
小笠原に来たら、あまり細かなことは考えずに過ごすのもアリだと思う。
でも今、この遠く離れた小さな島々が日本であり、そこに平和な時間があるのは、昔の人たちの思いがあってのこと。
だから、それを学ぶ時間もまた、大切なのだと思う。
琉球と呼ばれた沖縄、蝦夷と呼ばれた北海道とはまた違った過去を持つボニンアイランズ。
その歴史の扉を、少し覗いてみるのである。


小笠原諸島・父島の中心地は、おがさわら丸が寄港する「大村」になります。
2020年時点の人口は、父島2173人、母島456人で、自衛隊などの公務員は父島・硫黄島・南鳥島に常駐しています。
多くの宿や商店・飲食店がここにあり、ほとんどの人が大村を拠点に父島を散策されることになるかと思われます。

その大村集落などは特にそうですが、南国の風情というか、どこか異国の趣さえ感じます。

実は小笠原の最初の定住者は日本人ではなく、江戸時代の天保元年(1830年)になってやってきた、欧米人5名とハワイ人15名の人たちだったことも関係あるのかもしれません。

小笠原の物価は、僕が感じたところでは、さほど高いとは思いませんでした。
離島ゆえ、運搬費などが上乗せされていると思っていたので意外でした。

しかしガソリンだけは別で、目が飛び出るくらい高いです。
それも国の補助があっての金額ですので、普通にレギュラー300円くらいすることになります。
島民割があるのか聞いてみましたが、そのようなものはないそうで、島に暮らす方の燃料費は、相当負担が高いことになります。



大村の背後にある大神山の山腹に「大神山神社」(おおかみやまじんじゃ)が鎮座します。
当社は文禄2年(1593年)、徳川家康の意を受けて南海探検に出た家臣の「小笠原貞頼」(おがさわらさだより)により小笠原が発見され、このとき「大日本天照皇大神宮の地」と記した標柱が父島に建てられたことに由来する、とされています。

小笠原貞頼は徳川家の家臣で、信濃国守護の小笠原長時の孫、小笠原長隆の次男、松本城城主・小笠原貞慶の甥にあたるとされています。
しか小笠原諸島が貞頼により発見されたという話は、あくまで伝説であり史実ではないと考えられています。
享保12年(1727年)に彼の子孫と称する浪人者・小笠原貞任(さだとう)がその確認と領有権を幕府に訴えましたが却下され、貞頼の実在も否定されました。
さらに貞任は身分詐称の罪で重罰を課せられています。

日本史上で記録されるものとして、寛文10年(1670年)2月に紀州の蜜柑船に乗った長右衛門ら7人が母島に漂着したという事件があります。
彼らは一人を除いて伊豆下田に帰還、その後、下田奉行に島のことが報告され、奉行所から幕府に伝えられました。
これを契機に、幕府は調査に乗り出すのですが、苦労の末、延宝3年(1675年)に島谷市左衛門らが父島に上陸を果たします。
この際、調査団は当社の元となる天照大神宮を建立しました。

小笠原の島々は、そもそも完全な無人島で、歴史上最初の記録では1543年にスペイン船「サン・ホアン号」が中父島・母島を発見し「2人姉妹」と名付けたといいます。
島谷市左衛門らはこれより130年ほど過ぎた1675年に幕府に詳細な島の報告書を提出。この時小笠原の島々が正式に「無人島」(むにんしま)と名付けられました。
この報告書が、後に日本の領有宣言に、大いに貢献することになります。

天明5年(1785年)林子平(はやししへい)により『三国通覧図説』(さんごくつうらんずせつ)が書かれました。
この中で初めて「小笠原島」という名称が使用され、その経済的可能性について論述されていますが、同じ林子平の著書『海国兵談』が外国から日本を守るための軍備の必要性を説いた本であったため、幕政に合わず、松平定信に疎まれ、寛政の改革時に『三国通覧図説』ともども発禁となりました。

大神山神社から少し登っていくと、

二見湾を見下ろす、素晴らしい景観の展望台がありました。

この二見湾の名の由来は、伊勢の二見浦にある「夫婦岩」に似ている岩があるからなのだそうです。

僕が乗ってきた”おがさわら丸”も気持ちよさそうに、お昼寝をしていました。



文政6年1823年9月、イギリス捕鯨船「トランジット」が母島に寄港し、船長ジェームス・コフィンは船主のフィッシャー商会にちなんで島をフィッシャー島と命名しました。
天保元年(1830年)、 ナサニエル・セイヴァリーら白人5人と太平洋諸島出身者15人がハワイ王国オアフ島から父島の奥村に入植しました。この人たちが記録にある小笠原諸島の最初の定住者となります。
安政4年(1857年)、 モットレー一家が母島に居住。

