
明治三十年頃、石見国大田町なる南八幡社の石崎社司が、境内の裏手にある石宮の台石が腐触したので、氏子の田原嘉惣兵衛なる石工を傭うて、台石の修繕をさせることにした。
その日、嘉惣兵衛は道具を携帯して八幡社へ行き、何気なく右の石造の小祠の石の扉を開けたところ、五、六寸ばかりの淡黒い、首玉入りの小蛇が数百疋塊団をしていたのが、扉の開くと共に、いっせいに嘉惣兵衛に飛びつき、膝から胸の方へ登りあがる。
嘉惣兵衛は意外なものに襲撃せられ、あっと声を挙げて、夢中になって両手で群蛇を掻き落とし、道具類をそのままにして山下の社司方へ逃げて行き、モウ二度と仕事に行かぬと言って色をなくして恐れている。
しかるに石崎社司は笑って平然たるもので、それは気の毒であった、自分がウッカリ失念して言っておかなかったから驚いたであろう、なにも恐がるにはおよばぬ、自分がおさめてやるからついて来いとて、藁蓋(さんだわら)を一枚と小さい御幣とをさげて八幡社へ行き、かの石の宮の横へ藁蓋を置き、御幣をふって、なにか祝詞を奏(あ)げてから、御幣を藁蓋の中央に挿した。
すると不思議、そこらじゅう散らばっていた数百の群蛇が、かの御幣を中心にして残らず藁蓋の上へ集合し、おとなしく一塊(ひとかたまり)になって静止をしたので、それから嘉惣兵衛は安心をして仕事にとりかかり、夕方に修繕をおわった。
右の小蛇は外道の一種にて俗にトウビョウとよばれ、これを飼養する家は銭に不自由せずといわれるものであった。
かくて石崎社司はまたやって来て、蛇群の芯柱(しんばしら)となっている彼の御幣を抜き取り、二、三回左右に振ってなにか唱えおわると、蛇はぜんぶ 団魂から解けて、ゾロゾロ這い出しながら、元の石祠の中に納まってから扉は閉ざされたのであったが、蛇群の社祠に対する状態は純然たる家畜のごとくであったから、石工は不思議に眺めていたという。
この蛇群はすでに約四十年前から石官に封じこめられており、一定時に食物を与えられるも、誰も知るものはなかったが、ここに至って町民の知るところとなったという 。
~岡田 建文 著『妖獣霊異誌』(動物界霊異誌)より


島根県大田市大田町大田ロに鎮座する「鶴岡南八幡宮」(つるがおかみなみはちまんぐう)に、シズさん、モモさんと共にやって来ました。
当社は小高い鶴岡山に鎮座し、境内からも大田町を一望することができます。

鎌倉時代前期の嘉禄2年(1226年)に、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建されたと伝えられ、鎮座する山はそれによって鶴岡山と称するようになったといいます。

祭神は「気長足姫命」(神功皇后)、「誉田別命」(応神天皇)、「武内宿禰」の三柱。「比売神」を含むとする情報もありました。

大田市には北部に「喜多八幡宮」があり、そちらが「北八幡」とも呼ばれ、当社は「南八幡」と呼び親しまれています。

神紋は鶴岡にちなんだ鶴ですが、物部神社の祭神が乗ってきたのが”鶴”ですので、ここの鶴にもまだ何かありそうな気がしています。

境内には安政3年(1856年)建立で県指定文化財の経堂「六角経堂」が残ります。
内部には源頼朝が寄進し、尼子経久が修復したと伝えられている鉄塔が納められており、そこから経筒165口(168口とも)・経石・懸仏2・飾金具2・鉄製品1・泥塔1・土器1・銭貨667枚が発見されているとのこと。
鉄塔には、六十六部廻国行者が巡拝の際、法華経を収めた経筒を投函するわけですが、石崎宮司によれば、この経筒165口が1箇所に集められていることが異例のことで、謎だと話されていました。

