史跡 佐渡金山 宗太夫抗

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「相川金銀山」(あいかわきんぎんざん)のもう一つのコース、

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「宗太夫抗」(そうだゆうこう)を進んでみます。

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こちらは「江戸金山絵巻コース」とも呼ばれ、江戸時代の初期に手掘りで採掘された坑道となっています。
厳密には、世界遺産「佐渡島の金山」の構成資産となっている坑道はこちらになっており、明治期に掘られた道遊坑は含まれません。
それは例の、朝鮮人労働者の問題に配慮したものかもしれませんが、僕としては利権で形骸化した世界遺産制度には魅力を感じませんので、まあ良いのではないかと。

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宗太夫抗が面白いのは、そこに設置された70体あまりのリアルな動く人形たちです。
手掘り坑道内に、採掘風景を再現しているのですが、この人形の製作には『ゴジラ』や『ガメラ』などの特撮映画監督「樋口真嗣」氏が関与しているそうです。
なるほど、良く出来ているはず。それはもう例えるなら、ちょっと男臭いイッツ・ア・スモールワールド☆

このグルグルと回している筒状のものは、「水上輪」(すいしょうりん)と呼ばれるもので、水を汲み出す道具です。
いわゆるアルキメデス・ポンプという仕組みで、中が螺旋構造になっており、筒が回転することにより水を汲み上げます。
坑内での採掘は常に水との戦いであり、岩盤から染み出る地下水を常に排水する必要がありました。
地下水による事故も多く、亡くなる方が後を絶たなかったともいいます。
水上輪が設置できない細い坑道では手作業で水の処理を行っていました。

佐渡金山の鉱石は、初期の段階においては地表面に露出している鉱脈をまわりの土石ごと掘りとる「露頭掘り」が主体でした。
やがて地下深くにある鉱脈を掘るために「坑道掘り」という技法が用いられるようになります。
これは排水と鉱石の運搬を容易に行うためのもので、複数の鉱脈を同時に掘り進めることができるという利点がありました。

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坑道を水平に掘るため、高度な測量技術が発達。
木材を組み合わせて、坑道内の弱い部分を補強する山留(やまどめ)技術も発達しました。

鉱石は、金穿大工(かなほりだいく)が鑽(たがね)という採掘用の「のみ」を上田箸(うえだばし)ではさみ、鎚(つち)で打って掘りました。
上田箸ではさむことで短くなった鑽も使用できたそうです。
相川金銀山の鉱石はとても硬く、1日に10㎝位しか掘れなかったといわれています。
また、金穿大工1人当たり、鑽を2日で1本消費したとも。

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坑道の換気には、穀物の選別作業で使用する唐箕(とうみ)を改良したものが使用されていました。

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掘り出された鉱石は「ほりこ」が背中に担ぎ、外へ運びました。

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鉱石は勝場(せりば)に運び込まれ、鉄のハンマーで砕かれたのち、石臼でさらに細かくすりつぶして砂状にします。
これを水槽に入れてゆり板でゆすり、軽い砂と重い金銀分に分けて回収しました。

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製錬の作業は、床屋(とこや)とよばれる場所で行われました。
まず、勝場で回収した金銀と鉛をいっしょに炭火で溶かし、「貴鉛」(きえん)と呼ばれる金銀と鉛の合金をつくります。
その貴鉛を灰を敷きつめた鉄鍋で熱すると、鉛が灰にしみ込んで金銀だけが残ります。
この作業を「灰吹法」(はいふきほう)といい、石見銀山から伝えられました。

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次にこの金銀の合金を金と銀に分けるために、硫黄を添加する「硫黄分銀法」(いおうぶんぎんほう)や、塩を用いる「焼金法」(やききんほう)の2つの方法が用いられました。

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これらを組み合わせ、繰り返すことによって、金の純度は小判の品位(金含有率66~87%)に合わせて高められたということです。

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相川金銀山では、鉱石から金銀を生産するだけでなく、小判の製造も行っていました。

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これは、島という隔絶した地理的条件と、奉行所による一元的な管理体制によって可能となったものでした。

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溶かした金をのべ板状にし、それををハサミで小判1枚分の重さに切り分けます。

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それを鎚(つち)で叩いて小判の形に成形し、「茣蓙目」(ござめ)という模様を付けます。

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その後、表面に薬品を塗り、熱を加える「色揚げ」(いろあげ)を行い、より良い「黄金色」にして完成させました。

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佐渡金山には罪人の強制労働所のようなイメージも強いですが、実際には工夫たちの給与は良く、採掘は4時間毎の交代制で、食事も休憩時間もあって待遇も良いようでした。
相川には遊郭もあり、羽振りの良い工夫たちで賑わっていた様子が窺えます。
しかし、採掘現場の換気が悪いせいもあって、粉塵による肺の病で短命な人も多かったそうです。

江戸時代に罪を犯した無宿者(人別帳から除籍された者)は、その罰として佐渡金山の水替人足に使役される者も実際にはいました。
この佐渡金山の水替人足は、一生暗い金山の穴ぐらで働き通しながら死んでいった人が多く、鉱毒に犯されて早死していった人も多いとのこと。
記録によると、1778年から1861年までの83年間で1876人の無宿人が佐渡へ渡ったそうです。

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さて、いよいよ宗太夫抗の「江戸金山絵巻」も終わりですが、何やら歌のようなものが聞こえて来ます。

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これは「やわらぎ」神事と言って、佐渡金銀山の守護神を祀る大山祗神社の祭礼の朝、稼行する敷(鉱石採掘現場)の付近で行われた神事です。
その呼称は「荒ぶる山神の気を和ませ、更に硬度の高い金銀の鉱石をもやわらげさせ給え」と祈願することに由来しているといいます。

金銀の鉱脈は、工夫たちが実に絶望を感じるほど硬いものでした。

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蓬莱の国、黄金の国ジパング、その象徴たる佐渡で400年以上にわたって金銀山を採掘してきた工夫たちの思い。
そして世の男たちは願うのです。鉱脈と女房よ、やわらぎたまえ、と。

やさか~♪
やさか~♪
やさか~♪
やさか~♪

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6件のコメント 追加

  1. mame58 のアバター mame58 より:

    4時間体制の休憩あり、食料あり、遊郭ありといえども、大変な体力のいる仕事ですよねぇ、、、
    きっと、職人技だったんでしょうねぇ、、、

    いつも写真と解説付きで、楽しませて頂いています。日本は、本当に神話の国なのですね
    いつもありがとうございます♪

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      部署にもよりますが、相当過酷だったようです。
      日本は良いですね😊

      いいね: 1人

  2. asamoyosi のアバター asamoyosi より:

    五条桐彦様 おはようございます。佐渡は新婚旅行で訪れた所。宗太夫抗にも行ったのですが当時の面影なんて皆無と思えるほども立派になっているのですね。そりゃ半世紀以上も前と比べるなんてどだい無理なこと。ここに限らず新しい佐渡の様子にビックリしています。 asamoyosi

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      asamoyosi様、おはようございます。
      佐渡は思い出の地でしたか。
      世界遺産認定もありますので、これからますます変わっていくのかもしれません。
      しかし思いのほか人も少なく、過ごしやすかったです。
      良い部分はそのまま残していって欲しいですね😊

      いいね: 1人

  3. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

    🐥やわらぎ神事と百足の衣…地を穿ち這う人々の念いが込められているかのようですな…

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      鉱脈の模様がムカデに似ているそうで。
      かっちょええですな🐛

      いいね: 1人

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