大目神社/五所神社

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佐渡の島は、本土に負けず劣らずの米所。
古い時から開拓されて来た棚田と海や加茂湖とのコラボレーションが、日本の美しい原風景を作り出していました。

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新潟県佐渡市吉岡、そんな農村の奥に、村人を見守るように「大目神社」(おおめじんじゃ)が鎮座しています。

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小さな神社ですが、式内社でかつ、佐渡国二之宮でもあります。

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シックな社殿に祀られるのは「大宮賣神」(おおみやめのかみ)とされ、「大己貴命」とする説もあるのだとか。

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創祀年代は不詳。
背後の大目山を神体としています。
ただ、遷座されたようで、元の鎮座地については諸説あるようです。

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大宮賣神は、『古事記』『日本書紀』に記載がないものの、『古語拾遺』に太玉命の久志備に生ませる神とあり、なぜか宮中で祭祀されています。
大宮賣とは大宮媛の意味だと思われますが、久志備とは彼女の母の名でしょうか。
『丹後国風土記』残欠によれば、天橋立の後方を久志浜と名づけたのは「国生みした伊射奈芸命が天に通おうとして造り立てたもの、それ故に天椅立という。ところが大神が寝ている間に倒れ伏した。そこで久志備であると思った」とあり、久志備とは「奇霊・神異」であると解されています。

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現在、この大宮賣神を宮中外で祀る式内社は、丹後国二之宮「大宮売神社」が唯一とされていますが、佐渡にありましたね。

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当社大宮賣神・大宮媛とは、おそらくは佐渡に渡って来た媛巫女のことであろうと推察されます。

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赤泊地区下川茂の「五所神社」(ごしょじんじゃ)を訪ねました。

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赤く塗られた雅な橋。

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雨でやや増水気味の川を渡ります。

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御神木の大杉は、樹高30m、胸高幹囲5.21mの巨木で、樹齢800年以上と推定されています。

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川茂地域は佐渡では羽黒地域とともにスギ材の産地として古くから知られ、江戸時代には約45haものスギ御林がありました。
生育した川茂のスギは気候・土質に恵まれていることで萠芽性と耐雪性に優れているとされ、その材質の良さから「川茂杉」と称されたといいます。
この杉は現存する川茂杉としては最大級のものであり、川茂の原植生を伝える天然杉のレリック(遺存種)として貴重であるとのことです。

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当社の詳細については、水害により現在地に移転の後、火災で社殿が焼失しており、多くの記録等が失われています。
神社に関する資料は、神鏡に彫られた文字やわずかな古文書が残るのみなのだとか。

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こちらにもひょうきんな佐渡狛犬がいます。

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やはりこのヒダヒダの形状、アレだなと思っていたら、

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こちらの手水がこんな形で、

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お隣にリアルな石像が置いてありました。

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男石さんは自然石でしょうね、これは。

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佐渡は今でこそ米所ですが、気候も厳しく、往古には子孫を残すことが難しい島だったのではないでしょうか。
そうした願いが、独特の形状の狛犬に現れているように思います。

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さて、多くの記録が失われてしまった神社ではありますが、創建は737年で金沢の人間が佐渡に移り、祠を建てたのが始まりだと伝えられます。

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祭神は「鵜葺草葺不合命」(うがやふきあえずのみこと)他五柱。

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五所という名前からも、近隣の数社を合祀したものと思われますが、その中でも主たる社の祭神がウガヤフキアエズだったということでしょう。
ウガヤフキアエズといえば、龍宮の末裔、豊彦のことかと。

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金沢といえば、能登半島のお膝元であり、奈良時代に豊家にゆかりある人物が佐渡に渡って来たのかもしれません。

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当社のユニークな神事に、「御田植神事」(おたうえしんじ)というものがあります。

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この神事は、1年の豊作を祈願し、松の葉を苗に見立てて田植えの所作を奉納する神事となります。
神事はかつて、毎年1月6日に行われていましたが、現在は毎年2月6日午後3時に行われています。

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神事では苗取式・朝飯式・田打式・昼飯式・大足式・田植式・夕飯式の7つの儀式が個別に執り行われるのですが、その儀式を行うのは7戸の長男だけで完全世襲制となっています。
大足式は古宮家の世襲で、宮方筆頭と称して宮方株の長を受け継ぎます。

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儀式の内容は他家に漏れないよう極秘とされていて、当日は女人禁制でした。
2018年からは女性にも解禁されており、神事自体は近隣の氏子らで賑わうのだと言います。