石崎宮司は明朗快活な方で、神職さんたちの講師もされており、とてもわかりやすく説明してくださる宮司さんです。
この後の物部神社鎮魂祭にもお手伝いに呼ばれている、忙しい宮司さんですが、シズさんが懇意にしてある宮司さんのお一人で、この日も多忙の合間をとって僕らのために時間を設けてくださいました。
シズさんの人脈の深さにも、驚きです。
そして南八幡は何気にすごい神社なのですが、僕の好奇心を激刺激したブツは、この本殿の裏にありました。

背後に境内社がいくつか鎮座してるのですが、そこに石の社がひとつあります。
これについて、石崎宮司が次のように、話してくださいました。

令和になったある日、とある参拝者が宮司の元を訪ね、「ここに石の祠があるらしいので、場所を教えて欲しい」と言ってきたのだそうです。
ところが宮司は思い当たるものがなく、「それはどこからの情報ですか?」と参拝者に尋ねました。
すると参拝者は、『妖獣霊異誌』という本に書かれていた、と告げたとのことです。

『妖獣霊異誌』は、昭和2年(1927年)郷土研究社刊の岡田 健文著『動物界霊異誌』を近年にあらためて編集したもの。
同じ叢書に柳田國男の『遠野物語』『山の人生』、佐々木喜善『老姐夜諄』などがありますが、本書はあくまでも”動物による妖異現象は存在する”との前提にたったもので、著者が身近に聞いた体験談などが中心として記された書物です。
件の話は、当誌の「外道」の項目に「トウビョウ」として記されていたものでした。

この『妖獣霊異誌』の著者「岡田 健文」氏は島根県松江出身の心霊主義者で、松陽新聞の記者を経て、心霊関係の雑誌『彗星』を発行していたということ以外は、あまり知られていません。
この岡田氏について興味を持った方がいて、『野菊のハッカー』というサイトに17記事において詳細に調べてありました。
それによると、岡田は大本教の関係者であり「出口王仁三郎に仕事を斡旋させ、谷口雅春を大本教に誘導し、浅野和三郎と一緒に仕事をして、柳田圀男のマブダチ…」という、かなりアレな人物のようでした。
ともあれ、この『妖獣霊異誌』は岡田氏の出身である島根を中心としたリアルな妖獣怪異話がてんこもりで楽しく、お値段も手頃なので、興味がある方は入手されてみてはいかがかと思います。

さて、その『妖獣霊異誌』に記されている南八幡のトウビョウの話ですが、当時の宮司が本殿裏の石の祠の台座の補修を頼んだところ、修理に出向いた石工が祠の扉を開けると、そこから数百匹もの黒い蛇が飛び出してきた、というものでした。石工がおどろいて逃げ帰ってくると、宮司は慌てた様子もなく、祠の横に藁蓋(さんだわら)を敷き、小さい御幣を立てると、蛇たちはそこに集まっておとなしくなり、石工が台座を修復し終えると、宮司の祈祷で蛇たちは飼い慣らされた家畜のように、祠の中へ帰っていったということでした。

トウビョウ…藤憑…、この時僕は、このトウビョウについてピンときていませんでしたが、家に帰って思い出しました。

トウビョウ、これだーっ!

そう、僕が唯一と言っても良い、ガチハマりしたゲームが、ATLUSの「真・女神転生 デビルサマナー」でした。
主人公・葛葉キョウジが、遭遇した悪魔と、召喚した悪魔で戦うというダンジョンゲームです。
ここで登場する悪魔というのが、世界中の神・妖怪といった類のものが主になっており、このゲームがきっかけで僕は世界中の神話に興味を持ったのでした。
いわば五条桐彦の原型を生み出したゲームであると言っても過言ではないのです。
いやぁハマってましたね。設定資料集を買ったり、チープなドラマも録画して見ましたし、小説も買って読みました。
当時スマホの前身のようなPDA「ザウルス」を魔改造して、悪魔召喚プログラム「コンプ」もどきを自作しようとさえ試みていました。

