
「沢崎の 灯台に身を なぞらえて はし鷹立てり 一つの岩に」
ー 与謝野晶子

佐渡の「沢崎鼻灯台」(さわさきはなとうだい)へやって来ました。

場所はどこかというと、こんなとこ。
佐渡の北東端が大野亀・二ツ亀だとすると、ここは南西端ということになります。

ようは、佐渡の端から端まで、きちゃった♡ということです。
灯台の下あたりは少しひらけていて、遺跡が発掘されていました。
これは佐渡奉行所が、江戸時代後期に異国船の来襲に備えて島の沿岸部に大砲の台場を構築した跡のようです。

この先の海は、異国とも繋がっている。

海岸に向かって歩いていると、可憐な黄色い花が咲いていました。

おお、これはあのトビシマカンゾウではないですか。
「飛島萱草」(とびしまかんぞう)は日本では、山形県酒田市の北西にある飛島と、佐渡島にのみ分布する多年草だといいます。

与謝野晶子は、この沢崎鼻灯台ができて間もない昭和9年(1934年)の夏に、夫婦で佐渡を訪れました。
そこで船に乗り、海の上からこの灯台を眺めたと云われています。
翌年の昭和10年に、夫の鉄幹は、気管支カタルがもとで亡くなりました。

与謝野夫妻もこの幸せの、黄色い花を見れたのだろうか。
群生地として知られる大野亀を僕が訪れた時は、少しばかりの花を残すのみとなっていました。
その花がこんな島の果てで、僕を待ってくれていたことに感動です。

トビシマカンゾウの開花時期は5月~6月で、黄色味がかったオレンジの花を咲かせます。
海の近くの断崖などに咲くユリの花は、荒涼とした景色の中で、健気で可憐に見えました。



小佐渡の南西部、総延長8kmほどの海岸線は小木海岸と呼ばれ、国の天然記念物及び名勝に指定された、変化に富んだ景勝地となっています。

その一角、「矢島・経島」(やしま・きょうじま)へとやって来ました。

島に向かって歩いていると、「お光の碑」というものがあります。

その昔、小木にたらい舟で磯ねぎ漁をする”お光”という娘がおりました。
ある時、柏崎から漁をしに佐渡に渡った吾作は、海が荒れて家に帰れなくなってしまいました。
しばらく小木に宿を取ることにした吾作は、美しいお光に一目惚れします。
こうしてお光と吾作は、恋仲になっていったのでした。

やがて海も穏やかになり、吾作は柏崎の家へ帰ることにしました。
お光は吾作を引き止めます。
しかし吾作は柏崎に妻子がいることを打ち明けるのでした。

おどろいたお光は、泣く泣く吾作と別れました。
しかしその後も、お光の胸に日に日に吾作への想いが募っていきます。
ついに決心したお光は、たらい舟を漕いで吾作のいる柏崎へと渡っていったのでした。

柏崎まで自分に会いに来てくれたお光に吾作は嬉しくなり、逢瀬を重ねました。
柏崎の諏訪神社の境内が、ふたりの逢瀬の場所となりました。

しかしお光の幸せは、長く続きませんでした。
毎夜毎夜、たらい舟を漕いで渡ってくるお光を、吾作は次第に疎ましく、恐ろしくなったのです。

ある夜、お光が目印にしていた番神岬の灯火を、吾作は消しておきました。
すると目印を見失ったお光は海を彷徨い、ついに帰らぬ人となったのです。
その亡骸は青海川に打ち上げられたということです。

島の果てにあったこの建物は、神社かと思いましたが、矢島に今から100年以上前に建てられた山本梯二郎氏の別荘だということです。
山本梯二郎は真野新町出身で農林大臣を務め、実業家として台湾製糖業の発展にも貢献した人だということです。

矢島・経島はかつて、海に浮かぶ離れた二つの小島でした。

右の大きな島が矢島で、良質の矢竹を産した所と云われています。
源の頼政が紫雲殿の怪物「ぬえ」を退治した時の矢は、ここの竹製であったと伝えられます。

小木海岸一帯は地殻変動の激しいところで、過去数回にわたり隆起・沈降をくりかえしています。
特に激しかったのが江戸時代の享和2年(1802年)12月9日の佐渡小木地震で、マグニチュードM6.5から7.0と推定されています。

