”おさひめさん”めぐり 後編:八雲ニ散ル花 番外

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多根から「佐比賣山」(さひめやま/三瓶山)へ向かう途中、上多根字立石原(かみだねあざたていしはら)という所に、「立石神社」というものがありました。
神社とは言っても、小さな小屋と磐座があるばかりです。

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『島根県安濃郡誌』には、 
「上津森ノ立石ニ石塚アリ 少彦名命ノ降リマセシ古跡ナリト、又下津森坂根谷比賣塚ハ須勢野比賣命ノ古跡ナリト 神亀三年佐比賣山ヲ三瓶山ト改ム 一説に佐比賣山ハ境目山ノ義ナリト」
とあるそうで、この立石の磐座(石塚)にはスクナヒコが祀られているそうです。

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このスクナヒコとは事代主のことかは定かではありませんが、位置的に神門家の支配域でしょうから、神門の副王が祀られたのかもしれません。
しかしながら、この立石は出雲国と石見国の境界であったと伝えられ、むしろサイノカミとして祀られた可能性が高いと思われます。

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また、多根の佐比賣山から400mあたりのところに、雨乞い信仰のある「天宮」と、須勢野比賣の神跡である比賣塚があるのだそうです。
この立石からは見事な佐比賣山を望むことができ、また近くには「三瓶の石清水」という湧水地もあるようです。
ここに佐比賣山神社が建っていたなら、条件としてはぴったりだと思えました。

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大田市三瓶町志学の「八面神社」(やおもてじんじゃ)にやってきました。

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位置的には佐比賣山の南側となります。
今回、気比神社と本宮神社には行っていません。

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由緒には正和3年(1314年)に佐比賣山守護神として祀ったのが創始とされていますが、nari氏が言うには「878年にお大師様信仰が流行り、8社同時に”八面神社”と改名」したということです。

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明治になると神仏分離と各社の合祀化が進み、佐比賣山神社に限らず、多くの神社の祭神や由緒が分かりにくくなってしまいました。
暗闇の歴史の夜を歩むには、富家伝承が照らすともしびが唯一の手掛かりと言っても良いでしょう。
握った手綱によって、それぞれ辿り着く場所は違ってきます。

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当社祭神は「國常立命」と「伊邪那岐命」、「事解男命」。

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拝殿内には貴重なたくさんの棟札がありました。
こうしたものも歴史を解読する糸口になりうる、大切なものです。

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棟札(むなふだ、むねふだ)とは、寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念として、棟木・梁など建物内部の高所に取り付けた札のことになります。
棟札には建築年月日、施主名、大工名、工事名、工事の目的、神名などが記され、いわば「建物の戸籍」のような役割があります。
人の戸籍も自らのルーツを知る上でとても重要な制度。過去を記す記録は、軽く消し去って良いものではありません。
世に夫婦別姓を理由に戸籍制度をどうしても廃止したい人たちがいますが、日本人であることに疚しいところがなければ、そんな声が上がるはずもないことです。

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ところで、社名の「八面」ですが、お大師様・空海と八面にどう言った関連があるのか、疑問です。
僕が八面で思い浮かぶのは、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の「冠八面大明神」(かむれやつおもてだいみょうじん)です。
冠八面大明神は古我武礼神社祭神の水神・闇淤加美神(くらおかみ)と関連があり、八岐大蛇伝承もありました。
佐比賣山の八面社が8箇所の湧水地と関連があるのだとしたら、八面と水神のつながりが見て取れます。

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また多氏王朝を主張されるアシュラ氏によれば、「冠八面」は多氏の祖である「神八耳」の古い呼び名だといいます。
冠八面(かむれやつおもて)、神八耳(かむやいみみ)、まあ、なるほど、そう言われてみれば・・・。

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では石見国に多氏の国があったのか、というといやいや「八耳」の名を持つ、もっと偉大な人がいたじゃないか、ということになります。
当地の八面は、出雲王国の初代王から採られた名だと、言うことができるのかもしれません。

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雄大な神奈備である「佐比賣山」(さひめやま)
和銅6年(713年)、元明天皇(げんめいてんのう)の詔によって編纂された『出雲国風土記』によれば、「郡郷山野の名を3文字なら2文字に、凶音(きょういん)をもつ名は好字に変えるように」との命が下ったのだといいます。
よって神亀3年(726年)、佐比賣山は「三瓶山」(さんべさん)に改名することになりました。
やがて1200年の時が過ぎた昭和29年(1954年)、市町村合併時に、佐比賣村(さひめむら)は三瓶町(さんべちょう)に改名し、石見地方から「佐比賣」の名は消えてしまいました。

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しかし富家伝承では、佐比賣山は女神の隠る山であり、古代出雲族はその神奈備に昇る朝日を、「太陽の女神」として崇めたと伝えています。
佐比賣(さひめ)とは出雲の原初の王・クナトの后である「幸姫」(さいひめ)のこととも。
古来から続く名前には重要な意味があり、それを変えてしまうと、僕らは大切なものを見失ってしまうこともあるのです。

