一之森神社/八王子神社

投稿日:

4220639-2025-05-10-14-25.jpg

島根県隠岐郡隠岐の島町の中村地区に「一之森神社」(いちのもりじんじゃ)があります。

4220640-2025-05-10-14-25.jpg

当社は、明治5年(1872年)より以前に創建した神社、とだけあり、やはり由緒らしきものがほぼ見当たりません。

4220642-2025-05-10-14-25.jpg

祭神は「天児屋根命」で、「月夜見尊」「応神天皇」「大山咋命」「蛭子命」「櫛御気奴野命」を配祀しています。

4220644-2025-05-10-14-25.jpg

しかしながら一之森神社は、当社に安置されている「月天子」(がってんし)の方が有名のようです。

4220645-2025-05-10-14-25.jpg

当地では、玉若酢命神社の「御霊会風流」と水若酢神社の「祭礼風流」とともに、隠岐三大祭の一つである「隠岐武良祭風流」(おきむらまつりふりゅう)が、今も行われているとのことです。

4220647-2025-05-10-14-25.jpg

隠岐武良祭風流は、隠岐の島町の元屋、中村、西村、湊の各地区が参加して行われる大祭で、祭りに参加する地区が『和名抄』に載る武良郷(むらのごう)であることからその名がついています。

4220669-2025-05-10-14-25.jpg

これは、元屋の八王子神社に安置されている「日天子」(にってんし/日神)と、中村の一之森神社の「月天子」(月神)の出会いの神事を中心とする行事で、両社配下の小社の神々を伴って行われます。
日天と月天の出会いから「日月祭」「日月陰陽和合祭」とも呼ばれ、昔は隔年の9月19日に行われていました。
現在は西暦奇数年の10月19日に行われています。

4220649-2025-05-10-14-25.jpg

建久4年(1204年)鎌倉幕府が「佐々木定綱」(ささきさだつな)を隠岐守護職に任じた際の隠岐国は、気候不順のため、作物が実らず、人畜ともに病災に苦しみ、大変困窮していました。
そこで定綱は、佐々木氏の本貫地である近江国佐々木庄から日神月神、そのほかの神々を勧請し、日神を元屋の八王子神社に、月神を中村の常楽寺に奉斎し、日月陰陽和合の祭事をとりおこなったところ、人畜は無病息災、五穀は豊作になったということです。

4220650-2025-05-10-14-25.jpg

隠岐武良祭風流の全過程は10月9日から20日にわたる長期のもので、役指会、輿飾りとラチン、別餮、駆者参籠、小神参集、尊形飾り、宮守、かぎ守参籠、前夜祭などの細かい行事が行われるそうです。
そして10月19日の朝、両神社から行列が出発します。

4220651-2025-05-10-14-25.jpg

八王子神社、一之森神社の氏子たちは、「御尊像」と呼ばれる直径2尺余(約60cm)の宝珠形の円盤に浮き彫りした「日天の八咫烏」「月天の白兎」を長竿に飾り、それを御日守(おひもり)役が捧持します。
その後を裃(かみしも)を着て紅をつけた男子が2人太鼓を担い、鼓手が「ヘンヨー」とはやしながら太鼓を打ちます。
太鼓のあとには多数の御輿が続き、更に楽隊と鎧兜を着た行事が続きます。

やがて日神と月神が祭場で出会い、互いに礼拝しあいます。
神前では終始神楽が奏でられ、その間に占手神事(うらてしんじ)、神相撲(こずま)、陰陽胴(いんようどう)、流鏑馬、競馬、浦安の舞などが行われます。

e382b9e382afe383aae383bce383b3e382b7e383a7e38383e38388-2025-05-08-17.44.45-2025-05-10-14-25.jpg

非常に賑やかな祭ですが、この風流の主役であり、他では見ることのない珍しい「日天の八咫烏」「月天の白兎」の御尊像、僕はこれに見覚えがあります。
そう、つい先日参列したばかりの、島根・美保神社で行われた「青柴垣神事」でのことです。