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全ての儀式が終わると諸病に効くと言われる切り餅を配っていたそうですが、今は感染症の問題でお供えのお菓子等になっているそうです。
昔はこの儀式で豊凶作を占っていたといい、いくつかの変更はあるものの、古いしきたりを継承する古式神事が今も続けられているのです。

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【五所神社由緒より】

五所神社について
1 由来
社伝によれば、45代聖武天皇の時代(奈良時代)天平9年(西暦737年)に加賀国金沢の住人が神鏡五面を捧持してこの地に来た。
字宮山と言うところに祠(ほこら)を建立し五所大権現の名前であがめていた。
その後、文治の大水害(1185~ 1189年)で壊され流されたので、現在の地に遷座(場所を移動して建て直す)、五所大明神と改称した。
天正4年(1576年)「戦国時代で織田信長が台頭してくる時代」6月に社殿が炎上し古い記録は焼失してしまった。
そのため、火災を逃れた神鏡の裏面に彫られている文字や他の古文書でこの一端を知るのみである。

2 奉られている紳様について

① 鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)一安産、夫婦和合の神(主祭神) 一農業の神
② 天照大神(あまてらすおおみかみ)一太陽の神。伊勢神宮が有名。
③ 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)―稲穂の神。
④ 瑣瑣杵命(ににぎのみこと)―農業の神。
⑤ 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)― 狩猟の神(山幸の神)

(2)合祀している神社
① 熊野神社― 字高見より
② 諏訪神社― 字森 より
③ 越敷神社― 字猿人より
④ 大神宮 ― 字新谷より

(3)境内神社
・菅原神社(祭神―菅原道真)
・地神様(各家で祭つていたが引っ越し等で祭れなくなった神様を統合)

◎例祭について
神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされるもののことである。五所神社では4月3日に行われる祭をさしている。
一般に、例祭は年一回、多くは祭神や神社に特別の由緒のある日に行われる事が多い。
例えば人物神を祀る神社ではその人物の誕生日や命日に。特に由緒のある日のない場合は、春祭りや秋祭りをもって例祭としている。
例祭が行われる日は毎年一定で、みだりに変えることはできないものとされる。

1 御田植神事の由来
いつ頃から行われているかわからないが、現存する最古の棟札に1延宝二甲寅年宮方七人{延宝年間(1673~ 1681)}と銘記されている。
この神事は宮方(7戸)の長男のみが世襲で伝えられ、他の家人には絶対に教えず、また当日は午後より,境内女人立入禁止とされていた(平成30年より女人禁制無くす)。
昔は正月6日の夜祭祀の初式とされていたが、終戦直後から2月6日午後3時頃より行われている。
神事は苗取式、朝飯式、田打式、昼飯式、おおあし式、田植式、夕飯式の7つの儀式に分れて執行される。
オハシ式をする人は宮方筆頭と称して宮方の長を受け継いでいる。
他の6人の席順も定められている。

2 御田植神事式
まず、神前に麻の梓(かみしも)をつけた宮方(みやかた)7人、氏子総代一同着座、拝殿には小苗打(こなえうち)(以前の書物には7~ 15才くらいの男子と書いてあるが、現在は小学生の場合が多い)、太鼓を打つ者が整列する。
まず、始めの太鼓の後、神官が祓、開扉、献餃、田植神事式の祝詞奏上をする。

(1)苗取の式
祭壇に供えてある苗の藁(のうてわら)を神官が、おおあし式をする宮方を除いた6人の「しろうと(代人)」に上座より渡す。
受け取った「しろうと」は、その藁の「ぬいご」を3本抜いて紙に折って懐中に入れる。
終わると神官がその藁束を神餞屋におさめる。
次に、祭壇に供えてある三尺余りの松6本を神官が、6人の「しろうと」に一本ずつ渡す。
この松の葉(稲苗になぞらえたもの)をとりながら宮方は誰にも聞えないように神歌を唱える。
一把づつ束ねるご1鼻に、太鼓の合図で、小苗打が、厚板を捧(昔は椿の枝とされていた)で打ち鳴らして囃す。
(2)朝飯の式
祭壇に供えてある曲物(まげもの)を神官がおろし、7人の宮方へこの中から一升餅を5つに切ったものを授与する。
宮方はいただき納める。
(3)田打の式
祭壇に供えてある桑の本でこしらえた白木の鍬6挺を神官が「しろうと」に渡す。
受け取った6人は、この鍬顔のところまで捧げて拝殿に下りて来て一列に並ぶ。神前に向って奇数の者が拝礼すると、つぎに偶数の者が拝礼すること3度、一度終るたびに太鼓を合図に小苗打が囃す。
3回繰り返して元の席に着座し神官に鍬を渡す。
(4)昼飯の式(朝飯の式と同じ)
(5)「おおあし」の式
祭壇に供えてある三尺四寸の「おおあし」を神官が宮方最上座の「おおあし引き」に渡す。
「おおあし引き」は拝殿へ進み、神前に向つて身体を屈(かが)み、前へ七足、後へ五足又前へ三足(七五三)で一回終わると、太鼓の合図で小苗打が囃す。
3回繰り返して元の座に着座し神官に「おおあし」を渡す。
(6)田植の式
6人の「しろうと」は、順次拝殿に進み神前に向つて苗取式にとった苗松の葉を1把づつ懐中から取り出し、自分の前に撒く。
これが田植となる。
植えながら回の中で誰にも聞えないように神歌と唱える。
一把植える毎に、太鼓を合図に小苗打が囃す。
(7)夕飯の式(朝飯、昼飯の式と同じ)
玉串拝礼の後、神官が撤餞、閉扉を行う。その後終わりの太鼓で神事式は終了する。
次に、神前へ供えてあったぉ菓子を氏子総代によって小苗打や一般参拝者に撒く。
以前は細かく切つた切り餅まきを行っていたが感染症考慮等で、現在は行わない。
昔の古老は、苗取式や田植式によってその年の豊作凶作を占つたと言うことである。
宮方を中心に渡された餅は諸病に効能があると言われ家々で大切にされている。