この地震で小木半島の海岸は約2mの隆起が生じたと考えられており、この時、矢島・経島も一つづきの島になったといわれています。
隆起して複雑な形になった海岸は漁にも影響を与えましたが、岩に囲まれた内海では磯ねぎ漁が盛んになり、たらい舟が考案されたと言います。
そのたらい舟も今では観光化され、佐渡の風物詩の一つとなりました。

ところでお光は、この小木から本土の柏崎まで、毎日たらい舟で渡ったとされます。
ジェットフォイルで67分、カーフェリーで2時間30分かかる荒海を、です。

きっと彼女にはロリかわイカ娘・由良himeちゃんのDNAが受け継がれていたに違いありません。
青海川に打ち上げられたという遺体は別の人のもので、お光はその後もたくましく生き続け、いい男に巡り合って幸せになったとさ。
でもまあ、とりあえず、

篁、人麿、吾作、そこに正座!



新潟県佐渡市の最南端、廻船業の町「宿根木」(しゅくねぎ)へとやって来ました。

佐渡は地形的に北側の「大佐渡」と南側の「小佐渡」、その間を繋ぐ「国中平野」に別れます。
日本海からの季節風の影響を受け、冬には深い積雪がある大佐渡に対し、小佐渡は比較的温暖で積雪も少なめです。
小佐渡は海岸線も外海府に比べると穏やかで、果物の栽培なども盛んです。

文化的には、国仲の「公家文化」、相川の「武家文化」、小木の「町人文化」に大別されます。
国仲の文化は、中世の頃から配流されてきた順徳天皇、日蓮、日野資朝、世阿弥などの影響を受けたもので、相川と小木は、戦国時代から近世初頭にかけて、金山と廻船による商品経済への移行が大きく影響しています。

宿根木は中世の頃より廻船(海運)業を営む者が居住し、最盛期の宿根木浦は、佐渡の富の三分の一を集めたと言われるほど栄えました。

宿根木には約1haほどの土地に、110棟の家屋が高密度で立ち並んでいます。

そこには主屋のみならず、納屋、土蔵が林立しており、往時の賑わいを感じさせます。

宿根木の名が文献に見られるようになるのは13世紀中頃のこと。
西廻海運の成立以後は、小木港が江戸幕府公認の北前船の寄港地となりました。
北前船とは、主に北陸地方以北と畿内を結ぶ廻船業の船のことで、江戸時代後期から明治初期にかけて隆盛を極めました。
宝暦年間に佐渡産品の島外移出が解禁になると、宿根木の廻船は日本各地を行き交い、港は大いに栄えたといいます。

寄港地としての重要性が高くなるとともに、船主や船乗りのほか、船大工や鍛冶屋、桶屋など廻船業に携わる多くの人々が居住するようになりました。
船大工らは建物の外壁に船板や船釘を使った意匠をこらし、素朴ながらも彼らの粋を感じる家屋が増えました。

宿根木集落の特徴は家屋の密集性にあり、そのほとんどが板張りで作られた外壁を持つ2階建ての家屋となっています。

古くは多くの建物が平屋だったのですが、人が集まるにつれ階高を上げるようになり、総二階とすることで接客空間を増やし、人が集まれる座敷を造り、今の町並みへとなっていきました。



宿根木の町はさほど広いものではありませんが、まるで迷路のようで、散策も楽しいところです。

神社としては白山神社があり、個人的にもワクワクしました。

10月第2土曜日曜に奉納される芸能「ちとちんとん」は、そのむかし当村の廻船が長州山口県「つの島」の難所を通過する時、初めて乗船した若者が、初航海の習俗として船玉明神に奉納した安全祈願の踊りが発生の起源だと伝えています。

さて、佐渡に来たなら、一度は乗ってみたい「たらい舟」。
佐渡でたらい舟に乗れる場所は、矢島・経島の「矢島観光」と小木港の「力屋観光」、それと宿根木の「はんぎり」の3ヶ所があります。
それぞれのサービスに特徴があるようなので、気に入ったところで乗るもよし、時間と予算に余裕があるなら制覇するもよし。

僕もぜひ”たらい舟”に乗せてもらおうと思い、宿根木浦の”はんぎり”さんにやって来ましたが、着いた時は待ちの先客さんがいたので、予約をしてもう少し宿根木を散策することにしました。

