
OSAMARUさんの情報を元に、神奈川県伊勢原市の「高森神社」(たかもりじんじゃ)を訪ねて来ました。
(今回の情報源はOSAMARU様からのものでしたが、三九郎さんからいただいたものと勘違いしておりました。お二人に深くお詫びいたします)

高森神社は明治初年までは「高部屋神社」とも称されており、棟木や鳥居脇の石碑に高部屋神社と書いてあることから、延喜式内社の「高部屋神社」に比定されているとのことです。

現在の社名は、明治初年の神仏分離令のおりに改称されたと伝えられています。
当社サイトの由緒によれば、加茂族ゆかりの古い地名に、高天、高丘、高宮、高市など「高」の字のつく所が多く目立つところから、祭神にちなみ当地を「高森」と名づけたものと考えられているそうです。

僕は個人的に、熊本の高森に由来する名前かと思っていましたが、違ったようです。
ちょっぴり残念、どんまい。

小高い丘を登ると、社殿が鎮座していました。



高森神社の祭神は「味須岐高彦根命」(あじすきたかひこねのみこと)。
創建は不詳で、中世から近世にかけての由緒も不詳とあります。

サイトには、「味須岐高彦根命は瑞穂の国と言われる日本に稲作文化を広めた加茂族の首長でありました。大国主命の長子として生まれ、天照大御神が大国主命に国土を謙譲するようにと天稚彦を遣わしたとき、和合を持って平和に徹した神であり大和の葛城に鎮座された」とありますが、富家に伝わるところでは、アジスキタカヒコの子「タギツ彦」が出雲から葛城に移住し、そこで父神を祀ったとあります。
タギツ彦が葛城に移住してきたのは、クシヒカタが先に葛城開拓を成した後ではありますが、父親を生前に神として祀るとは考え難いので、9代目スクナヒコに就任していたであろうアジスキタカヒコは、割と早い段階で亡くなられていたのではないか、と思われます。

アジスキタカヒコに関しては謎が多く、土佐に移住したという説もあります。
しかし、スクナヒコに就任した後に、副王が出雲から離れるということも考え難いのです。

何にせよ、当地伊勢原には、出雲西王家ゆかりの一族が移住してきたという事にはなろうかと思われます。
ただし、それが加茂一族であったかどうかは定かではない、と言ったところでしょうか。

言い伝えによると、高梨家の先祖が戦国時代の末期に社殿を改築、後にそれが焼失したため、享保元年(1716年)に社殿が建てられたとされます。
平成21年2月3日には、不審火にて社殿並び末社八坂神社が全焼、平成23年の社殿再建の際に合祀されました。
この八坂神社祭神は、スガノヤイミミか徐福であると思われますが、徐福であるなら、当地に移住してきたのは加茂族ではなく、神門家(郷戸家)と姻戚関係を結んだ海部族という路線も見えてきます。

狭い境内に建つ立派な鐘楼は、当初は元禄9年に鋳造されたものだったそうですが、昭和16年の大東亜戦争のため供出、以来ふたたび、この社に戻らなかったため、昭和53年に復元されたとのことです。
『たんぽぽろぐ』さんは、この元禄9年鋳造の鐘楼と『新編相模国風土記稿』にある記載内容から、当社が主張する「七社権現社」ではなく、北高森の鎮守であったという「八幡宮」だったのではないか、と面白い考察をされていました。

また、OSAMARUさんは、大元出版「サルタ彦大神と竜」(谷戸貞彦著)に記される、大山祗大神(久那斗大神)を祀る「大山阿夫利神社」への出雲族の関わりがどうだったか、という興味を示されていました。
比較的近い場所の神奈川県秦野市には、サイノカミの石像が100基以上あり、クナトノ大神の角柱塔、自然石も点在しているとのことです。