「子安石」の由来 五所神社
川茂のお石さん「子安石」。
橋を渡って五所神社境内へ入るとすぐ左手に、手水鉢(ちようずばち)と並んで安置されてある。
あまり大きいので社殿前まで上げられずここに置いたものだが、これは以前すぐ前の羽茂川から上げたものだと言う。
ある里人が通った時、「あげてくれ、あげてくれ」という声がする。
誰か川の中に落ちて助けを求めているのかと思って、土手の茂みをかき分けて覗いて見たが誰もいない。
「誰かおるかや。」と声をかけると、「ここにおる。あげてくれ」という声が返ってくる。
こりやてっきりむじながおれを誘い込もうとしているんだなあと思って、一旦家へ帰って仲間を数人連れて来た。
川に入って声のした所へ行つてみると、この石がちょっと顔を出している。
変な石があるなあと思って周りの石を取り除いてみるとかなり大きな石だ。
再び集まり、鍬やじょれんを持って来て掘り起こしてみると、ますます奇妙な石だ。
だんだんそれが村の騒ぎになって、いっそのこと上へあげてやらんかとなたが、7トンのクレーンでは無理だった。
それで共栄建設のの11トンのクレーン車を持って来たらやっとあがった。
境内に移すと、座り加減がよかったのか声はしなくなった。
あの不思議な声は神さまのお告げだったんだということになった。
このお石さんを何という名前にするかでひともんちゃくあった。
ずばり「お○○○石」がいいという意見があつたが、「それじゃちょっと品が落ちるなあ。」ということで、結局は「子安石」ということで落ち着いた。
(五所神社宮司・下川茂風間英雄―生談)
これには後日談がある。
金井のある壮年の仲間がマイクロバスで前浜へ来た途中、川茂のお石さんを見に五所神社へ立ち寄つた。
みんながお石さんの出来栄えに感嘆して見物していると、その中に一人、何だかんだとひようきんな事を言っては人を笑わす者がいた。
「おいおいおめだち。おんなんもんをここんとここちよこちよつとやると………。」と、指先であそこをもみもみしたのでみんなが笑つた。
調子に乗ってその者が、「うちのカアちゃんは今頃へんな気分になっとるかもわからんぞ。」と言ったのでまたみなが暴笑した。
ず― と後になって、壮年の仲間の宴席でこのお石さんの事が再び話題になった。
その者が「や―、たまげたなあ。やっぱり神さん石だけあって利きめがあるんだわ。帰ったらいつもと違うてカアちゃんが燃えたっちゃあ……。」
と言ったので、またみんながどっと笑つた。
他の一人が「そんならこんなら、おれもやつてみんならん。 うちんのんなかなか燃えんしなあ。」と言うと、ひやかし半分に「そのんこと言うて、オレんとこのカカを念じてやるなよなつ 。そっちへ気を向けるようになったら大ごとだからな」 と言ったのでまた爆笑になった。
川茂のお石さんにはあれもちゃんとついとるので、もみに利きめが現れるというのは、金井の壮年グループの仲間であって、川茂の人たちはそんな事は言っていない。
風間氏の言うように、川茂の人たちは、生れた子どもがすこやかに育つよう念じてやさしくさすってあげるための「子安石」なのである。
「赤泊の民話」を参照

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