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ときに最近では、「出雲口伝」という呼び名が「富家伝承」を指して広く使われる傾向になってきたと感じています。
出雲口伝という響きは、確かに今風なオシャレな印象もあり、今後一層、そう呼ぶ人が増えてくるのだろうと察します。
しかしこれは富家伝承だけでなく、出雲地方に伝わる種々の口伝全般を指す、という意味合いにも受け取ることができます。
また今風であるが故に少々安っぽく、数多あるオカルト系・スピリチュアル系の古伝・口伝と同類の響きも感じられます。富先生ならば、おそらくこの呼び名は嫌われることでしょう。
富家伝承は時世の思惑を一切排除し、旧王家・本家にのみ厳格かつ正確に口伝されてきたという点で、他の有象無象の古史古伝・口伝とは、精度・確度において一線を画するものだと、僕は信念を持って主張します。
ですから、この『偲フ花』においては大元出版と富師匠に敬意を表し、『富家伝承』もしくは『富王家伝承』という呼称にこだわらせていただきたいと思っています。
願わくばこの先、「神門家伝承」などの偉大な口伝が世に出てきてほしい、という願いも込めて。

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さて、佐比賣山という名は、とても重要な歴史を秘めた名前だと申しましたが、では三瓶山という名は単に出雲の偉大な女神の名を貶めるためにつけられたのでしょうか。
正直僕は、そう思っていました。
しかしシズさんは、三瓶の名にも意味があるのではないか、と言います。
つまり、出雲にクナト族が来る前から当地にいた一族の一つに、甕(みか)を名乗る一族がいて、星神を信仰していたのではないか、というのです。 
そういえば、三瓶山神社は「みかめやま」と呼ばせていました。

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熊野の天宮山も今では「天狗山」と名を変えられていますが、天狗の長い鼻は富家伝承でいうサルタ彦を連想させます。
何かの理由で大事な名前をやむを得ず変えなければならなかった時、いにしえの人は、そこに後世の人に気づいてほしいヒントを忍ばせたのかもしれません。

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それにしても、ああ、なんと美しい山なのでしょうか。
どの季節でも麗しさに惚れ惚れしますが、秋色に染まる佐比賣山は、ことさら色っぽい。
彼女を崇めるとしたならば、この西の原が最も相応しいと、僕は思うのです。

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大田市三瓶町の「高田八幡宮」(たかたはちまんぐう)にやってきました。

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由緒によれば、83代土御門天皇の御宇、一祠を創設して村民崇敬せしところ、その後85代後堀河天皇の御宇、寛喜2年8月に山城國の「男山八幡宮」より勧請、とあります。
男山八幡宮とは何処ぞや、と思いましたが、石清水八幡宮のことでした。

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参道途中にあるこちらは、「八重山神社」。

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八重山神社は他の佐比賣山神社系でもちょいちょい祀られていて、少し気になります。
雲南市に同名の神社があり、スサノオが祀られているようです。

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当社の祭神は「品陀和気命」と「帯中津日子命」、「息長帯姫命」。
配祀神には「佐比賣山神」(さひめやまのかみ)と「大國主命」、「八束水臣津野神」(やつかみずおみずぬのかみ)、須勢理姫命(すせりひめのみこと)。
主祭神よりも、配祀神の方が気になる並びです。
佐比賣山神という祭神名も、ここで初めて見ました。たぶん。

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当社はかつて、佐比賣山の神霊を祀る「佐比賣山神社」とも「三瓶八面大明神」とも呼ばれ、「加多美社」(かたみのやしろ)とも称されていたそうです。
当地は高田郷と呼ばれていますので、石清水八幡宮から勧請されたから「高田八幡宮」となったのでしょう。

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さらに三瓶山の3つの瓶のひとつが天降った「三瓶社」、元は三瓶谷にあったそうですが、明治39年に高田八幡宮に合祀されました。

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三瓶山の伝説によると、噴火と共に山から3つの瓶が飛び出し、一つ目は「物部神社」(一瓶社)に、二つ目は「邇幣姫神社」(にべひめじんじゃ/二瓶)に祀られ、三つ目の瓶が今は、この高田八幡宮に祀られている、ということになっています。

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瓶=甕は星を表すので、三瓶とはオリオン座の三つ星のことかもしれません。
出芽のSUETSUGUさんも、そのようなことと次のことをおっしゃっていました。

「三瓶山、旧佐比売山には
乙子狭姫(ちび姫)と、手長土、足長土、大山祇巨人との出合いと、足長土と結婚して手長土と協力して国を開拓したという石見の地元伝承がありますよね。
それはモロ、サイヒメとクナト大神との出会い、手足の長い出雲族との出会いっぽいですよね。
サイヒメは、おチビさんだったのでしょうかね。可愛らしいですね」

