
「八幡さまを祀っている神社でありますが、応神天皇に加えて富属彦命が祀られています。近くに富属彦命の墓と伝えられている富塚古墳があります」

と、以前、OSAMARUさんに教えていただいていた、横浜市戸塚区に鎮座の「富塚八幡宮」(とみつかはちまんぐう)を訪ねてきました。

由緒によれば「前九年役平定のための源頼義、義家父子が奥州下向の途次、当地に露営し、夢に応神天皇及び富属彦命の信託を蒙り、その加護によって戦功を収めたので、延久4年(1072年)富塚山中腹に社殿を営み両祭神を勧請したものである」とあります。

その後、鎌倉権五郎景政の家臣である戸塚修六郎友晴が当社を崇敬し、応徳3年(1086年)に社殿を再建したということです。

細く急な階段を登ります。

富塚八幡宮の祭神は、八幡神として「誉田別命」を祀る他、「富属彦命」(とつぎひこのみこと)の名が伝えられます。

富属彦命は相模国造弟武彦の二世の孫と云われ、境内裏山に富属彦命の墓と伝えられる古墳があり、これを「富塚」(トミツカ)と呼んだことが「戸塚」の由来とされています。

また、平安時代には、戸塚(富塚)一族がこの地に住んでいたとされ、当社を全国の戸塚姓・富塚姓の祖霊神としています。

戸塚というと、先生と初めてお会いしたのが戸塚駅で、僕の人生で一番幸せな時だったと、今でも思い返されます。
OSAMARUさんも、「『出雲と蘇我王国』斎木雲州著などによると相模国造弟武彦は出雲王家の末裔とされていて、その二世の孫が富属彦命となると、東出雲王家(富家)の末裔なのでしょうか? 富属彦命は、当時富姓を名乗ることができたんですね」とコメントをされていました。

僕も以前なら、戸塚は富家の末裔の国だった、と即答したことでしょう。
しかし富属彦の2世祖という相模国造・弟武彦が気になります。

『先代旧事本紀』によると、弟武彦は、成務天皇の時に相模国造に任命された武蔵国造の祖・伊勢都彦命の3世孫にあたるとされています。
そう、伊勢都彦は、西王家・神門家のサワケに繋がる人物なのです。