話を戻しまして、岡田 健文氏は『妖獣霊異誌』にて「外道」のことを、
「外道なるものは動物にして、自己を愛養する家には福利を与え、自己の好まざる人には病気をあたえ、あるいは物資の損害行為を投ずるなど、一種の妖魔的能力を有するものの総称で、東海道、または関東にいうクダ狐、尾サキ狐(石見にてはこれを犬神と云い、出雲伯耆にては人狐と称するは、この小型の狐の一種である)、大阪地方の豆狸、中国九州方面の妖蛇群のトウビョウ、中国地方にある蛭神、四国地方や山陽道の西部の犬神などである… 」
と記しています。
ウィキ先生によれば、
「トウビョウはヘビの憑きものといわれ、その姿は10-20センチメートルほどの長さのヘビで、体色は全体的に淡い黒だが、首の部分に金色の輪があるという。
また、沖田神社の末社道通宮など、岡山県の幾つかの神社では、白蛇と伝承されている。
鳥取県ではトウビョウギツネといって小さなキツネだともいう。
75匹の群れをなしており、姿を消すこともできる。
トウビョウの憑いている家はトウビョウ持ちといわれ、屋敷の中にトウビョウを放している家もあるが、四国では人目につかないように土製の瓶にトウビョウを入れて、台所の床上や床下に置いておき、ときどき人間同様の食事や酒を与えるという。
こうしたトウビョウ持ちの家は、金が入って裕福になるといわれる。
また飼い主の意思に従ってトウビョウが人に災いをもたらしたり、怨みを抱いた相手に憑いて体の節々に激しい痛みをもたらすという。
但し飼い主がトウビョウを粗末に扱えば、逆に飼い主に襲いかかるという」
と説明されます。

このトウビョウの祠の所在を尋ねてきた参拝者のことが気になった石崎宮司は、ふと思い立って、本殿裏の二股の木の根本を掘り起こしたのだそうです。
するとなんと、木の根が守るように抱き絡まる状態で、破損した石の祠が出てきたのでした。
驚いた宮司は、出てきた以上祠をそのままにするわけにもいかず、可能な限り修繕して、藤憑祠は再び、令和3年に本殿裏に祀られるようになったのです。
しかしなぜここに、藤憑の祠があり、それが地中に埋もれていたのか。

調べてみると、当地には古く、この”トウビョウ持ち”の家が何軒かあったのだそうです。
トウビョウ持ちの家は裕福になれたと言いますが、村人はとうびょう持ちとは交際しないともされ、結婚も反対されたようです。
やがてそうした家はトウビョウを手放そうとしますが、粗末に扱えば災いがあるとのことで困り果て、それで南八幡の当時の宮司へ預けられたのではないか、と石崎宮司はおっしゃいます。
ただ、なぜその祠が大樹の根に守られるように地中に埋まっていたかは、謎のままです。

さらに石崎宮司は、この南八幡は元は諏訪神社で、建御名方命を祀り、大田の産土大神だったとも話してくださいました。
この一帯の集落は、”諏訪”と呼ばれています。
なぜ石見国に諏訪があるのか。
諏訪と蛇神で思い浮かぶのは、「ミシャクジ神」です。ミシャクジは木を伝って降りてくる、とされていました。
『妖獣霊異誌』に出てくる民家の持て余したトウビョウを救ったのも石崎社司でしたが、再び藤憑祠を世に救い出したのも石崎宮司、奇妙な偶然です。
奇しくも岡田 健文氏が綴る奇想天外な話も、あながちでまかせともいえない事実がここにあり、また土地の方が石崎宮司に言うには、「以前この辺りでちらほら見ていた蛇の姿を、最近は見かけなくなった」とのこと。
石の祠の扉を開けるとそこには、ひと塊りになったトウビョウの姿があるのかもしれません。

narisawa110
<大本教
大元教とは関係ないですよね?(気にするところそこ〜)
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そもそも”大元”信仰とは何ぞや、という原点に戻ってしまいますね😅
石見神楽も、大元神楽が元だと言いますが🤔
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