補陀洛山寺:常世ニ降ル花 土雲歌譚篇 番外

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享録4年(1531年)11月、観世音菩薩の結縁日を迎え、私は堂内本尊の前で跪き、額を床に深々と付けた。
野では霜が降りる日もあり、この日も板張りの床は冷たかった。
本堂を出て、境内の傍に湧き出る水を一口含み、続いて三所権現を拝した。
やがて日も傾き、北から南へ全てを押し流すような強い風が吹き始めた。
私は一歩、一歩、海岸へと歩いてゆく。
咽び泣く者、歓喜の目を向ける者、そうした見送りの者や好奇の見物人が、私のゆく道に群がり、どよめく。
こうして私はついに念願を遂げるのではあるが、ふと脳裏をよぎる。
果たして迷いは、消えたのであろうか。
正気とも、狂気ともつかぬ心に、頭の中だけは澄み切ったように、空白であった。

三所権現の鳥居の先に至ると、白帆をあげた屋形船が岸に付けられていた。
四方に「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」を表す鳥居が設けられ、忌垣の中に、かろうじて趺坐できる、小さな仮屋が用意されていた。
私が仮屋に乗り込むと、三十日分の油と食糧が運び込まれる。
この船に窓や扉はなく、私が乗り込んだ唯一の入口には板がはめられ、外から釘が打ち付けられた。

暗闇の中、私は手探りで二灯をともし、法華経を誦する。
私の船は、二艘の伴船に沖まで引かれていき、そこで白綱は切られた。
半眼の網膜には、漂う船と共にゆらめく、二つの灯火が映る。
ああ、南海の彼方にあるという観音浄土よ、いまこそ我が思いを遂げん。
私の生涯は、この時のためにあったのだと。

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和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある「熊野三所大神社」(くまのさんしょおおみわしゃ)を訪ねました。

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参道入口には、立派な夫婦の楠。

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参道左手にある鬱蒼とした玉垣の奥には、

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「神武天皇頓宮跡」という石碑がありました。
これは大正期に置かれたものだそうです。

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質素な割拝殿の先には、

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荘厳なお社。

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当社祭神は「夫須美大神」(ふすみのかみ)「家津美御子大神」(けつみみこのおおかみ)「速玉大神」(はやたまのおおかみ)の、いわゆる熊野三山の神であり、社名の由来とされています。

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また境内には、九十九王子のひとつである「浜の宮王子の社跡」があり、かつては境内の前は海に面していたことが名の由来とされます。

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拝殿の向かって左手には、食物の神の「三狐神」を祀る祠があり、

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右手には、地主の神として「丹敷戸畔命」(にしきとべのみこと)を祀る祠があります。
この丹敷戸畔社を参拝するのが、当社を訪ねた目的でした。

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丹敷戸畔は、『日本書紀』における初代天皇東征の折、熊野荒坂津に至った天皇軍に殺されてしまった土豪の女首領です。

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彼女の話はあまりに簡潔に記されており、詳細が分からない媛巫女のひとりでもあります。

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とりあえず僕は、丹敷媛巫女ちゃんにLoveと伝えたかったわけですが、素通りすることができないお寺が、この横にあったのです。

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熊野三所大神社と隣接するお寺、それは

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「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)。

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当寺は浜の宮王子の守護寺であったらしく、仁徳大君の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝わる古刹です。

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しかし名前にもある「補陀洛」とは。

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これは南の海の向こうにあるという観音浄土「補陀洛山」のことで、平安時代から江戸時代にかけてこの海へ渡る捨身行「補陀洛渡海」が行われていたと伝えられていました。

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補陀落はサンスクリット語で観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳で、日本では那智山、日光山(二荒山)、室戸岬、足摺岬などが補陀落に擬され、観音信仰の霊場となりました。
熊野は古くから捨身行の行われた聖地であり、このような信仰と補陀落信仰とが結びつき、補陀落渡海の行が生まれたものと思われます。

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補陀落渡海は、南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出るのが基本的な形態で、伴走船2隻とともに3隻で船団を組む場合もあり、伴走船が沖まで曳航してから綱を切って見送ったとされます。
渡海の時期は季節風によって南方に向かうのに適した北風が吹く11月が選ばれることが多く、出発日は観音菩薩の結縁日である18日が選ばれるようになりました。

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この船に窓や扉はなく、渡海上人が乗船した後は、唯一の入口に外から釘を打ち付けたといわれます。

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出航した渡海船は海を漂い続け、中の渡海上人はほとんどが餓死あるいは沈没死しました。
中には運良く、いや運悪く琉球諸島などに漂着し、生きながらえたケースもあったため、次第に重石を身に付けて入水したり、船に穴を空けて沈めたりするなど、確実に命を落とす方法もとられたといいます。

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補陀洛山寺はかつて目の前が浜であり、『熊野年代記』には、貞観10年(868年)から享保7年(1722年)まで、ここから出航した20例の補陀洛渡海の記録が残されています。

