
泊まった宿は朝食のサービスが付いており、質素ながらも味わい深い朝を迎えることができました。
ご飯も味噌汁も美味しくて、朝食はこれで良いよね。

隠岐諸島・島前三島の中ノ島を南下して来ました。

島根県隠岐郡海士町崎。
前回は想定外のトラブルに遭い、電チャリで島内を巡ることになりましたので、ここまで来ることを断念していました。

当地名の”崎”は「佐伎の里」と呼ばれ、国引き神話の「北門(きたど)の佐伎の国より国引きし」の”佐伎”であるとし、神話では、今の松江市付近はここから持って来てできたと語られます。

ここにある「中良公園」(なからこうえん)は、毛利家譜代の重臣「渡邊家」(屋号中良)の屋敷跡だったそうです。
安永年間に島前の半ばを越す領地を得て、十三代渡邊新太郎は隠岐汽船初代社長に就任。明治37年と大正4年には衆議院議員となりました。

公園内には、「中地熊造」(なかちくまぞう)という人の生誕の里の石碑がありました。
中地熊造は昭和時代の労働運動家で、全日本労働総同盟の初代会長、全日本海員組合組合長だったとのことです。
彼は筋金入りの右派であったようで、私財を捨てて共産党と対決し、戦後の海員組合再建に尽した人物だったということでした。

中地熊造生誕の里の石碑の隣に、変わった木がありました。

なんでしょうね、これは。
意味深です。



佐伎の里・中良公園の正面に、小高い丘があります。

「三穗神社」(みほじんじゃ)です。

階段を登ると、境内の裏手に出ました。
こちらは裏参道ですね。

御神木に巻き付く、藁蛇さん。

「命あれば かやが軒端の 月もみつ 知らぬは人の 行く末のそら」
後鳥羽上皇の歌碑が置かれていました。
“人の命には限りがあるものだが、まさか粗末なかやぶきの軒端から月を見ることになろうとは。人の行く末はわからぬものだ”

承久3年(1221年)後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の執権・北条義時に対して挙兵したものの敗れ、隠岐へ配流されることになりました。

上皇が大しけの中、なんとかたどり着いたのが 崎の港であり、その夜は三保神社の参籠舎で一夜を過ごすことになりました。
その時の参籠舎が粗末な茅ぶきの家だったので、先の歌を詠い、境遇を嘆いたのでした。

港の方に下って行く道があります。

こちら側が表参道入口になります。

海側には、戎神社(えびすじんじゃ)がありました。

三穗神社の祭神は「事代主命」。
美穂津姫はいません。

由緒によれば、当社は崎区内に祀られていた、村社「三穂社」(旧号三穂大明神)と村社「住吉社」(旧号住吉大明神)、村社「西宮社」(旧号西宮大明神)を明治42年に合祀したものだということです。

天井から下がる鈴の先には、

橋本みっけ。

祭りの日には賑わうのでしょうか。そこはかとない哀愁が漂う神社でした。