文久元年(1862年)、幕府は外国奉行「水野忠徳」、小笠原島開拓御用「小花作助」らに命じ、アメリカから帰還したばかりの「咸臨丸」(かんりんまる)で小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣しました。
一行が小笠原諸島を巡視した際作成した『小笠原島視察復命書』には
「島々の配置は、南北に連なり、あたかも家族のように並んでいるので、中央を父島群島、南を母島群島とし、北を聟島群島とする」
と記載され、これが父島、母島、聟島の由来にもなったとされます。
また、先住者に小笠原が日本領土であることを伝えますが、今後も先住者の生活を保護することを条件に同意を得ました。
そして文久2年5月、駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告しました。

父島に「咸臨丸墓地」という場所が、ひっそりとあります。

ここには、咸臨丸の船員「西川倍太郎」の墓、朝陽丸の水夫「三代吉金右衛門忠蔵」らの墓と合わせて、1669年-1740年にかけて小笠原に漂着し、また漂流中に死亡したと思われる人々のための「冥福の碑」が置かれています。

明治9年(1876年)に小笠原が日本領として国際的に認められ、以後日本人移民が島に定着していくことになりました。


父島・扇浦の対面、納涼山と呼ばれる場所に、

小笠原諸島の発見者と伝えられる小笠原貞頼を祀る「小笠原神社」があります。

『小笠原民部記』によれば、文禄2年(1593年)、文禄・慶長の役の帰陣に際して、「貞頼は小田原の陣以来数度の戦功にもかかわらずいまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出したとあります。
この探検によって貞頼は3つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとのことです。

明治15年(1882年)欧米系住民の全員が、日本に帰化し日本人となりました。
大正時代にかけては国の奨励もあり、小笠原へ本土からの移民が増え続け、大正後期には人口7,000人を超え、大いに発展したのだといいます。
しかし戦争が始まり、昭和19年(1944年)に戦局の悪化により、島民6,886名が本土へ強制疎開を命じられます。
父島は要塞化され、その後、本土防衛の最前線であった硫黄島は激戦地となり、日米両軍合わせて28,721名の命が奪われました。

昭和20年(1945年)、日本の敗戦により、小笠原諸島は米国の占領・統治下に置かれました。
昭和21年(1946年)には欧米系の島民に限り帰島を許され、135人が父島に戻ってきました。
島での公用語は英語とされ、日本語の使用は禁止されました。
島の決め事は「五人委員会」という島民代表委員会で決められ、他の日本人は墓参すら許されませんでした。

昭和27年(1952年)、小笠原諸島は奄美諸島・琉球諸島と同様、対日講和条約により日本から分離され、米国の施政権下に入りました。
奄美諸島は昭和28年(1953年)12月25日に「クリスマス・プレゼント」として返還され、小笠原は昭和43年(1968年)6月26日に返還、沖縄は昭和47年(1972年)5月15日に日本に復帰しました。

小笠原神社の参道脇に、3つの石碑があります。
これは大久保利通による撰文・篆額の「小笠原開拓碑」と呼ばれる物で、明治政府が小笠原開拓の意義を説いたものです。

これは「にほへ碑」といい、

幕末に、役人が子供たちに読み書きを教えたころの筆塚で、小笠原貞任によれば、「いろは」「にほへ」「とちり」と彫った碑が3つの島にあるとのことです。

もう一つある石碑は開拓の意義を説いた「小笠原新治碑」と呼ばれる物でした。

今は楽園のような父島・母島にも、厳しい歴史がありました。
僕が訪ねた限りでは気がつきませんでしたが、島民の中には、西洋風の顔立ちの方も少なくないようです。

小笠原弁には、英語やハワイ語の語彙と八丈島の方言、日本語共通語などが混合された、独特の言語が存在するとのことです。
民謡には伊豆諸島の系統を引く大和民族的なものと、南洋諸島に移住した島民などから伝えられたミクロネシア系民族の影響を受けたものが共存しています。
後者の民謡は『南洋踊り』と呼ばれ、2000年に東京都指定無形民俗文化財となったのでした。

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