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寛政6年(1794年)に書かれた『熊野巡覧記』には、金光坊という僧が、生きながら入水するのを拒んだため、役人が無理に海中に沈めた話を記します。
これ以降、存命のまま入水することは行われなくなり、住職の入寂後に儀式を行うようになったとのこと。
金光坊の名は『熊野年代記』などには見えず、実話であるかは不明ですが、近世より生前の補陀落渡海が行われなくなり、一種の水葬として行われるようになったのは事実だとのことです。

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補陀洛山寺の本尊は「三貌十一面千手千眼観音」(さんみゃくじゅういちめんせんじゅせんげんかんのん)で、国の重要文化財に指定されています。
この観音は熊野灘に身を投げ出す僧らを、どのような面持ちで見守っていたのでしょうか。

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境内裏に、渡海上人・平維盛・時子 供養塔なるものがあるようなので、行ってみます。

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補陀洛山寺には和歌にも詠まれた「渚の森」と呼ばれる名勝の森があったそうですが、ここもなかなかの雰囲気です。

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神たる自然は、僕らを誕生させ生かすあらゆる環境を整えるため、今日まで努力を惜しむことをしません。
だから僕らはその恩に報いるためにも、生きなければならない。

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なのに衆生の苦しみを救い、人の生き方を教える立場の僧らが、時として焼身・身投げ・即身成仏・補陀洛渡海などの捨身行を行うことを、僕は理解できません。
生きて、死の間際まで衆生を救うのが本懐ではないのか、と思ってしまいます。

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補陀洛山寺裏手の丘の上には、代々の住職の墓があり、

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その一段高いところに

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補陀洛渡海上人らの墓がありました。

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墓といっても、地下に遺体は眠っておらず、供養塔といったものになるのでしょう。

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彼らは念願通り、仏の世界に行けたのだろうか。

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この補陀洛渡海上人の墓の上にも、墓があります。

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これは「平維盛」(たいらのこれもり)の供養塔で、彼の最後を『平家物語』は次のように伝えます。

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「富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦いで敗北した平維盛は、平家都落ちの後屋島に潜伏したが、元暦元年(1184年)屋島を出て紀伊に渡り、熊野三山を参詣した。
維盛主従は浜宮王子から小舟で海にこぎ出し、山成島に上陸。
維盛は松の木を削って”祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、親父内大臣左大将重盛公、法名浄蓮、三位中将維盛、法名浄圓、生年廿七歳、寿永三年三月廿八日、那智の奥にて入水す”と書き付け、再び舟をこぎ出し、”南無”と唱えて海へ入った」

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維盛は美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称されましたが、富士川・倶利伽羅峠での敗北、父の早世もあって、一門の中では孤立気味であったといいます。
熊野では、彼は一ノ谷の戦い後に戦線を離脱し、小森谷渓谷(龍神村)に隠れ住んでいたといい、そこで地元に住むお万という娘と恋仲になった話が伝わります。
維盛が壇ノ浦の戦いで平家が敗れたことを知ると、小森谷を出て那智の海に入水したとされており、それを知ったお万も滝に身を投げたということです。
戦線を離れてからの平維盛の消息は、実のところは不明で、多説・他伝承が伝えられます。

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何にせよ諸行無常の世界に、僕はただ大きく、ひと息漏らしたのでした。

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5件のコメント 追加

  1. asamoyosi のアバター asamoyosi より:

    五条桐彦様 こんにちは。補陀洛山寺は父と旅行した最後の地。前日訪れたものの遅かったため翌日一番にお参りしました。たまたま出てきておられたお寺の方にその事を話すと、お寺の中に私たちを招き入れ、何と千手観音の厨子の扉を開けて見せてくださいました。父にとって何よりの贈り物だったと思います。その後大阪での開かれた熊野参詣道・世界遺産登録記念の展覧会で展示された千手観音を再び拝むことが出来たと、とても嬉しそうに話していました。遠い昔の懐かしい思い出です。 asamoyosi

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      なんと、二度もお会いできたとは、ご縁があったのでしょうね。
      千の手、千の目でどのような衆生をも漏らさず救済するという千手千眼観音様とご縁深いとは、羨ましい限りです😊

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  2. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

    🐥補陀洛渡海に身を投じた僧侶の顛末を鑑みるにつれ、この儀式を考案したのは、僧侶に何かしら怨恨のある人々だったのではないかと思います。観音浄土に到達するという理由も、まるでこじつけのような🐤僧侶1人だけが観音浄土に行った所で衆生が救われなければ意味がない。これは、優秀な仏教徒を抹殺するための一見合理的な動機づけとしか思えません…

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      仏僧の捨身行は、世界の仏教エリアで散見されます。
      その元となるのが、ブッダに自身の肉を食べてもらおうと火に飛び込んだウサギの逸話なのだそうですが、解釈を間違っているとしか思えませんね。
      まあ、仏教徒を抹殺する思惑があるのかどうかは、知らんけど🥺

      いいね: 1人

      1. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

        🐤ブッダに自分の肉を喰わせるとか剣呑ですな。それは逆に不敬かと思われます。殺生をするなとブッダは説いた筈ですが🐥

        いいね: 1人

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