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その昔、金山・銀山のある佐渡は「天領」と呼ばれる江戸幕府の直轄地でした。

幕府は、金山銀山と佐渡一国を手中に収めるべく、相川に佐渡奉行所を置きました。

その相川地区にあるのが「相川金銀山」(あいかわきんぎんざん)で、佐渡の鉱山の中でも規模が特に大きく、単に「佐渡金山」という場合はこの相川金銀山を指す場合もあります。
そして、令和6年(2024年)7月27日に世界文化遺産に登録された「佐渡島の金山」の中心的施設でもあります。

観光施設として整備された相川金銀山は「道遊抗」(どうゆうこう)と「宗太夫抗」(そうだゆうこう)の二つの坑道を見学できます。
道遊坑は明治以降に機械で採掘された近代的な坑道で、宗太夫坑は江戸時代の初期に手掘りで採掘された坑道となっています。

道遊坑はトロッコの線路が残っており、アリの巣のように坑道が伸びています。
見学はその一部を通ることになります。

佐渡島は海底がマグマの活動で隆起して生まれた島で、豊かな自然と鉱物資源に恵まれた島でした。
『今昔物語集』の巻26・第15話に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段がありますが、これは佐渡の「西三川砂金山」のことと推定され、11世紀後半には少なくとも砂金等の形で佐渡で金が産出することが知られていたと考えられています。

■西三川砂金山 虎丸山 出典:「佐渡島の金山」写真ギャラリー
西三川砂金山では、江戸時代に「目に見える金」である砂金を効率的に得るため「大流し」(おおながし)と呼ばれる方法で採掘が行われていたことが分かっています。
山肌などを大規模に削り崩し、砂金を含んだ土石を谷川へ滑り落として、余分な土砂を大量の水で押し流し砂金を採取するという方法です。
この「砂金流し」に必要な水を得るため、周辺には何本もの大規模な水路が作られ、現在も延べ12kmにおよぶ「金山江」と呼ばれる水路跡が残っているとのことです。

やがて山師たちが「目に見えない金」と呼ばれる硬い岩盤中の金銀鉱脈を発見すると、その採掘が行われ始めます。
そうして慶長6年(1601年)佐渡は徳川家康の所領となり、佐渡金山から発掘される金銀は江戸幕府の重要な財源となりました。

江戸中期以降の佐渡金山は衰退していきますが、それは硬い鉱脈を手掘りで掘り進めるという過酷な労働環境にも原因があったのかもしれません。

明治になると、西洋の近代的技術が導入され、佐渡金山は再び隆盛を見せ始めます。

明治10年(1877年)には洋式技術による選鉱場と、日本の金属鉱山で史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成し、明治18年(1885年)政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行するため、高任立坑の開削、ドイツの新技術の導入による北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを行い、佐渡鉱山のさらなる増産を目指しました。

明治29年(1896年)佐渡鉱山は三菱合資会社(1918年に三菱鉱業株式会社に改名、現三菱マテリアル)に払下げとなりました。
三菱は、動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進め、その結果、明治後期には鉱山の産金量は年間400 kgを超えることになりました。
昭和15年(1940年)には、佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25トンの銀を生産しているとのことです。

近代における鉱山労働者の管理は、部屋頭による「部屋制度」(納屋制度)で運営されていました。
しかし部屋頭による中間搾取も多かったため、労働争議がしばしば発生していたようです。

大正11年(1922年)5月には650名の鉱山労働者が参加する大規模な労働争議が発生し、これをきっかけに三菱鉱業は労務管理を強め、部屋制から直営制度へと経営方針を転換し、労働者の不満を緩和する処置をとりました。
明治37年(1904年)には鉱山関係者の軽費診断所として、23床の入院施設を持つ鉱山病院が設置されていましたが、昭和9年(1934年)にこれを改築し、病床数も32床に増加されました。

そうした佐渡金山ですが、第二次世界大戦中には代金決算手段としての金の価値は薄れ、むしろ戦争に重要な資源である銅、鉄、亜鉛、石炭の増産・確保が重視されるようになりました。
佐渡鉱山でも銅の採掘が増える一方、金の採掘は減少していきます。

こうして戦時中も佐渡鉱山は大きな成果を上げ続けましたが、そこには朝鮮人労働者が大量に動員された背景もあるようです。
このことは佐渡金山の世界遺産登録申請において、「佐渡金山で朝鮮人の強制労働が行われた」と隣国の3国が強く抗議していたのを、僕も記憶しています。

昭和14年(1939年)に佐渡金山を経営する三菱鉱業株式会社(現三菱マテリアル株式会社)は、日本人労働者の不足を補うため、初めて朝鮮半島で労働者を募集しました。
募集地域は忠清南道が80%、忠清北道・全羅北道が20%でしたが、1村落20人の募集割当てに対して約40人の応募が殺到するほど人気があったといいます。
しかし、応募者の多くは実際には鉱山での就労を希望したわけではなく、従前に自由渡航した先輩や知人を頼って内地で暮らすことを望んでいたようで、下関や大阪に到着するとすぐに逃亡する者も多かったようです。
昭和18年(1943年)5月末時点での朝鮮人の移入状況は1005人に及びましたが、このうち421人が減員したとされ、実際に鉱山で働いていた人数は584人と半分強であったとのことです。

昭和27年(1952年)戦後に三菱は、佐渡鉱山の大規模な縮小を決定します。
昭和51年(1976年)には佐渡鉱山部門が佐渡鉱山株式会社として独立し、細々と採掘が続けられていましたが、最終的に平成元年(1989年)佐渡金山は休山となりました。

平成元年の休山までに佐渡鉱山が算出した金は78トン、銀は2,300トンに及ぶといいます。
現在は、三菱マテリアルの100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡によって「史跡 佐渡金山」として一般公開され、令和6年に世界文化遺産として登録されました。



坑道を抜けると、機会工場という建物がありました。

中はこんな感じ。

断頭台さんが好きそうな天秤も展示してありました。

「アウラ、自炊しろ」

さて、この先に佐渡金山イチの映えスポット「道遊の割戸」があるのですが、横から見るか、下から見るか。

横から見る~ぅって、、、すっご。

このパッカーンと割れてふた神のように見える山は、最初に人の手掘りで掘られたものだといいます。

道遊の割戸は地表に鉱脈が露頭していたものを江戸時代に発見し、坑夫がせっせと掘り下げていきました。
山頂部の割れ目は、幅約30m、深さ約74mにも達します。

今度は道遊の割戸の直下へ行ってみます。
なだらかな坂道をしばし登っていくと、

神社がありました。

社名は「高任神社」(たかとうじんじゃ)と言いますが、相川下山ノ神町にある鉱山の総鎮守「大山祇神社」から分社されたものだといいます。

明治時代の初代佐渡鉱山局長「大島高任」の偉業を称え、この社名が命名されました。

大島高任は後に高任立坑と命名された新立坑の開削、道遊の割戸の再開発などを次々と行い、佐渡鉱山の第2次近代化と大拡張を先導したのですが、

すっ・・・

・・・ごく大きい。。

常世というか、黄泉の入口のような、あまりにデッカく深い穴が、ぽっかりと空いていました。

道遊の割戸の中腹から下にかけては、明治以降に開発されたもので、地下にまで達する鉱脈は平成元年の休山まで、採掘が続けられたのでした。