narisawa110
最近お知らせしようと思っていたことの一つに阿夫利神社があります。
山梨県身延町に、久那土という地名があり、駅の名前になっていますが、そこにも阿夫利神社があります。
表立ってクナト神を祀る神社は現在残されてはいない様ですが。
あと高部屋となると高部、高家→高橋もあるなーと思いました。
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”身延線各駅停車の旅”の途中で行ったことがあります。クナト神を主祭神にしている神社が見当たらず、また身延エリアは後年徹底的に仏教の聖地となった経緯からか、それ以前の信仰がわかりにくいです。富士が近いので浅間、意外と諏訪がありますね。今建っている神社の社殿が寺的な感じがあるのは習合なのか、単に宮大工でなく寺大工がこの地に多いのか😅
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神奈川のこの辺りは、出雲色がかなり濃いですよね。
彼らが定住した理由も気になります。
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大山阿夫利神社の関連で言うと、中世の修験道によってなのか理由は分かりませんが、南伊豆町妻良にある高根神社でも祀られていたらしいです。
「らしい」というのは、今年の春に確認しに行ったんですが、だいぶ荒れていて御札の文字が確認できませんでした。
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神社探訪・狛犬見聞録さんの、高根神社のページです。
http://www.komainu.org/sizuoka/kamogun/takane_mera/takane_mera.html
リンク貼っていなかったです、失礼しました。
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ありがとうございます😊
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OSAMARUです。
高森神社の投稿ありがとうございます。勘違いについてはお気になさらずに。
祭神「味須岐高彦根命」について高森神社の由緒の記載ではモヤモヤ感/唐突感がありましたが、五条さんが「タギツ彦」の名前を出していただいたので、ピンときました。
冨塚八幡宮の記事で「タギツ彦」と伊勢津彦の関係(伝承の日本史によると同一人物か)についてコメントさせていただきましたが、伊勢津彦の三世孫の弟武彦命が相武国造に任じられたことを考えると関東に進出したタギツ彦の末裔(神門臣/郷戸家の末裔)と関係者が相武国に多く住み着き、どの時代かわからないけれど、この伊勢原の高森神社周辺に住み着いて、タギツ彦の父の「味須岐高彦根命」を祖神として祀ったというのは充分に考えられると思いました。
秦野市のサイノカミの石像(地元では道祖神と呼んでしまっている)についての情報補足します。秦野市内には300基以上あり多いところですが、その中にクナトノ大神の文字が書かれた角柱塔/自然石が3箇所、岐神と書かれたものが3箇所あります。
「秦野の道祖神・庚申塔・地神塔」秦野市立南公民館/道祖神調査会編/秦野市教育委員会刊によると「こうした神名は庶民レベルの発想とは考え難く、国学者や宗教者の関与によったものであろう。とくに明治以降の「「久奈斗大神」「久那斗神」「岐神」 などは、古事記や日本書紀等からとられた神名で、神仏分離政策、神道国家化政策の影響を受けているのは確かである。」と書かれているけれど、もともと信仰がなければ作らなったののではないかとか、漢字も「久奈斗大神」「久那斗大神」と微妙に異なっていて、学者の関与というのも少し違和感あったりします(学者の関与なら同じ漢字になるのでは?)。これらのあるところからは、大山(大山祇大神/クナトノ大神?を祀っている大山阿夫利神社が鎮座)が望めます。
・秦野のクナトノ大神、岐神と書かれたサイノカミの石像
(以下作製年は同著の情報です。)
「久奈斗大神」自然石、明治16年(神奈川県秦野市寺山495)
「久那斗神」 角柱塔、大正6年 (神奈川県秦野市平沢1223 御嶽神社境内)
「久那斗大神」自然石、大正14年(神奈川県秦野市平沢1715)
「岐神」 3基 各角柱型明治26年、自然石明治24年、兜巾型明治16年
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大山阿夫利神社と大山は行ってみたいんですよね。
OSAMARUさん、いつも情報ありがとうございます😊
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蝦夷討伐、といいながら、じっさいは東国は仲良く、うまくやっていたのではないかと思っています。
そうであったら良いな、という願望かもしれませんが😌
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