にある資料感まで見に行かれたのは2人のみでした。
私はそのお二方とは、仕事でよく関わり話しをしていましたが、特にお亡くなりになった方は事あるごとに、地鎮祭してないんだよねここは、と気にかけておられました。隣の小学校はしておられます。当時の管理職があまりそういうことを気にかけておられなかったのでしょう。。政教分離ということで、予算の出どころがなかったということもあるかもしれません。。
実はこれまた変な話で恐縮なんですが、ここはヤバい。。というゾワゾワは、割と本能的に感じてしまうほうです。例えば命主社の裏の真名井遺跡、京都の霊山観音、この2カ所は、足が膝からガクガクしてうずくまるほどでした。ごめんなさい、ごめんなさいと気づいたら蹲って謝っていました。雷が突然近くで鳴ってありえないくらいの大雨に局所的に降られて、私は来てはいけなかったんだなあと思いました。
あとは、気になる場所。運転中でも歩いてても、ふと気になって目をやった先が大抵、墓地や荒れた祠。これは小さい頃からです。あまり嬉しくない特性です。私だけではなく割と皆さんそうなのでしょうか。
どうしても気になる場所がいくつか。9号線沿い、米子から安来に向かう方面、アラエッサという道の駅を過ぎてしばらくしたら左手になんかいつも視線を合わせてしまう巨石と、不思議な石碑があるのです。字が書いてあって佛浄。。なんとかとありました。何かが昔はあった場所でしょう。あとは、南部町の赤猪岩神社の元宮、要害山の頂上にある真っ二つに割れた鳥居。あれはいけません。本来はあそここそが本来の場所だとハッキリ感じます。あそこは絶対に鎮めなければならない場所だと思います。赤猪岩神社ではなく、本当はあの山の頂上があの神話の元の場所なのではないかと。私には鎮めの儀の術がありません。。
ついつい長くなってしまい申し訳ありません。こんな私ですが、つい最近まで勤務してた例のそこ(すみません、身バレがアレでして。。)ですが、心地よくて心地よくて。どうも何かに守られている気がしてならなかったのです。とにかくあそこには幸せな思い出しかありせん。
なのでとても残念です、地鎮祭してないのが。。職場ではこの手の話は極々身内だけでしていました。
私に権限さえあれば、TOMI KANEKO様に鎮めの祈りを依頼させて頂きたいくらいです(T_T) 脈絡もないことを、長々書いてしまって申し訳ありません。TOMI KANEKO様の鎮めの儀、とても感銘を受けました。色々教えてくださりありがとうございました。
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おはようございます。ありがとうございます。公的な機関さんからのご依頼も何度も経験していますが、予算獲得は大変みたいです。今の本業も議会承認が必要な案件で4-5月が勝負です😅 日常的にお気づきになったとき、それは護られている意味もありますから素直に導かれるままに過ごされるのが何よりと思います。京都の方は未訪問ですが、真名井遺跡は巨石の跡地・磐座ともに重要な場として参らせていただきました。感じるもの多いところ… 子持ち勾玉も異型勾玉も伝承されてきている一族としても今世紀に一気に表に出され、「そろそろきちんとせい!」と言っている当時の方々の深い思いを感じております。
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今晩は。この4月にこちらの近くに異動になりました。3月までは、全国でも初出土となる背中合わせ翡翠が発掘された古代祭祀場だった博労町遺跡の上に建つ場所で勤務し、今は港に誘われるかのように。。境港へ。近くに諏訪神社あります。美保神社やそしてうちのルーツの島根半島へ続く入り口らへんとも言えます。大山の麓、尾高の大神山神社らへんから、ここ港へ車走らせて毎日出勤です。
大山に坐しますクナト大神や八千矛さんが、事代主こと八重波津身さまのところへ誘ってるんだわと言い聞かせ。。。頑張るのよ私、頑張るんだ私!
ええ、ええ。そうなんです、こうでも思わないとですね、相当辛かったのです(T_T)(T_T)(T_T)ここんとこ。
13年も長く同じとこに勤めてたらあれですね、転勤したら文化も違えば人も違う。通勤距離も長くなり。。初めは馴染むのに身も心も疲れてました。。
が、ここにきて一昨日、
カニもらったあ〜魚のグレもらったあ〜缶詰も〜若鳥丸乗せてもらったあ〜
と、一昨日から元気出てきましたですよ。境港の人々はよい人あるよ。海の船員さんたちも大盤振る舞いあるよ。
そして久々に五条先生のブログを拝見しましたらですね。。
美保神社
うふふ。元気頂きました。
ありがとうございました。ボチボチ頑張ります。ちょい愚痴書いてすみませんでしたm(_ _)m
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境港、美保関にご縁ができて、羨ましい😊
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異動を進行と書いてるあたり。。なんかヤバい感じに疲れてます(笑)
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