三瓶山の三つの瓶伝説を真に受けて、シズさんの三瓶=甕(みか)一族説に照らし合わせると、三つの瓶が吹き飛んだという三瓶山(佐比賣山)の最後の大噴火は約4000年前になります。
その頃は奇しくも、ドラヴィダ・クナト族が出雲にやってきた時代です。
出雲の先住民族は斐伊川から良質な鉄が採れることを知っており、高い製鉄技術をもったクナト族を出雲に導いたのではないかと、僕は考えています。
そして石見の地も彼らに譲り、甕山(三瓶山)は佐比賣山になったのかもしれません。

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今回の”おさひめさん”めぐりの締めくくりに、石見銀山の「佐毘売山神社」(さひめやまじんじゃ)へ立ち寄りました。
ここと、最初の鳥居町は、佐比賣山から大きく離れています。

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僕は石見銀山自体が初めての訪問だったのですが、薄々は気づいていたのですが、ここは歩かなきゃならないんですよね、片道2kmほど。

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レンタル電動自転車や乗り合いの電動カートという選択もありましたが、歩いたよね、とにかく。

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しかもこの日、夕刻には福岡に戻って一仕事あったので、時間に余裕がなく、2kmの上り坂を早足で登り切りました。

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石見銀山一番の見どころであろう「龍源寺間歩」も無視して、ひたすら佐毘売山神社を目指します。

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あ、あったぜ。
そしてHPゼロのわいを打ちのめすラスボス級、急勾配の石段。

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nari氏も話していたように、当社は全国一の規模の山神社とされており、15世紀中頃に創建された鉱山の守り神で、銀山に生きる人々の心のよりどころとして地元では親しみを込めて「山神さん」と呼ばれていました。
nari氏は銀山を領した大内氏は河野家由来で「もしかして越智系ではありませんですかね」ともおっしゃっておられましたね。
さもありなん。

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ドイヒ~っ。。。

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当社創建については、「元々、金山姫・埴山姫・木花咲耶姫の三女神を祭った姫山神社であったが、永享6年(1434年)室町幕府第六代将軍 足利義教の命で、領主の大内氏が、石見国美濃郡益田村(現在の益田市)から金山彦命を勧請して、同時に大山祇命も合祀し、五社大権現と称したという説と、領主の大内氏によって大永年間に建立されたとの説がある」とのことです。

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では、勧請元の益田の神社はどこかと探してみると、比礼振山に鎮座する「佐毘売山神社」がありました。
なんでこんな場所に佐毘売山神社が、と調べてみると、「上古は比礼振山の山頂に鎮座し、金山姫、植山姫、木花咲耶姫の三神の姫神を祭る姫山神社が始まり」だということです。
さらに「寛平5年(893年)岐阜県中山南宮神社より金山彦命を遷して、正殿に金山彦命、金山姫命を祭り、相殿に大山祇命、木花咲耶姫命を祭り五社大権現となった」とも。
明治2年に佐毘賣山神社と改称したようです。

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石見銀山の佐毘売山神社と比礼振山の佐毘売山神社の由緒が微妙に食い違っていますが、ようは「どこに佐比賣山要素があるんじゃい」ということです。

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「せやかて、そない言われてもなぁ」

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手水には珍しく亀さんがいらっしゃいます。

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山に亀?・・・山甕!?

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どこかのサイトで、「さひめの『さ』は穀物霊や、鉄を表しているとの説がある」という一文を見かけました。
それで姫山社に『さ』をつけて「佐比賣山神社」になったのだと。

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僕らは佐比賣山は、女神が籠る山として、偉大なる幸姫(さいひめ)から名付けられたと知っています。
しかし幸姫の名前そのものが、穀物霊や鉄を表しているのかもしれません。

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我が国初の製鉄王・クナトの后となることで、土地を豊かにした幸ある姫巫女というのが、彼女の名の本質かもしれません。

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僕は幸姫も、各王家に姫巫女を嫁がせた大いなる母系王国の出自ではないか、と考えています。
便宜上名付けている、その一族が「越智」。
「白」をシンボルカラーとし、白蛇・白狐などをトーテムとし、白山、白川、白水など、そうした地名を残していった一族。
エビデンスはあるのか、と言われると困りますが、日本各地を漠然と歩いていると、ふと気になり、そうなると至る所で痕跡のようなものを見かける、不思議な一族の存在を感じるのです。

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今は金山彦を祀るという拝殿の中を覗くと、なんかいる。

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それは佐毘売山神社の準御神体である大きな銀鉱石でした。

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拝殿の下には、

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大きな銀鉱床の露頭がありました。

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うん、なかなか素晴らしい。来て良かった。

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僕は、これまでは歴史検証のために、多少なりと義務感のようなものも感じながら、がむしゃらに旅してきました。
しかしそろそろ、旅の形を変えていっても良いのではないかと考えています。

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旅したいと思った時に、行きたいと思った場所に行く。
もう少し気軽でのんびりとした、気ままな旅へと。
まあ、今までと、あまり変わらないかもしれませんが。

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