4070083-2025-05-10-14-25.jpg

青柴垣神事では、この日像・月像が、最初は神事会所の御棚(おおたな)に供えられ、宮灘への行列では、當屋の先に立って歩かれていました。

4220652-2025-05-10-14-25.jpg

c1d-2025-05-10-14-25.jpg

4220654-2025-05-10-14-25.jpg

一之森神社と田園を挟んで750mの対面、元屋(がんや)地区に、「日天子」が安置されている八王子神社が鎮座しています。

4220655-2025-05-10-14-25.jpg

境内からは六世紀ごろの土器が発見されいるそうで、古代の祭祀場であった可能性が示唆されています。

4220658-2025-05-10-14-25.jpg

八王子神社の祭神は「天照大神」、または「天忍穗耳尊」以下五男三女の八神となっています。
創建年代は不詳ですが、鎌倉時代に隠岐守護に任じられた「佐々木定綱」によって、近江国より八王子大明神を勧請し、この地に八王子神社を創建したと伝えられます。

4220668-2025-05-10-14-25.jpg

この佐々木定綱が隠岐武良祭風流の創始者でもあるわけですが、彼は佐々木氏の本貫地である近江国佐々木庄から日神月神、そのほかの神を勧請し、日神を元屋の八王子神社に、月神を中村の常楽寺に奉斎したわけです。
近江国佐々木庄の佐々木氏聖地といえば、佐々木氏発祥の「沙沙貴神社」が思い浮かびます。
沙沙貴神社の祭神は「佐佐木大明神」と称し、一座に「少彦名命」、二座に「大彦命」(大毘古神)、 三座に「仁徳天皇」(大鷦鷯尊) 、四座に「宇多天皇」「敦実親王」を祀ります。
由緒には、神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君が大彦命を祭り、景行天皇が志賀高穴穂宮遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝えられていました。

4220665-2025-05-10-14-25.jpg

富家では、佐々木氏は大彦の子孫であると伝えられ、物部族との戦いにおいて近江国に退いた大彦が少名彦、すなわち事代主を祀ったのが沙沙貴神社の始まりであろうと思われます。
しかしながら、佐々木定綱が何故、事代主や大彦ではなく、日神・月神を、さらには八王子を近江国から当地へ勧請したのか、それが分かりません。
当地の祭神においては、仏教色も感じられることから、神仏習合・神仏分離の時代を経て、変遷があったものとは思われますが。

4220660-2025-05-10-14-25.jpg

思うに、当地には佐々木定綱が隠岐に赴任する以前から、日神・月神が祀られていたのではないでしょうか。さらに言うなら、この日神・月神は、クナト大神と幸姫の夫婦サイノカミだったのでは。
現在の祭神は、仏教伝来後に被せられたものであり、鎌倉時代に隠岐守護職として赴任した佐々木定綱は、天候不順・凶作に苦しむ武良郷の民を見かねて、当地古来の神である夫婦日月の神を奉じて、陰陽和合の祭事を創作したのではないか、と僕は推察します。

img_6821-2025-05-10-14-25.jpg

時を経て、美保関の氏子、美保神社神職の横山家、向家(富家)の方々の要望を受けた太田政清は、諸手舟神事と青柴垣神事を立案し儀式化する上で、この隠岐武良祭風流を知り、参考にしたのではないでしょうか。

4220661-2025-05-10-14-25.jpg

ただ、大彦は大の物部嫌いでしたので、彼の子孫が、物部族を大和に導いた八咫烏、物部族と共に大和と出雲を攻めた豊家の月兎を、祭りのシンボルとしたかは疑問です。
「日天の八咫烏」「月天の白兎」の御尊像は後世に仏教の影響を受けたか、むしろ青柴垣神事から逆輸入されたものかもしれません。

4220667-2025-05-10-14-25.jpg

日天と月天の出会いは、陰と陽の和合を表し、それはイザナギとイザナミが出会うことで、この国土やさまざまな神々、作物や我々子孫を含む万物が生成されたとする神話を象徴するかのようです。
総社・玉若酢命神社や一宮・水若酢神社の風流と同じく、この小さな神社の風流が今に残り続けられているのには、そうした真意を残し伝えなければならないという、意思を感じるのです。

4220662-2025-05-10-14-25.jpg

2件のコメント 追加

  1. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

    🐥日月陰陽和合の祭事…人々の間に穢れが蔓延し、神を神とも思わぬ輩が出始めると、様々な自然災害が起こり、それでもって人間の愚かしさを自覚させようという神の計いがあるのでしょう🐣

    いいね

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      お計らいでしょうな😇

      いいね: 1人

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください