
福浦の中言神社から、南西1.7kmのところに、「白山神社」(はくさんじんじゃ)があります。

当社鎮座地は長尾田(ながおだ/なごうだ)と呼ばれるところで、わずか数件の住宅があるだけの地区です。

長尾田は、今でこそトンネルが掘られ、道路が通っていますが、かつては海からしか辿り着けないような、そんな場所でした。

古くは孤立していた集落。
しかしなぜ、彼らはここに住み続けたのか。

「天健金草神社」(あまたけかなかやじんじゃ)に伝わるという話で、神功皇后の前に現れた五十猛神。
かの神はこの先の「吹浦湊」(福浦)の海が荒れているので、大屋津媛・抓津媛を遣わして、皇后を那久濱・表素碕(おもさき)に案内したと云います。

この伝承の真偽のほどは分かりませんが、福浦と那久の間にある集落といえば、油井と長尾田くらいのものですので、神が現れた場所は当地を指すのかもしれません。

長尾田の白山神社は、今の祭神は「伊弉諾尊」(いざなぎのみこと)と「事代主命」(ことしろぬしのみこと)になっています。

しかしやはり本来は、社名に則した神が祀られていたのではないかと推察します。

那久の先は、五十猛が遣わしたという大屋津媛・抓津媛の聖地「大屋のワンド」や「弊之池」があり、その一帯は抓津媛に因んで「都万」と呼ばれていました。

そしてこの都万地区(11)と長尾田を含む五箇地区(12)を合わせて、古い時代には「隠地」(おち)郡と呼んでいたのです。

ただ、当地を隠地郡と呼んでいたのは平安時代からのことで、さらに古い奈良時代には「役道」(えきじ)郡、飛鳥時代には「依治」郡と表記されたことも分かっています。

この「依」で表記される音は、後の「お」に通じるようで、依治もオチから派生した呼び方であって欲しいと僕は願います。

ともあれ、この隠地郡のエリアには「天健金草神社」「水若酢命神社」「伊勢命神社」の3つの式内社も鎮座していたことになり、その中心かつ隔離された僻地が長尾田だということになります。

古来より長尾田では、人と交わらず、純粋な血を守り続けた一族がいたのではないでしょうか。
だからこその白山神社であり、中言神社なのでは。

鬱蒼と茂った杜の中には、磐座らしき岩もちらほらと見えます。

各地に散見される、往古に神と通じる「中言」を生業とした一族、そうした人たちは表に出ることを許されず、時代においては迫害のような扱いを受けることもあったと聞きます。
本物だからこそ、そこには圧された歴史があるのです。

しかし21世紀も四半世紀を迎え、混沌とした世の中でパンドラの箱が開き始めている、そんな気がしてならないのです。

ダジャレのつもりでなくても、この オチ であって欲しいと願う気持ちです😉
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状況証拠は揃っているんですけどねぇ🥺
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