そこで先ほど狙っていたカフェに入ることに。

茶房「やました」さんは、宿根木の納屋を改装した、温もりあふれるお店です。

一見強おもてなご主人ですが、話してみるととても気さくで、楽しい方でした。
暑さで疲れた体に、スイーツの甘みが染み込みます。

ご主人の勧めで2回に上がらせてもらうと、テーブルがたらい舟になっていました。
赤い縁取りが素敵。

そうしていると、ちょうど良い頃合いになったので、はんぎりさんへ向かいます。

宿根木浦に着くと、

先客さんが戻って来られるところでした。

はんぎりのオヤジさんがおっしゃいます。
「うちは今、日本人女性の船頭と外国人男性の船頭がいるんだけど、外人さんの方でもいい?」
見てみれば、女性船頭さんは連続で漕いでいらっしゃるようでした。
「僕は英語喋れませんが、大丈夫ですかね」
「大丈夫、大丈夫。彼も日本語ほとんど喋れないけど、ジェスチャーでどうにかなるから笑」
ということで、僕は外国人船頭お兄さんのたらい舟に乗り込み、どんぶらこ、どんぶらこと、海を彷徨うのでした。

宿根木浦では、古い火山活動により形成された複雑な海を間近で見ることができます。

海面から突き出た不毛の岩は幽玄で、淡い光と相待ってこの世とは思えぬ世界を映し出します。

いつもは底が見えるほど透き通った海なのだそうですが、朝からの雨で田んぼの土などが海に流れ込み、今日はやや濁っています。

しかしこれは、これで良い。
その日その時の奇跡を、楽しめば良いのです。

船頭兄さんも、頑張って漕いでくれてます。

たらい舟は大きな味噌樽を半分に切って使っていたこともあり、それで「ハンギリ」と呼ばれることもあるのだそうです。

空と海が近い世界。

おけさ笠をかぶって佐渡弁をしゃべるお姉さんのたらい舟も良さそうですが、カタコトの日本語で案内してくれる、はんぎりのお兄さんのたらい舟は、良い思い出となりました。

岸について、お礼に、お兄さんに壱北里柴三郎のチップをお渡ししました。
はんぎりのオヤジさんが「おおっ、チップもらうのはじめてやねぇ、よかったねぇ」っておっしゃって、船頭さんも嬉しそうでした。

「佐」の神が宿る越の島。
そこには、美味しい食べ物と、北と南で違った風光明媚な景色がありました。

佐渡の南の果ての町では時が止まり、賑やかだった頃の声が聴こえてきます。

爽やかな風が吹く佐渡の島には素敵なものがたくさんありましたが、1番の魅力は、そこに住む温かな島民の人柄なのかもしれません。

そのようなことを、宿根木の町を訪れて、思ったのです。

宿根木の町並み、別件で北前舟について調べていたときに訪れ、何も変わっていなさそうな雰囲気に安心しました。
異国から来て船頭をする彼の背中に、文化を肌で知ろうとする、はるか昔の若き頃の身内を思い出します。
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金山が世界遺産になったことで、いずれ佐渡も観光客で溢れるのかもしれません。が、今の景色も、人も良い佐渡であってほしいですね。
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たらい舟!
先日頂いたお土産(だらだらおけさたらいショコラサブレ)の内容がようやく繋がりました 笑
お土産、とてもおいしかったです!
ありがとござますー
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こちらこそ、ありがとうございました。
栗饅頭、おいしかったです😋
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🐥お光の逢引きの手立てをした人物が何処かに存在した可能性がありますな。本土付近までお光を通常の船で運び、岸に近くなるとお光をたらい舟に乗せて漕がせた…そう考えると、灯台の灯りを消してお光を遭難させようとした陰謀にしても、途中でお光を乗せた船舶に気づかれて船舶ごと佐渡に引き返した可能性があります…本土に打ち上げられた亡骸が一体誰のものだったのか、考えれば考えるほど気の毒としか言いようがありません🐤
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お光というだけあって、灯台の光がなくとも、お光自身が光っていたのでしょうな✨✨✨👧✨✨✨
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🐥お光〜〜‼️おみつ〜〜〜‼️(サポーターの叫び)
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