
大分県日田市萩尾にある「萩尾稲荷神社」(はぎおいなりじんじゃ)を参拝しました。

由緒によれば、元禄4年(1691年)、二串越中守が京都伏見稲荷神社の分神を奉紀したのが始まりとのこと。
平成2年(1990年)3月4日には、300年祭が盛大にとり行なわれたそうです。

山間にポツンとある神社ですが、当社は佐賀の祐徳稲荷、竹田市の扇森稲荷と共に、九州の三大稲荷を謳います。
とは言いましても、九州三大稲荷は倍の6社くらいが名乗りをあげていますが。

当社では、旧暦2月の「初午大祭」が有名で、大祭当日、神輿が旅所(お仮家)までお降りになるのですが、これを地元では”神様が「氏子中を見て廻る」”と説明します。

「初午」(はつうま)とは、2月の最初の午の日に行われる豊作祈願で、それに稲荷信仰が結びついたものとされます。
故に、初午詣(福詣)することを、雑節(ざっせつ)の一つとすることもあります。

雑節とは、二十四節気・五節句などの暦日のほかに、季節の移り変わりをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のこと。
五行思想に基づいており、基本的には「節分」「彼岸」「社日」「八十八夜」「入梅」「半夏生」「土用」「二百十日」「二百二十日」の9つを言います。

これに、「初午」、三元を元にした「上元」(前半年の最初の望月、小正月)、「中元」(3番目の四半年の最初の望月、盂蘭盆会)、「下元」(4番目の四半年の最初の望月)、「大祓」を加える場合もあるとのこと。
季節の移ろいを繊細に感じ取る、いかにも日本人らしい風習です。

この初午は、稲荷社の本社である伏見稲荷神社の祭神「ウカノミタマノカミ」が伊奈利山へ降りた日が、和銅4年2月7日(711年2月28日)であったとされ、この日が初午であったことから稲荷社の祭事となった経緯があるようです。

萩尾稲荷神社の初午大祭は、元来の風習に則って旧暦2月の最初の午の日に行われますが、現在では新暦2月の最初の午の日に行う稲荷社も多いようです。
そのため、元々は春先の行事だったのが、冬の一番寒い時期の行事と勘違いされがちです。
季節にも深い関わりのある行事なので、個人的には旧暦で行われる初午の方が、ありがたみを感じます。

初午参りでは、地方によって油揚げ、稲荷寿司、初午だんごを供える風習もあるそうです。
また2月11日は、全日本いなり寿司協会によって「初午いなりの日」として登録されています。

ちなみに2026年の新暦の初午は2月1日で、すでに過ぎてしまいましたが、旧暦初午は旧2月3日にあたり、新暦の3月21日土曜日になります。
春分の翌日になりますし、ひのえうま年の初午詣りに出かけるのも、乙なものではないでしょうか。



萩尾稲荷神社の祭神は「宇迦之御魂大神」(うがのみたまのおおかみ)、「猿田彦大神」(さるたひこおおかみ)、「大宮能売大神」(おおみやのうめのおおかみ)、「田中大神」(たなかのおおかみ)、「四之大神」(しのおおかみ)で、この五柱の神を合わせて「正一位五社大明神」と総称されます。

この5柱の祭神は、京都・伏見稲荷大社の祭神と同じですが、伏見稲荷大社では猿田彦大神ではなく「佐田彦大神」(さたひこのおおかみ)としています。
同社の主祭神の配置は、本殿中央の下社(中央座)に宇迦之御魂大神を、中社(北座)に佐田彦大神を、上社(南座)に大宮能売大神を据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された下社摂社(最北座)として田中大神、中社摂社(最南座)として四之大神を配します。

田中大神と四之大神については、あまり聞きなれない神ですが、伏見稲荷大社でも由緒がはっきり分かっていないとのこと。
田中大神は、一般には名のとおり「田の神」ではないかと考えられていますが、かつては大己貴神や猿田彦神、鴨建角身命などとも同一視されていました。
B氏がおっしゃるには、稲荷神社の元の神がこの「田中大神」で、三輪氏なのだそうです。
江戸時代に書かれた『雍州府志』では、伏見稲荷の上社の神を「大田命」(おおたのみこと)としていますが、あるいは田中大神とは太田田根彦のことかもしれません。

本殿の奥に奥の院があるそうなので、行ってみます。

山登りになったら嫌だなと思いましたが、奥の院はすぐ裏でした。

おお、なるほど!

奥の院と呼ばれる場所には、小さな石の祠がちらほらと見えます。

本殿の真裏には、大きな岩盤。
これが御神体かと思われます。

そして真っ赤な社殿は

岩に喰われていました。

稲荷と磐座のセットは、よく見かけられるものですが、毎回ドキッとさせられます。

背後に迫る岩も

かなりの質量感。

奥の院は社殿がもうひとつ。

扁額を見ると、荒熊大明神と、旭丸大明神・・・かな?真ん中はよく分からない。

明治以前は添田を軽て小倉へ、或いは太宰府を軽て博多へ行くには、萩尾峠を越えて行ったとのことですが、歴代代官、西国郡代も、この峠では駕籠を降りて萩尾稲荷神社へ参拝したと伝えられています。

この磐座は、それよりもずっと古い時代から、聖地の要所だったのではないでしょうか。

日田といえば、地名の由来となった「久津媛」(ひさつひめ)伝承があります。
彼女は”比佐津媛”とも記され、『豊後国風土記』には景行帝を出迎えたとあります。

久津媛は、記紀に”ツチグモ”と書かれた一族であろうと思われますが、女性ではなく男性の王だった可能性も考えられます。

また、久津媛を祀る神社がある小高い山は「惠曾山」(ゑそのやま)と呼ばれており、高貴な一族であった可能性が高いと思われます。

萩尾稲荷神社のこの磐座群は、彼らが祭祀した聖域だったのでしょうか。

境内は桜の名所である萩尾公園と隣接していますが、赤いものが見えたので近づいてみると、

そこにも鳥居がありました。

鳥居の扁額には萩尾稲荷神社とありましたが、ひょっとすると、ここが旅所なのでしょうか。

祭りの日には”神様が氏子中を見て廻る”という場所は、いしにえの王から今もずっと見守られている、そんな印象を受けたのでした。