ということは、弟武彦、あるいは伊勢都彦も、本来は富家と神門家のハイブリット、ということになるのかもしれません。



それにしても、八幡宮とはいえ、なんと稲荷色の強い境内社群なのでしょう。

せっかくなので、裏手の富塚古墳も失礼させていただきました。

そして、しばし歩いて見つけた社も、稲荷社だったのでした。

OSAMARUです。
川勾神社の記事で「冨属彦は、伊勢津彦の末裔らしいですね。伊勢津彦は、どうやら神門家の血筋のようです。」というコメントをいただいて、また、この冨塚八幡宮を書いていただき、伝承の日本史、先代旧事本紀、冨塚八幡宮の由緒がつながり、その裏付けもできて、モヤモヤあったものがこれですっきりしてきました。少し調べてみたのですが、伝承の日本史「お伽話とモデル-変貌する史話-」斎木雲州先生著からすると、伊勢津彦=多岐都彦なのかなと思います。「お伽話とモデル-変貌する史話-」の中で、伊勢津彦=多岐都彦の末裔の「神門臣家のこの集団は、関東地方各地で大豪族となり、国造になったと伝えられる。」とも書いていただいていて、その中の一人が弟武彦命なのでしょうね。伊勢津彦は神門臣/郷戸家だとして、弟武彦命や富属彦命は神門臣/郷戸家と富家のハイブリットというはありえますね。
五条さんに質問したことにより由緒がはっきりした冨塚八幡宮/冨塚古墳をこれからもお参りしていこうと思います。ありがとうございました。
富属彦命につながる系図はこんな感じでしょうか。
・・・佐和気-八千矛-味鋤高彦-塩治彦-速瓮之健沢谷地乃身・・・
|-多岐都彦(多岐志耳/伊勢津彦)(*1)・・・弟武彦命(*2)・・・富属彦命(*3)
(*1)多岐都彦: 味鋤高彦の子(塩治彦の弟)
(*2)弟武彦命: 多岐都彦(多岐志耳/伊勢津彦)の三世孫、相武国造
(*3)富属彦命: 弟武彦の二世の孫、冨塚八幡宮祭神
以下参照した原文です。
■伝承の日本史
◆「出雲と大和のあけぼの丹後風土記の世界」斎木雲州著 第2章
「風土記の楯縫の郡に、アジスキタカ彦の家族の記事がある。すなわち后のアメノミカジ姫は <中略> タキツ(多伎都)彦をお産みになった。」
◆「出雲王国とヤマト政権」富士林雅樹著 第8章
「出雲の神門臣家には、アジスキタカ彦の息子に、兄・塩治彦と弟・多岐都彦がいた。塩治彦の家系は、王家として出雲に残ったが、多岐都彦は親族や家来を連れて、クシヒタカを頼ってカツラギに移住した。」
◆「お伽話とモデル-変貌する史話-」斎木雲州著
・第二話 サルタ彦とウズメノ命
「●出雲系のイセツ彦 <中略> 神門臣家のタギシミミ(多岐志耳・、アジスキタカ彦の子)が伊勢国に移住し、かれは伊勢国の大豪族となり、伊勢津彦と呼ばれた。」
・第三話 下照姫と天若彦
「『出雲国風土記』の盾縫郡に、多岐都彦の名があるが、多岐志耳と同じ人と言う。初め伊勢に行って、その地に勢力を広め、伊勢津彦と呼ばれたと言う。その後に大和の畝傍山に移ったと考えられる。タギシミミの子孫は父の死後、追われて北に移った。<中略>天ノ若彦の喪屋が美濃国の藍見に造られたと書かれているのは、タギシミミの子と妻がそちらに移住したことを示しているらしい。その後、神門臣家のこの集団は、関東地方各地で大豪族となり、国造になったと伝えられる。」
■先代旧事本紀
・国造本紀 相武国造(さがむのくにのみやつこ)
「成務朝に、武刺国造の祖・伊勢都彦命の三世孫の弟武彦命《おとたけひこのみこと》を国造に定められた。」
■冨塚八幡宮 由緒
・境内掲示
「祭神は八幡大神と富属彦命。富属彦命は相模国造の弟武彦命の子孫で、その墳墓が山頂にある。」
・神奈川県神社誌(神奈川県神社庁編) 冨塚八幡宮の由緒
「富属彦命は相模国造弟武彦の二世の孫で、境内山頂の古墳がその墓と伝え、これを富塚(トミツカ)と称し、やがて「トツカ」となったのが、「戸塚」の地名の起りと伝える。」
■コメント
伝承の日本史の日本史と先代旧事本紀、冨塚八幡宮由緒を読んで、富属彦命は、この通り神門臣家/郷戸家の末裔なのか?という一方で姓が富なので富家なのかと、もやもやしていましたが、これですっきりししました。
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OSAMARU様
お話をいただいてから、随分時間がかかってしまいました。高森神社の記事では、いただいた情報を三九郎さんと勘違いしてしまい、大変失礼も致しました。
仕事と旅が重なって、少々疲れているのかもしれません。
さて、「お伽話とモデル」は、僕は手に入れられていないので、タギツ彦=伊勢津彦というのは新鮮でした。
果たして、タギツ彦が伊勢国に行っただろうか?という疑問はありますが、他の点ではいろいろと辻褄が合いそうです。タギツ彦の何代か後が伊勢津彦という可能性もあるかもしれませんね。
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OSAMARUです。
勘違いは、それだけたくさんの情報を収集、提供いただいている証かなと思います。気にしないでください。
ずれはあるかもしれないけど、多岐都彦の末裔が関東に進出したという情報は、その後、南関東の各国造に出雲系が任じられたことや神社の由緒などに伝わっている情報と辻褄合ってくるように思えます。「お伽話とモデル」は、私も購入はできていなくて、図書館で借りて読んでいます。この後に出版された他の本に書いていない気になる情報もさりげなく書いてあったりします。
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「お伽話とモデル」、九州では熊本県立図書館にあるようです。。遠いなぁ。
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🐥美しい神社ですな。しかし狛犬が魔物のような風貌なのが気になりますな…🐤
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それはコマりましたな🐶
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🐥コマ‼️お手‼️
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ワンっ🐶
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