
島根県隠岐諸島中ノ島の南西に、「日須賀」(ひすか)という集落があります。

そこに「日御碕神社」(ひのみさきじんじゃ)がありました。

小高い丘の上に神社があり、まあまあな石段を登っていきます。

当社創建は詳らかならず。
元禄16年の『島前村々神名記』には、「日御前 日神鏡」とあり、天保4年『隠州風土記』には、 「此神雲州日ノ御崎ヲ奉遷ト云 一、日御崎大明神 社領無之正哉吾勝々速日天穂耳尊 天穂日命 天津彦根命 活津彦根命 熊野樟日命 田心姫命 湍津姫命 市岐島姫命」とあるとのこと。
明治5年の『隠岐国神社改正帖』にも「村社御崎社旧号御崎大明神」とあって、須賀区の氏神として崇敬されていました。

正保2年(1645年)に書かれた縁起書によれば、天照大御神と素戔嗚尊とともに、子の5男3女神10柱を祀るとされています。
祭神はこれをもって、「天照大御神」「速須佐男」「天忍穂耳命」「天津日子根命」「活津日子根命」「野久須昆命」「多紀理毘売命」「市杵嶋比女命」「多岐都比古命」となっていました。

日須賀の地名は、現存する隠岐の最古の地誌書『隠州視聴合記』(1667年)に「日須賀ト云フ小村アリ」と紹介されているそうで、歴史の古さを感じさせます。
夕日を望む海岸線にある日須賀と日御碕神社は、出雲市大社町日御碕の同社とどう関係があるのか。

日御碕神社と中ノ島を結ぶ点としては、日御碕検校「小野尊俊」(おののたかとし)のことが思い浮かびます。
尊俊の妻の美貌に嫉妬をしてしまった松江藩主によって、彼は罪を着せられ隠岐に配流となりました。
彼が失意のまま暮らしたというのが、中ノ島の今の隠岐神社のあたりだったということです。

今回の旅では、この日御碕神社に立ち寄る予定は立てていませんでしたが、船までの時間があったというのと、なんとなく縁を感じてぶらっと寄ってみました。

素朴ながらに風情を感じる社で、来て良かったと思います。

当社と小野尊俊の間にゆかりがあるのかどうか、分かりませんが、出雲の日御碕から夕日を眺めていたように、彼はここから、西に沈む太陽を眺めていたのかもしれません。



この日御碕神社ですが、参道の岩壁が特徴的で、その質量に圧倒されます。

どことなく知夫里島の白壁を思い起こさせるこの岩も、神社のある小高い丘から細い体を伸ばすように伸びていました。

当地を俯瞰的に見ると、隠岐諸島島前のカルデラ湾を望むような位置にあり、冬至の頃には西ノ島と知夫里島の間に日が沈むのを見ることができます。
集落名の日須賀とは、日御碕に祀られる日神(アマテラス)と須賀神(スサノオ)から取られたものかもしれませんが、「日蔭」を意味するのかもしれません。
日沈宮を祀るには、適した場所だったのでしょう。

この日須賀の日御碕神社から伸びる白岩は、海に向かって伸びており、

道路を挟んだ先には、小さな社が設けられています。

これは海の安全を見守る社だとは思われますが、

先の白岩から続くように伸びる岩の先は、沖に浮かぶ小さな島に通じているようにも見受けられます。

日御碕神社から伸びる岩と小社から海中に伸びる岩は、今は道路で挟まれていますが、かつてはひと続きになっていたものと思われます。

では、あの沖に浮かぶ島は何なのでしょうか。その情報は、全く見当たりません。

出雲の日御碕神社は、上宮太子の息子「日置王」が創建したと、富家には伝えられていました。
そこには、推古女帝も信奉した「日奉部」(ひまつりべ)も関与していたそうですが、日奉部は沈む夕日を尊重したといいます。
横腹が抉れたように見える岩の小島は、まるで常世か龍宮の入口か。あるいは古代海士島の王の風葬地だったのかもしれません。

