
ウガヤフキアエズの尊は母「豊玉姫」と逢うことはありませんでしたが、
豊玉姫の妹「玉依姫」が大切にお育てしましたので、すくすくと育っていきました。
そんな玉依姫の献身的な愛に、皇子は恋心を抱いていきます。
やがて立派な青年として育ったウガヤフキアエズの尊は玉依姫に求婚しました。
「姫、私はあなたと結婚したい!」
「え、でも私はあなたの叔母さんですよ、それに育てたのも私ですよ!!」
「そ、それでもあなたが好きなんだ!!!」
「キュン、わかりました、あなたがそこまでおっしゃるなら…」
ラブラブな二人はめでたく結婚します。

ふたりの愛の巣があった場所が「佐野原聖地」(さのばるせいち)として宮崎市佐土原町に残されています。

木々が鬱蒼と取り囲む中、二重の玉垣の中に社がありました。

イチャラブだったふたりは幸せに暮らし、4人の皇子をもうけます。
4人の息子は「五瀬」(いつせ)、「稲氷」(いなひ)、「御毛沼」(みけぬ)、「若御毛沼」(わかみけぬ)と言いました。

4人の皇子達はここで、走り回りながら育っていったことでしょう。

ある時末っ子の「若御毛沼」が長男の「五瀬」に相談します。
「僕らは天津神の子としてどこに行けば、もっとこの国をよりよく統治できるだろうか」
「ん~、真ん中じゃね?」

ということで「若御毛沼」と「五瀬」は日本の中央、東の畿内に向けて旅立つことになります。
この「若御毛沼」こそ後の初代天皇「神武天皇」その人です。
ここから「神武東征」の物語が始まってゆくと記紀は記しています。



さて、日南の鵜戸神宮へ向かう途中の山あいに「宮浦神社」(みやうらじんじゃ)があります。

朱い玉垣が美しい神社です。

この小さな神社には玉依姫が祀られています。

境内の切株には、さすが龍宮の姫にふさわしい御使いがいらっしゃいました。

建物の外観はまあ、なんですが、中に入って驚きました。

なんと立派な本殿でしょうか。
とても神々しいです。
地元の方達の、姫を愛する気持ちが伝わります。

宮浦神社から少し離れたところに、「玉依姫陵」があります。

紫陽花に囲まれた小道を歩いていきます。

いらっしゃいました。
ここが「玉依姫」の御陵だとするなら、ほど近い鵜戸神宮の「吾平山上陵」が「ウガヤフキアエズの尊」の御陵で間違いない気がします。
お互い見つめ合って、今も眠っておられるのでしょうか。

姫の慈愛がそこら中に満ちているように感じました。
さのばるせいちと読むのですね。
やはり音感というのは大事ですね。
もしかしたら、さいとばる、とは佐野命の都という意味が語源なのかもしれません
仮に西の語源が正しいとすると、昔の砂浜はもっと川にあったとされ、起点となる都?が東にある様な立地に見えません
東端にありながら西の都とはこれ如何にと思っていました。
先先代の伝承者は西都原で客死とありますが、どこであったのか気になりますね。
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火火出見は物部の祖らしいですが、狭野は誰のことでしょうね。
記紀では鸕鶿草葺不合命と玉依姫の子とありますから、豊と越智の子なのか、しかし狭野命の聖地は霧島方面に多く残りますので、やはり物部系なのか。
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武内文書だと、四男の磐余彦は佐野命とズバリでていますね
そして彼は、西都の近くに住んでいたと南九州には伝わります
たしかここは佐野命のゆかりの地であったかと
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