
群馬県太田市新田の「生品神社」(いくしなじんじゃ)を訪ねました。

当社は元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇より鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた「新田義貞」(にったよしさだ)が旗揚げをした地であると伝えられます。

境内は「新田荘遺跡」の一部として国の史跡にも指定されています。

主祭神は「大穴牟遅神」(おおなむちのかみ)となっており、平将門の弟「御厨三郎将頼」の霊を祀ったとも伝えられます。

創建は不詳ですが、豊城入彦(とよきりひこ)が鎮護のため大己貴命を祀ったとも伝えられ、これが本当なら、豊彦が祀った大名持(おおなもち)とは誰だったのか、と気になります。

豊城入彦(豊来入彦・豊彦)の母親・豊玉姫は、偉大な月読みの媛巫女でした。
大分・豊王国(宇佐)の豊彦は物部のイクメと共に大和へ遠征し、大和入りを果たします。豊国から来たので、彼は大和で「豊来入彦」と呼ばれました。
豊来入彦の妹「豊来入媛」(豊姫)の行う月読みの神事は、大和で絶大な人気を得るのですが、それを妬んだイクメは、豊兄妹を欺いて大和から追い出します。
不意をつかれた豊来入彦が逃げ込んだのが上州・上毛野国(群馬)だったということです。

東国、とくに群馬一帯は第二の豊王国となり、のちに彼は赤城山などに祀られることになります。
豊来入彦の子孫「竹葉瀬ノ君」(たかはせのきみ)は秘密裏に神功皇后(オキナガタラシヒメ)の養子に迎え入れられ、応神大君となりました。



鈴さんは50歳の時に離婚され、当時太田高林に住んでいた娘・佐織さんのところへ移り住まれたそうです。
その後、太田市内を転々と居を移されたようなのですが、それには意味があったのだろうと、佐織さんはおっしゃいます。
その一つが新田義貞の神社の近くだという話を聞いたのですが、その神社とはこの生品神社のことだろうかと思い、訪ねてみました。

鈴さんは月読みをされたそうなので、生品神社が豊来入彦にゆかりのある神社であるのなら、そこに何か感じたのかもしれません。
鈴さんは17歳の時、鳥取の境家に嫁いだ叔母に連れ出され、東京へと移り住むことになりました。
そこで三島由紀夫ゆかりの某所でしばらく働いて暮らしていましたが、やがて叔母の友人という人と鈴さんは仲良くなり、その友人から群馬にたびたび遊びの誘いがあったとのことです。

群馬で鈴さんはある男性を紹介されます。その男性とは、鈴さんを群馬に誘い出した叔母の友人女性、そのイトコでした。
そのうち、男性の祖母から「東京から遊びにくるのは大変だから、仕事は辞めて群馬に来い」と言われて、すぐに鈴さんとその男性の結婚が決まったということです。
そして、なぜか、鈴さんの妹も桑野内の橋本から呼び出されて、そのまま男性のイトコと結婚することになりました。

これが僕が聞いた、鈴さんが群馬に来たおおよその由来です。
鈴さんは、自分が”橋本”という聖地に関わる重要な巫女であるということの自覚が、この時まで希薄だったのではないか、と僕は感じました。
宮崎桑野内の実家・橋本家では、”後ろ戸”に「鎮め石」(要石)があり、イザナギ・イザナミと子神を奉じて鎮め奉っていました。
鈴さんも17歳になるまでに多少の祭祀に携わってはいたことでしょうが、世俗と切り離された環境で、それは日常的であり、自分が特別な存在であるという認識は薄かったと思われます。

鈴さん、あるいは佐織さんもですが、意図的に特定の男性と結婚することになって、次第にその違和感に気づき、自らの血筋の特殊性が実感されたのではないかと思います。
凄まじく閉鎖的なコミュニティは、世の歴史から”橋本”を隠し、明治期の動乱から彼女たちの存在を守るためであったのだろうと推察されます。
桑野内で阿蘇を鎮め奉った橋本家は、群馬では富士を鎮め奉ったのかもしれません。

50歳で離婚し、群馬の家を出た鈴さんではありましたが、そこから遠く離れるわけでもなく、この地で何かを祈るように移り住み続けました。
そんな彼女の思いを綴る役割を少しだけ、身勝手ながらも僕は託されたような気がしたのです。

こちらの神社もとても素敵ですね!僕が住んでいる地方ではそろそろ秋祭りシーズンに入ります。香川県や愛媛県を中心に各地域の神社で獅子舞やだんじり、太鼓台などが頻繁に動き出し、賑やかさが増す時期の到来となります。祭り好きなおかげでこうした神社巡りも好きになりました。
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